2014.12.06(Sat):黄昏人
第十章 四話
腕を切り裂かれた雪人は、完全に逆上していた。
恐らくは彼らの言葉であろう。まったく理解できぬ獣の遠吠えに似た声で喚き、両腕を振り回し始めた。他の雪人たちも、それに感化されたように荒れ狂ってゆく。
丸太のごとき腕が何本も乱れ飛ぶ。攻撃を受けたが最後、骨の一本や二本は折れてしまうだろう。頭などに当たれば、即座に死んでしまうに違いない。
円陣を組む形で一斉に振り下ろされてきた攻撃をかいくぐり、アスレシアは地を這った。剣を持ち直す暇もない。悪態をつきながら、凍った地面の上を転がって逃げるだけで精一杯だ。
「うぐおぉぉっ」
一体の雪人が咆哮をあげた。攻撃の合図かと思い、身体を跳ね上げる。だが、目の前の雪人は、両手を空に振り上げた形で身体を強張らせていた。幾度か虚空をかきむしる動作を見せた後、どうと地面に倒れこむ。
「アスレシア! 大丈夫か!」
痙攣する背に深々と矢が突き立っていた。アスレシアは考えるより先に地に伏した灰白色の身体を踏み越え、ぽかりとできた空間に飛び込んだ。
「……っ!」
逃すまいと伸びてきた長い爪のひとつが、彼女の左腕を捕らえる。裂かれた衣服の隙間から凄まじい冷気が侵入してくるのを感じ、眉をしかめた。傷よりも寒さのほうが痛手となりそうだ。彼女は、態勢を立て直すと手早くマントの裾を裂き、左腕に巻きつけた。
「驚いたな。見かけからは想像できない俊敏さだ」
傍らに駆けて来たゼフィオンが、忌々しげに吐き捨てた。先程、近づいてきた時の緩慢な動きは、演技だったのだろうか。だとすれば、想像以上に知能があると言わねばなるまい。
「全部倒すしかなさそうだな」
「すまない。私が、彼らを怒らせてしまった」
アスレシアは油断なく雪人たちの動きに目を配りながら、何とか逃げる事ができないかと頭を働かせた。サニト・ベイと対峙するまで、黄昏人に治せぬような傷を負う事は避けたかった。それに、この貴重な古代の生物を、こんな理由で殺したくはない。
しかし、そんな彼女の耳元で長弓が容赦なく軋んだ。
「いつものお前らしくない。迷うな」
ゼフィオンの有無を言わせぬ口調が落ちてくる。同時に、鋭い音が凍てついた空気を裂いた。放たれた漆黒の矢は、彼らの方に向き直ろうとしていた一体の雪人の右目を見事に貫いた。氷雪の亜人は耳を塞ぎたくなる咆哮を上げ、仰け反って倒れこんだ。
まだ刃を交えずに済む方法を探ろうとする考えをすっぱりと断ち切られ、アスレシアはきつく唇を噛んだ。
(……そうだ。ここは戦場だ)
自分に言い聞かせると、剣を構えなおした。
襲いかかってきた一体の手をかいくぐる。懐に飛び込むや否や、間髪入れずに下方から剣を一閃させた。腹から胸にかけて斬り上げると、血飛沫を散らす傷口に、力一杯柄頭を叩き込む。絶叫してくず折れる雪人を尻目に、身を翻して別の一体へと飛びかかった。
一番初めに腕を切り裂いた雪人だ。腹に向かって繰り出されてきた巨大な足を身軽にかわし、アスレシアは空いた手を伸ばして雪人の足をすくい上げる。そして、抗う間もなく尻餅をついた雪人の脛を叩き斬った。白い毛に覆われた片足が、弧を描いて宙に舞う。
ゼフィオンも負けてはいなかった。一体の雪人の胴を見事に射抜くと、間合いを詰められた一体には素早く剣を抜いて斬りかかった。またたく間に二体を地に倒す。
(残り一体)
心の中でつぶやく。もう大丈夫だ、という思いがちらりと脳をよぎった。直後。
脇腹から背にかけて熱いものが走り、アスレシアは身を折った。
わずかにできた油断を、雪人にとらえられたのだ。片足を飛ばされた雪人が精一杯手を伸ばし、鋭い爪で厚い防寒着もろとも彼女の皮膚を裂いていた。
「う……っ……」
次の一手をからくも剣で払う。だが、脇腹に走った激痛に力が緩み、剣はするりと彼女の手から離れて雪の上を滑った。
(しまっ……)
「アスレシア! 後ろだ!」
ゼフィオンの鋭い声にハッと振り返った。最後の一体が、好機とばかりに背後から彼女に忍び寄っていた。とっさにマントを翻し、雪人の顔に叩きつける。
相手の動きがわずかに緩んだ隙をついて、歯を喰いしばって地を蹴った。剣に飛びつくと、振り向きざま覆いかぶさってくる影に一撃の突きを見舞う。がつんという大きな手応えを伴い、刃は白い巨躯に深々と呑み込まれた。
傍らで、再び彼女に向かって腕を伸ばそうとしていた片足の雪人が、ゼフィオンの矢を額に受けて倒れる。
二体の雪人は最後の力を振り絞ってもがいていたが、やがて、命乞いとも取れる哀しげな唸り声を上げて絶命した。
二人は揃って深く嘆息した。異様な緊張が舞い戻ってくる。
「サニト!」
アスレシアは憤怒の形相で、吠えた。雪人の身体から剣を引き抜き、血の滴る脇腹を押さえ歩き出す。痛みはすでに引き始めていた。ほどなく傷は塞がるだろう。
「貴様の望みどおり、切り抜けてやったぞ!」
くすくすくす……。風に乗って、少年の嗤いが届いた。ぎりりと奥歯を噛みしめる。
少年の命ひとつを手にするために、自分は、いったいどれだけの命を奪うのか。
雪人たちの足跡を逆に辿り、小高い丘を登りきる。さっと視界が大きく開き、白い大地が前方遥かに広がった。
アスレシアとゼフィオンは、足を止めた。目の前に広がる下り坂の途中に、またしても白く大きな身体を認めたのだ。
「………」
ゆったりとした動作で立ち上がる。だが、それは白き毛並みを持ってはいたが、雪人ではなかった。氷雪の亜人よりもさらに白銀に輝く毛並みを持つ、巨大な――狼。
「いい顔しているね。二人とも」
獣が笑う、というのは、これほど不快なものか。あのクルーデン・ヒルで、彼に操られた仔猫を見ていたが、それとは比べものにならぬ凶悪さを放ち、白銀の獣王は嗤った。
強風が吹き抜ける。その拍子に美しい毛並みが乱れ、不気味に輝く真紅の石が額から顔を覗かせた。
「さあ。この伝説の獣が、僕の用意した最後のおもてなしだ。……ただし、もてなすのは一人だけれど」
滑らかに紡がれる悪魔の言葉に、二人は面を強張らせた。
「どういうことだ」
「いちいち説明しなくてはいけないのかい?」
「………」
魔石を通して、サニト・ベイの視線が痛いほど伝わってくる。瞬きも忘れるほどにアスレシアは真紅の輝きを睨みつけた。この獣の言っている事が、分からぬわけではない。だが、答えるべき言葉を見つけられなかったのだ。
睨みあう。
いつの間にか太陽は再び影を潜め、雪が舞い始めた。突風に抗いきれず、アスレシアがわずかに瞳を伏せた、その時。
がらり、とゼフィオンが弓を投げた。驚いて顔を上げた彼女と目が合うと、彼は穏やかに微笑んだ。その表情を見た瞬間、アスレシアの背筋がすうっと寒くなった。
「何を……するんだ。ゼフィオン」
だが、彼は肩をすくめただけで、何も答えなかった。お前も分かっているのだろう、と漆黒の瞳は語る。
「冗談じゃない。私も一緒に、こいつを……」
「アスレシア」
笑みを深め、彼は前方へと目を転じた。そして、静かに一言。
「先に行け」
「な……」
「あの眼を見てみろ。恐らく、死んでも俺に喰らいついてくるだろう。……あんな奴を、サニト・ベイの元まで連れて行く訳にはいかない。だからと言って、あいつを倒そうと思えば、また体力を奪われる。お前は、これ以上余計な体力を使うな」
「でも!」
「駄目だ。お前が行かなければ、すべては終わらない」
それ以上時間は与えられなかった。ザァ、と一陣の風が吹き乱れる。思わず目を瞑った彼女が再び顔を上げた時には、漆黒の巨狼が悠然と雪を踏みしめて立っていた。
「ゼフィオン……!」
ぐぅ、と喉を鳴らし、黒狼は目を細めた。アスレシアは血が滲むほどに唇を噛みしめる。
――どうして、分からぬ振りなどできようか。「行け」と言っている。「今すぐに行け」と。
震える手を差し伸べた。柔らかな毛に包まれたその首をかき抱いた彼女は、首筋に顔を埋め、血を吐くような叫びを上げた。
「必ず……。必ず、後で来い! 約束だ!」
「ウオオォォゥ」
白と黒。二頭の巨狼が同時に吠える。
アスレシアは、身を翻した。
己の心の導かれるままに走り出す。魂を揺さぶる、あの嗤い。半年間、自分を呼び続けたあの少年の顔を、涙の中に睨み据えて。
恐らくは彼らの言葉であろう。まったく理解できぬ獣の遠吠えに似た声で喚き、両腕を振り回し始めた。他の雪人たちも、それに感化されたように荒れ狂ってゆく。
丸太のごとき腕が何本も乱れ飛ぶ。攻撃を受けたが最後、骨の一本や二本は折れてしまうだろう。頭などに当たれば、即座に死んでしまうに違いない。
円陣を組む形で一斉に振り下ろされてきた攻撃をかいくぐり、アスレシアは地を這った。剣を持ち直す暇もない。悪態をつきながら、凍った地面の上を転がって逃げるだけで精一杯だ。
「うぐおぉぉっ」
一体の雪人が咆哮をあげた。攻撃の合図かと思い、身体を跳ね上げる。だが、目の前の雪人は、両手を空に振り上げた形で身体を強張らせていた。幾度か虚空をかきむしる動作を見せた後、どうと地面に倒れこむ。
「アスレシア! 大丈夫か!」
痙攣する背に深々と矢が突き立っていた。アスレシアは考えるより先に地に伏した灰白色の身体を踏み越え、ぽかりとできた空間に飛び込んだ。
「……っ!」
逃すまいと伸びてきた長い爪のひとつが、彼女の左腕を捕らえる。裂かれた衣服の隙間から凄まじい冷気が侵入してくるのを感じ、眉をしかめた。傷よりも寒さのほうが痛手となりそうだ。彼女は、態勢を立て直すと手早くマントの裾を裂き、左腕に巻きつけた。
「驚いたな。見かけからは想像できない俊敏さだ」
傍らに駆けて来たゼフィオンが、忌々しげに吐き捨てた。先程、近づいてきた時の緩慢な動きは、演技だったのだろうか。だとすれば、想像以上に知能があると言わねばなるまい。
「全部倒すしかなさそうだな」
「すまない。私が、彼らを怒らせてしまった」
アスレシアは油断なく雪人たちの動きに目を配りながら、何とか逃げる事ができないかと頭を働かせた。サニト・ベイと対峙するまで、黄昏人に治せぬような傷を負う事は避けたかった。それに、この貴重な古代の生物を、こんな理由で殺したくはない。
しかし、そんな彼女の耳元で長弓が容赦なく軋んだ。
「いつものお前らしくない。迷うな」
ゼフィオンの有無を言わせぬ口調が落ちてくる。同時に、鋭い音が凍てついた空気を裂いた。放たれた漆黒の矢は、彼らの方に向き直ろうとしていた一体の雪人の右目を見事に貫いた。氷雪の亜人は耳を塞ぎたくなる咆哮を上げ、仰け反って倒れこんだ。
まだ刃を交えずに済む方法を探ろうとする考えをすっぱりと断ち切られ、アスレシアはきつく唇を噛んだ。
(……そうだ。ここは戦場だ)
自分に言い聞かせると、剣を構えなおした。
襲いかかってきた一体の手をかいくぐる。懐に飛び込むや否や、間髪入れずに下方から剣を一閃させた。腹から胸にかけて斬り上げると、血飛沫を散らす傷口に、力一杯柄頭を叩き込む。絶叫してくず折れる雪人を尻目に、身を翻して別の一体へと飛びかかった。
一番初めに腕を切り裂いた雪人だ。腹に向かって繰り出されてきた巨大な足を身軽にかわし、アスレシアは空いた手を伸ばして雪人の足をすくい上げる。そして、抗う間もなく尻餅をついた雪人の脛を叩き斬った。白い毛に覆われた片足が、弧を描いて宙に舞う。
ゼフィオンも負けてはいなかった。一体の雪人の胴を見事に射抜くと、間合いを詰められた一体には素早く剣を抜いて斬りかかった。またたく間に二体を地に倒す。
(残り一体)
心の中でつぶやく。もう大丈夫だ、という思いがちらりと脳をよぎった。直後。
脇腹から背にかけて熱いものが走り、アスレシアは身を折った。
わずかにできた油断を、雪人にとらえられたのだ。片足を飛ばされた雪人が精一杯手を伸ばし、鋭い爪で厚い防寒着もろとも彼女の皮膚を裂いていた。
「う……っ……」
次の一手をからくも剣で払う。だが、脇腹に走った激痛に力が緩み、剣はするりと彼女の手から離れて雪の上を滑った。
(しまっ……)
「アスレシア! 後ろだ!」
ゼフィオンの鋭い声にハッと振り返った。最後の一体が、好機とばかりに背後から彼女に忍び寄っていた。とっさにマントを翻し、雪人の顔に叩きつける。
相手の動きがわずかに緩んだ隙をついて、歯を喰いしばって地を蹴った。剣に飛びつくと、振り向きざま覆いかぶさってくる影に一撃の突きを見舞う。がつんという大きな手応えを伴い、刃は白い巨躯に深々と呑み込まれた。
傍らで、再び彼女に向かって腕を伸ばそうとしていた片足の雪人が、ゼフィオンの矢を額に受けて倒れる。
二体の雪人は最後の力を振り絞ってもがいていたが、やがて、命乞いとも取れる哀しげな唸り声を上げて絶命した。
二人は揃って深く嘆息した。異様な緊張が舞い戻ってくる。
「サニト!」
アスレシアは憤怒の形相で、吠えた。雪人の身体から剣を引き抜き、血の滴る脇腹を押さえ歩き出す。痛みはすでに引き始めていた。ほどなく傷は塞がるだろう。
「貴様の望みどおり、切り抜けてやったぞ!」
くすくすくす……。風に乗って、少年の嗤いが届いた。ぎりりと奥歯を噛みしめる。
少年の命ひとつを手にするために、自分は、いったいどれだけの命を奪うのか。
雪人たちの足跡を逆に辿り、小高い丘を登りきる。さっと視界が大きく開き、白い大地が前方遥かに広がった。
アスレシアとゼフィオンは、足を止めた。目の前に広がる下り坂の途中に、またしても白く大きな身体を認めたのだ。
「………」
ゆったりとした動作で立ち上がる。だが、それは白き毛並みを持ってはいたが、雪人ではなかった。氷雪の亜人よりもさらに白銀に輝く毛並みを持つ、巨大な――狼。
「いい顔しているね。二人とも」
獣が笑う、というのは、これほど不快なものか。あのクルーデン・ヒルで、彼に操られた仔猫を見ていたが、それとは比べものにならぬ凶悪さを放ち、白銀の獣王は嗤った。
強風が吹き抜ける。その拍子に美しい毛並みが乱れ、不気味に輝く真紅の石が額から顔を覗かせた。
「さあ。この伝説の獣が、僕の用意した最後のおもてなしだ。……ただし、もてなすのは一人だけれど」
滑らかに紡がれる悪魔の言葉に、二人は面を強張らせた。
「どういうことだ」
「いちいち説明しなくてはいけないのかい?」
「………」
魔石を通して、サニト・ベイの視線が痛いほど伝わってくる。瞬きも忘れるほどにアスレシアは真紅の輝きを睨みつけた。この獣の言っている事が、分からぬわけではない。だが、答えるべき言葉を見つけられなかったのだ。
睨みあう。
いつの間にか太陽は再び影を潜め、雪が舞い始めた。突風に抗いきれず、アスレシアがわずかに瞳を伏せた、その時。
がらり、とゼフィオンが弓を投げた。驚いて顔を上げた彼女と目が合うと、彼は穏やかに微笑んだ。その表情を見た瞬間、アスレシアの背筋がすうっと寒くなった。
「何を……するんだ。ゼフィオン」
だが、彼は肩をすくめただけで、何も答えなかった。お前も分かっているのだろう、と漆黒の瞳は語る。
「冗談じゃない。私も一緒に、こいつを……」
「アスレシア」
笑みを深め、彼は前方へと目を転じた。そして、静かに一言。
「先に行け」
「な……」
「あの眼を見てみろ。恐らく、死んでも俺に喰らいついてくるだろう。……あんな奴を、サニト・ベイの元まで連れて行く訳にはいかない。だからと言って、あいつを倒そうと思えば、また体力を奪われる。お前は、これ以上余計な体力を使うな」
「でも!」
「駄目だ。お前が行かなければ、すべては終わらない」
それ以上時間は与えられなかった。ザァ、と一陣の風が吹き乱れる。思わず目を瞑った彼女が再び顔を上げた時には、漆黒の巨狼が悠然と雪を踏みしめて立っていた。
「ゼフィオン……!」
ぐぅ、と喉を鳴らし、黒狼は目を細めた。アスレシアは血が滲むほどに唇を噛みしめる。
――どうして、分からぬ振りなどできようか。「行け」と言っている。「今すぐに行け」と。
震える手を差し伸べた。柔らかな毛に包まれたその首をかき抱いた彼女は、首筋に顔を埋め、血を吐くような叫びを上げた。
「必ず……。必ず、後で来い! 約束だ!」
「ウオオォォゥ」
白と黒。二頭の巨狼が同時に吠える。
アスレシアは、身を翻した。
己の心の導かれるままに走り出す。魂を揺さぶる、あの嗤い。半年間、自分を呼び続けたあの少年の顔を、涙の中に睨み据えて。
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2014.12.06(Sat):黄昏人
第十章 三話
想像していたよりも、雪は少なかった。頭の中に描いていたのは、大量の雪に埋もれた純白の島だったのだが。
「これが、永久凍土の島なのか?」
疑問は、自然と口から漏れ出でた。二人が岸に降り立ったのを確認して帰り支度を始めていた船頭が、手を止める。
「雪はルーベイヌと同じくらいさ。けど、大地は底の底まで凍りついてる。だから、人が住めねえ」
「そういうものか……」
力を入れて、雪の少ない部分を爪先で叩いてみた。地面は石のように硬い。
「帰りはどうするんだ? よければ迎えに来てやるぜ」
「いや……」
二人は、少し顔を見合わせると、親切な船頭に笑顔で答えた。
「必要ない。――どちらにしても」
アスレシアの最後の一言に首を捻った船頭であったが、特別追求もせず、「そうか」とだけ言って、再び帰り支度に取りかかる。こんな島へ来るために、大金を払うような客なのだ。深く関わるべきではないと心得ているのだろう。
船が岸を離れてゆくのを見届け、アスレシアとゼフィオンは歩き出した。
道標はおろか道すらもない。あるのは、あまりにも殺風景な氷雪の大地のみ。ところどころに草の名残らしきものが弱々しく風に吹き晒されているほかは、何も見えぬ。
頬が痛い。
凍りついた風は、この不吉な闖入者を切り刻もうとするかのように、荒れる。
しかし、二人は迷うことなく歩いていった。アスレシアの心が、向かうべき場所を教えてくれるのだ。それは、彼女に宿った〈探索〉の魔力に他ならない。人にも純粋なる魔にも持ちえぬ、黄昏の生を持つ者特有の力だ。
(サニト・ベイ)
大気を睨み据え、アスレシアは呼んだ。風に巻き上げられた雪が、キラキラと輝く。この半年、片時も頭から離れる事のなかった名。十三の時から常に傍らにあった名。
(もう少しだ。もう少しで、お前と私は……)
氷を含んだ風が、ひときわ強く吹きつける。
「なあ、ゼフィオン」
マントをかき寄せ、彼女はつぶやいた。すぐ横を歩く長身の姿を控えめに見上げると、いつもと何ひとつ変わらぬ穏やかな微笑があった。
「どうした?」
「もしも……」
ふと、顔を逸らす。
「もしも、私が死んだら。お前は……泣いてくれる、か?」
「………」
「弱気になっているわけじゃない。やつを斬る事に迷いはない。でも」
アスレシアは躊躇いがちに言葉を切り、唇を湿らせた。風がほんのわずかの水分すら凍らせ、痛みに眉をしかめる。
「クルーデン・ヒルでネイヴァが大怪我を負った時、初めて私は自分の死を意識した。サニト・ベイの魔力は、もう私が相手にできないほど大きくなっていると思い知らされた……。あいつの命を死神の元に送り届けるには、自分の命と引き換えにしなければならないかもしれない。もしも、そうなったら……お前は、私の死を悲しんでくれるだろうか?」
ゼフィオンは、しばし彼女の横顔を見つめた後、静かに一言だけ答えた。
「それは、できないな」
「なぜ……」
てっきり肯定の返事がかえってくるものと思っていたアスレシアは、思わず歩調を緩めた。目を見開いた彼女を、ゼフィオンは悲哀のこもった目で見つめた。
「お前が死ぬ時、俺はすでに死んでいるだろう。やつにとどめを刺すのは、お前しかいないんだから。最後に残るとすれば、お前とやつだ。俺が残る事は、あり得ない」
「それは……」
「今は、前だけ見ていろ。余計な事は考えるな」
アスレシアは、額に手を当てて溜息をついた。
不安というなの刃で心に小さく穿たれた穴。今まで必死で保ち続けていた意思と感情は、そこから止めようもなく流れ出て、おそろしく脆弱なものになっていく気がする。
「弱気になっているわけじゃない」
アスレシアは繰り返した。小さく肯いたゼフィオンは、少々乱暴に彼女の頭を抱き寄せ、囁いた。
「早いところ、奴の元に行ってしまった方が吹っ切れるんだろう。俺も同じだ。こういう時が、一番、余計な事を考える」
「――そう。そして、一番、隙ができるんだよ」
不意に。
不気味なほどに澄んだ声が、凍てついた空気の中に響いた。一瞬身を強張らせた二人であったが、すぐさまマントを翻して身構えた。アスレシアは、すっかり手に馴染んだ魔力の剣を抜き放ち、ゼフィオンは、矢を長弓につがえて弦を引き絞る。
空気を震わせ、声は不快極まりない嘲笑を発した。
「邪魔をして申し訳ないけれどね。あまりに遅くて待ちくたびれてしまったから、こちらから迎えに来てあげたよ」
前方のやや小高い場所に、複数の影がうごめいた。アスレシアは、目を細めてその正体を見極めようとする。
「化け物を連れての出迎えか。それとも……」
「彼らは、化け物じゃない。お前たちと比べたら、よほど純粋なこの世界の〈人〉だよ」
のそりと立ち上がった灰色の影は全部で七つ。その姿に、アスレシアもゼフィオンも思わず息を呑む。
それは、巨大な生物だった。全身は灰白色の毛で覆われ、人と同じく二本足で直立している。一見すれば、厚い外套を羽織った大男のようだ。だが、それは衣服などではない。頭の先から爪先まで覆っているのは、紛れもなく体毛だった。
「雪人(イエティ)……」
書物でしか見たことのない幻の生物の登場に、突きつけていた緊張が削がれてしまう。
雪人たちは、緩慢な動作で二人に向かって歩いてきた。しかし、なぜかその身体から殺気はまったく感じられない。アスレシアは戸惑った。表情を読み取ろうにも、深い体毛に覆われた顔は、わずかに目と口が判別できるのみである。
「どうする? サニト・ベイに操られている事は確かだが……戦っていいのか?」
ゼフィオンが小声で問うた。彼も弓を下ろすべきかどうか相当迷っているらしく、構えた腕が揺らいでいた。雪人たちは、何の反応を示すわけでもなく、一定の歩調で近づいてくる。どうするべきか決めかねている間に、距離はどんどん縮まった。
「それとも、かわして先に進むか」
「できるなら、それが一番良い方法だろうけれど」
ゼフィオンの問いに答えつつ、雪人との距離を測る。相手の動きは、非常に鈍そうだ。上手くすれば、剣を使うことなく先に行ける。
七体の雪人たちは、ほぼ並行に並んでいる。飛び込むには十分な隙間はあった。
「では、同時に突破しよう」
ゼフィオンの言葉に、アスレシアは肯く。二人はタイミングを計り、雪人たちがさらに近づくのを待った。風に靡く体毛や口から覗く黄ばんだ小振りの牙が、はっきりと識別できるまでの距離になる。醜悪というわけではないが、やはり気持ちの良いものではない。亜人種とはいっても、エルフやドワーフなどのように人間以上の知識と文化を持つ者たちとは異なり、限りなく化け物に近い存在だ。
「一」
ゼフィオンが小声で呟く。アスレシアは剣を逆手に持ち替え、眼前で腕を交差させた。
「二」
ゼフィオンが、長弓をしっかりと抱え込む。二人は、雪人たちの薄汚れた身体の向こう側に視点を据え、膝に力を込めた。
雪人の一人が奇声を上げて両腕を振り上げた。拍子に、空間がほんの少しだけ広がりを見せた。その機を逃さず。
「行け!」
ゼフィオンの声に力一杯大地を蹴り、飛び出す。ぐっと前傾姿勢を取り、身体を白い体毛の間に捻じ込んだ。
異臭に眉をしかめ、アスレシアは雪人の壁を突破した――と思った。しかし。
「……っ!」
完全に抜けたと思い込んで気を許した刹那、激しい衝撃にがくりと首が大きく仰け反った。全力で前に進もうとしていたことが仇となり、とっさに対処できず、そのまま雪の上に倒れこんでしまう。
あの緩慢な動作から想像もつかぬ俊敏さで、雪人はアスレシアの長い髪を捉えていたのだ。雪の上を引きずられて、彼女は強引に後方へと戻された。
「アスレシア!」
ゼフィオンの方は、上手く突破したようだ。白い壁の外側から、声が聞こえた。アスレシアは、剣を硬く握りなおすと、髪を握りしめる太い腕に向かって鋭く振り上げた。ざくり、と手応えを感じ、鮮血が散る。力が緩んだ手から、身体を沈めて逃れ出た。
「ふふふ。そうでなくては、面白くないよね。雪人たちを怒らせて、どうやって切り抜けるのかな。たっぷりと見物させてもらうよ」
サニト・ベイの声が風に乗って流れてきた。姿は、まだ見せぬ。雪人たちに魔石を埋め込んでいる様子もないので、また別の媒体を潜ませ、そこから見ているのだろう。
「最後の最後まで、丁寧なもてなしだな!」
怒りに任せて吠える。彼女の心を代弁するかのように、風が耳元で唸りを上げた。
「これが、永久凍土の島なのか?」
疑問は、自然と口から漏れ出でた。二人が岸に降り立ったのを確認して帰り支度を始めていた船頭が、手を止める。
「雪はルーベイヌと同じくらいさ。けど、大地は底の底まで凍りついてる。だから、人が住めねえ」
「そういうものか……」
力を入れて、雪の少ない部分を爪先で叩いてみた。地面は石のように硬い。
「帰りはどうするんだ? よければ迎えに来てやるぜ」
「いや……」
二人は、少し顔を見合わせると、親切な船頭に笑顔で答えた。
「必要ない。――どちらにしても」
アスレシアの最後の一言に首を捻った船頭であったが、特別追求もせず、「そうか」とだけ言って、再び帰り支度に取りかかる。こんな島へ来るために、大金を払うような客なのだ。深く関わるべきではないと心得ているのだろう。
船が岸を離れてゆくのを見届け、アスレシアとゼフィオンは歩き出した。
道標はおろか道すらもない。あるのは、あまりにも殺風景な氷雪の大地のみ。ところどころに草の名残らしきものが弱々しく風に吹き晒されているほかは、何も見えぬ。
頬が痛い。
凍りついた風は、この不吉な闖入者を切り刻もうとするかのように、荒れる。
しかし、二人は迷うことなく歩いていった。アスレシアの心が、向かうべき場所を教えてくれるのだ。それは、彼女に宿った〈探索〉の魔力に他ならない。人にも純粋なる魔にも持ちえぬ、黄昏の生を持つ者特有の力だ。
(サニト・ベイ)
大気を睨み据え、アスレシアは呼んだ。風に巻き上げられた雪が、キラキラと輝く。この半年、片時も頭から離れる事のなかった名。十三の時から常に傍らにあった名。
(もう少しだ。もう少しで、お前と私は……)
氷を含んだ風が、ひときわ強く吹きつける。
「なあ、ゼフィオン」
マントをかき寄せ、彼女はつぶやいた。すぐ横を歩く長身の姿を控えめに見上げると、いつもと何ひとつ変わらぬ穏やかな微笑があった。
「どうした?」
「もしも……」
ふと、顔を逸らす。
「もしも、私が死んだら。お前は……泣いてくれる、か?」
「………」
「弱気になっているわけじゃない。やつを斬る事に迷いはない。でも」
アスレシアは躊躇いがちに言葉を切り、唇を湿らせた。風がほんのわずかの水分すら凍らせ、痛みに眉をしかめる。
「クルーデン・ヒルでネイヴァが大怪我を負った時、初めて私は自分の死を意識した。サニト・ベイの魔力は、もう私が相手にできないほど大きくなっていると思い知らされた……。あいつの命を死神の元に送り届けるには、自分の命と引き換えにしなければならないかもしれない。もしも、そうなったら……お前は、私の死を悲しんでくれるだろうか?」
ゼフィオンは、しばし彼女の横顔を見つめた後、静かに一言だけ答えた。
「それは、できないな」
「なぜ……」
てっきり肯定の返事がかえってくるものと思っていたアスレシアは、思わず歩調を緩めた。目を見開いた彼女を、ゼフィオンは悲哀のこもった目で見つめた。
「お前が死ぬ時、俺はすでに死んでいるだろう。やつにとどめを刺すのは、お前しかいないんだから。最後に残るとすれば、お前とやつだ。俺が残る事は、あり得ない」
「それは……」
「今は、前だけ見ていろ。余計な事は考えるな」
アスレシアは、額に手を当てて溜息をついた。
不安というなの刃で心に小さく穿たれた穴。今まで必死で保ち続けていた意思と感情は、そこから止めようもなく流れ出て、おそろしく脆弱なものになっていく気がする。
「弱気になっているわけじゃない」
アスレシアは繰り返した。小さく肯いたゼフィオンは、少々乱暴に彼女の頭を抱き寄せ、囁いた。
「早いところ、奴の元に行ってしまった方が吹っ切れるんだろう。俺も同じだ。こういう時が、一番、余計な事を考える」
「――そう。そして、一番、隙ができるんだよ」
不意に。
不気味なほどに澄んだ声が、凍てついた空気の中に響いた。一瞬身を強張らせた二人であったが、すぐさまマントを翻して身構えた。アスレシアは、すっかり手に馴染んだ魔力の剣を抜き放ち、ゼフィオンは、矢を長弓につがえて弦を引き絞る。
空気を震わせ、声は不快極まりない嘲笑を発した。
「邪魔をして申し訳ないけれどね。あまりに遅くて待ちくたびれてしまったから、こちらから迎えに来てあげたよ」
前方のやや小高い場所に、複数の影がうごめいた。アスレシアは、目を細めてその正体を見極めようとする。
「化け物を連れての出迎えか。それとも……」
「彼らは、化け物じゃない。お前たちと比べたら、よほど純粋なこの世界の〈人〉だよ」
のそりと立ち上がった灰色の影は全部で七つ。その姿に、アスレシアもゼフィオンも思わず息を呑む。
それは、巨大な生物だった。全身は灰白色の毛で覆われ、人と同じく二本足で直立している。一見すれば、厚い外套を羽織った大男のようだ。だが、それは衣服などではない。頭の先から爪先まで覆っているのは、紛れもなく体毛だった。
「雪人(イエティ)……」
書物でしか見たことのない幻の生物の登場に、突きつけていた緊張が削がれてしまう。
雪人たちは、緩慢な動作で二人に向かって歩いてきた。しかし、なぜかその身体から殺気はまったく感じられない。アスレシアは戸惑った。表情を読み取ろうにも、深い体毛に覆われた顔は、わずかに目と口が判別できるのみである。
「どうする? サニト・ベイに操られている事は確かだが……戦っていいのか?」
ゼフィオンが小声で問うた。彼も弓を下ろすべきかどうか相当迷っているらしく、構えた腕が揺らいでいた。雪人たちは、何の反応を示すわけでもなく、一定の歩調で近づいてくる。どうするべきか決めかねている間に、距離はどんどん縮まった。
「それとも、かわして先に進むか」
「できるなら、それが一番良い方法だろうけれど」
ゼフィオンの問いに答えつつ、雪人との距離を測る。相手の動きは、非常に鈍そうだ。上手くすれば、剣を使うことなく先に行ける。
七体の雪人たちは、ほぼ並行に並んでいる。飛び込むには十分な隙間はあった。
「では、同時に突破しよう」
ゼフィオンの言葉に、アスレシアは肯く。二人はタイミングを計り、雪人たちがさらに近づくのを待った。風に靡く体毛や口から覗く黄ばんだ小振りの牙が、はっきりと識別できるまでの距離になる。醜悪というわけではないが、やはり気持ちの良いものではない。亜人種とはいっても、エルフやドワーフなどのように人間以上の知識と文化を持つ者たちとは異なり、限りなく化け物に近い存在だ。
「一」
ゼフィオンが小声で呟く。アスレシアは剣を逆手に持ち替え、眼前で腕を交差させた。
「二」
ゼフィオンが、長弓をしっかりと抱え込む。二人は、雪人たちの薄汚れた身体の向こう側に視点を据え、膝に力を込めた。
雪人の一人が奇声を上げて両腕を振り上げた。拍子に、空間がほんの少しだけ広がりを見せた。その機を逃さず。
「行け!」
ゼフィオンの声に力一杯大地を蹴り、飛び出す。ぐっと前傾姿勢を取り、身体を白い体毛の間に捻じ込んだ。
異臭に眉をしかめ、アスレシアは雪人の壁を突破した――と思った。しかし。
「……っ!」
完全に抜けたと思い込んで気を許した刹那、激しい衝撃にがくりと首が大きく仰け反った。全力で前に進もうとしていたことが仇となり、とっさに対処できず、そのまま雪の上に倒れこんでしまう。
あの緩慢な動作から想像もつかぬ俊敏さで、雪人はアスレシアの長い髪を捉えていたのだ。雪の上を引きずられて、彼女は強引に後方へと戻された。
「アスレシア!」
ゼフィオンの方は、上手く突破したようだ。白い壁の外側から、声が聞こえた。アスレシアは、剣を硬く握りなおすと、髪を握りしめる太い腕に向かって鋭く振り上げた。ざくり、と手応えを感じ、鮮血が散る。力が緩んだ手から、身体を沈めて逃れ出た。
「ふふふ。そうでなくては、面白くないよね。雪人たちを怒らせて、どうやって切り抜けるのかな。たっぷりと見物させてもらうよ」
サニト・ベイの声が風に乗って流れてきた。姿は、まだ見せぬ。雪人たちに魔石を埋め込んでいる様子もないので、また別の媒体を潜ませ、そこから見ているのだろう。
「最後の最後まで、丁寧なもてなしだな!」
怒りに任せて吠える。彼女の心を代弁するかのように、風が耳元で唸りを上げた。
2014.12.06(Sat):黄昏人
第十章 二話
船に裂かれた波が、触手のように船縁を這い上がってくる。勢いあまったそれは、時に船の中にまで侵入して足元を濡らした。
長靴の先に不快な湿り気を感じ、アスレシアはわずかに足を引く。そんなことをしても意味がない事は分かっている。濡れないようにするには、船倉に入るのが適切な行動なのだ。だが、彼女は甲板を動かない。
前方に見えるのは、北限の島バジャ。またの名を〈過去の遺物〉。
春先だというのに、北の海に吹く風は身を切るほどに冷たい。それでも今日は暖かい方なのだと、ルーベイヌの町から船を出した船頭は、呑気な声で笑っていた。
(嫌な日差しだ。……穏やかで、和やかな)
アスレシアは目を細め、空を仰ぎ見た。つかのま雪は止み、太陽が顔を覗かせている。風がなければ、もっと暖かく感じるだろう。
まったく異なった季節だった。場所も当然違う。だが、彼女に注がれる陽光は、あの日と同じものだ。
不規則に乱れる波間に目を転じると、水面(みなも)に鮮やかな映像が映し出された。
西の果てにあった風景が、彼女をゆっくりと呑み込んでいく――。
*******
その一報がもたらされたのは、忍び寄る睡魔を払うため、巡回に出ようとした矢先だった。近衛騎士の一隊を任されていた彼女は、サニト・ベイの側近といえ通常の任務もこなさなければならない。朝、王宮に出仕した後、仕事に追われて帰宅することができず、そのまま夜勤の任務に着いていた。
仮眠を取ったものの、疲れはそう簡単に取れるものではない。明け方、早く交代の時間が来ないかと少々不謹慎なことを考えていたところ、一人の騎士が飛び込んできたのだ。
「――何だと?」
伝えられた言葉はきちんと耳に届いていたが、アスレシアはもう一度尋ねた。騎士は顔を伏せたまま、震える声で繰り返す。
「陛下……と、王太子殿下が……お、お亡くなりに……」
「何を、馬鹿な」
アスレシアは笑った。疲労のせいで聞き間違えたかと思ったのだ。だが、そうではないらしい。では、この騎士が自分を騙そうとしているのだろうか。しかし、何のために?
「ハザック。近衛騎士が勤務中にそのような冗談を……」
「冗談ではございません!!」
ハザックという名のその若い騎士は、悲痛な叫びを上げた。隊の中でも一、二を争うほど生真面目な騎士の言葉に、アスレシアの笑いがかき消える。
「まさか……」
「本当なのです! お目覚めになる五鐘に……いつものように小姓が部屋に入ったところ……。陛下が……」
耳障りな音と共に、足元に水が散った。脇にあったテーブルを倒し、割れた水差しを踏みつけ、アスレシアは部屋を飛び出した。
「隊長!」
後方からハザックが追って来る。
「陛下の寝室の警護に当たっていたのは誰だ!」
「ガス・ハルディースとヨアン・バルガスです!」
ぎりりと奥歯を噛みしめる。嘘であってくれと心に念じながら、階段を一気に駆け上がった。
宮殿の最上階の一番奥に国王サレス・アード、その手前に王太子セイン・エレクの寝室がある。王妃と姫たちは後宮と呼ばれる別棟の宮殿に部屋を持つので、ここにはいない。
廊下に、ガスとヨアンを真ん中にして、数名の騎士たちが茫然とした様子で立っていた。
「退け!!」
騎士たちを突き飛ばして部屋に飛び込む。天蓋つきのベッドに横たわる男が目に入った。堂々たる体躯と、獅子を髣髴とさせる金色の髪と髭。
「陛……下……?」
喉に絡みつく声を何とか外へと押し出し、アスレシアは恐る恐る男の傍らへと歩み寄った。澄んだ碧色の瞳には、いつもの威厳は微塵もなく、ただ恐怖だけが浮かび上がっていた。頬は引きつり、口は半ば開いて何かを言おうとしているようにも見える。
虚ろな眼(まなこ)を覗きこみ、アスレシアは再び呼びかけた。だが、返事はおろか微動だにしない。男の命が失われていることは、あまりにも明白であった。
「団長を……早く……」
やっとの思いでそれだけを言う。頭が目の前の光景を拒んでいた。脳も身体も麻痺してしまい、何も考えられない。自分の取るべき行動も、次に言うべき言葉も見つからない。
問いかけても答える機能は停止していた。否、問いかけることすらできなかった。ただ、抜け殻のように膝をつき、国王の骸を見つめるしかできなかった。
「隊長!」
ハザックの声に振り返る。瞬間、いきなり頬に激しい衝撃を受けて床に倒れこんだ。殴られたのだ、と理解する間もなく胸ぐらを掴まれ、激しく揺さぶられた。
「どういうことだ。アスレシア! お前がいながら、何をしていた!!」
蒼ざめ、引きつった男の顔が視界いっぱいに広がる。自分と同じ青灰色の、その瞳を見た瞬間、アスレシアの中で凍りついていた感情が、一気に溶けて溢れ出した。
「ち……父上……。父上ぇぇぇっ!」
絶叫が口からほとばしった。感情はそのまま涙となり、頬から顎へと滴り落ちる。自分の胸ぐらを掴んだその手こそが唯一の支えのように、彼女は必死で父の手にすがりついた。
「アスレシア……」
半狂乱で泣き叫ぶ娘を見て、父は若干の落ち着きを取り戻したようだ。優しく己の胸に抱きしめると、幼子のように頭を撫でた。
「落ち着け。何があった? いったい何が起きたのだ?」
だが、アスレシアは父の肩に頭を押しつけ、ただかぶりを振るしかできなかった。何が起きたのか、彼女自身も分からないのだ。分かるのは、国王が死んだという事と、自分が防げなかったという事。
宰相リーエ、第一騎士団長ギルザム、第二騎士団長イディス、第三騎士団長バルバネス、そして近衛騎士団長セルマ。国を司る有能なる男たちも、このあまりに突然の事態に正常な思考が働かないようだ。セルマなどは、呆けたように王の手を握りしめているだけで一言も発しない。
隣室の様子を見に行っていた第四騎士団長ゲイクが蒼白な顔で戻ってきた。小さく首を横に振る彼に、男たちの口から絶望的な呻きが洩れる。
「王太子までも……そんな……」
「我らは、どうすればよいのだ……。ギルザム。我々は何をするべきなのだ? このような……このような状況で」
国王の傍らに膝をついていたリーエが父に声をかけた。ギルザムは娘を抱きしめたまま、天を仰いで目を閉じる。
「とにかく……この状況が他に洩れる事だけは防がねばならぬ。万が一隣国に知られるようなことになれば、我が国の命運は、その時点で尽きる」
「では、警固に当たっていた第二隊の騎士、兵士たちはここに留め置く必要があるな」
「ああ。状況を詳しく聞かねばならぬ」
「それに、こんな事は言いたくないが……」
バルバネスが横合いから囁いた。
「こやつらを留め置く事で、犯人を逃さぬ事にもなろう」
びくり、とアスレシアは身体を震わせた。鋭く息を呑むと、獣のごとき呻き声をあげる。
「なんと……言われた」
「………」
「我が……隊の中に……。陛下を手にかけた犯人がいる、と?」
真っ青に震えながら身を乗り出した彼女を、ギルザムが抱きとめる。その手を振り払おうと身を捩り、アスレシアは髪を振り乱して叫んだ。
「我が隊にそのような者はいない! 誇り高き近衛騎士を、あなたは疑うというのか!!」
「アスレシア!」
「離して下さい。父上! いかに騎士団長といえども、自分の部下を疑われては……」
「ならば!」
バルバネスが吠えた。いかにも武人らしい節くれだった指をアスレシアの顔に突きつけ、大きく声を震わせる。
「証し立てる事はできるのか。アスレシア・ジェスラート近衛第二隊長! お前の部下がすべて潔白だと、今、この場で我々に示す事はできるか!!」
「………!」
涙が、再び頬を伝ってゆく。
何も言い返せない。
アスレシアの身体から力が抜けたのを確かめ、ギルザムは腕の力を緩めた。現実から目を背けるように床に視線を落とし、深く長く嘆息する。
「とにかく……他の王族の方々の安否を確かめねばならぬ。まずは後宮の女王陛下を……」
ハッとアスレシアは面を上げた。怒りと悲しみにぐちゃぐちゃになった心に、針で鋭く突かれたような痛みが走ったのだ。浮かび上がるひとつの名が、瞬時に失った冷静さを取り戻させる。
彼女は、油断していた父の腕を振りほどくと、脇目も振らずに扉へと走った。
「どこへ行く!」
バルバネスの厳しい言葉に足を止め、アスレシアは怒りに燃えた目を向けた。
「我が主の元! 戻ってきてのち、この首、存分に斬られるが良い!!」
責は自分が負う。逃げるつもりなど毛頭ない。だが、剣を捧げた主サニト・ベイの安否だけは、この目で確かめねばならぬ。
アスレシアは王宮を飛び出すと、全力でサニト・ベイの屋敷へと向かった。この時ほど、彼が妾腹ゆえに王宮の外に住まわされている事を呪ったことはない。
声にならぬ叫びを上げ、アスレシアは黎明の街を駆けた。
*******
「……!」
痺れるような感覚を覚え、アスレシアは足元を見つめた。ひときわ高い波が侵入してきたらしい。彼女の右足は、膝の辺りまで濡れていた。そのあまりの冷たさに、思考は一瞬にして現実へと引き戻されてしまった。
苦笑を浮かべる。――苦い、苦い笑みを。
海面は鮮やかな映像など微塵も映さず、ただ黒い姿を不吉に揺らしているだけだ。
「肝心な時に身体を壊したら、どうにもならないぞ」
声に振り返った。漆黒の髪を北風に乱されながら、端正な顔が不安気に歪んでいた。
「ゼフィオン……」
ふわり、と暖かくなる。己のマントを広げた彼は、アスレシアの身体を優しく包み込んだ。慕わしく愛しい温もりに、凍りついた心が溶ける。
二人は、遥か前方に目を転じた。
〈過去の遺物〉は、ただ静かに彼らを待ち受けている。
長靴の先に不快な湿り気を感じ、アスレシアはわずかに足を引く。そんなことをしても意味がない事は分かっている。濡れないようにするには、船倉に入るのが適切な行動なのだ。だが、彼女は甲板を動かない。
前方に見えるのは、北限の島バジャ。またの名を〈過去の遺物〉。
春先だというのに、北の海に吹く風は身を切るほどに冷たい。それでも今日は暖かい方なのだと、ルーベイヌの町から船を出した船頭は、呑気な声で笑っていた。
(嫌な日差しだ。……穏やかで、和やかな)
アスレシアは目を細め、空を仰ぎ見た。つかのま雪は止み、太陽が顔を覗かせている。風がなければ、もっと暖かく感じるだろう。
まったく異なった季節だった。場所も当然違う。だが、彼女に注がれる陽光は、あの日と同じものだ。
不規則に乱れる波間に目を転じると、水面(みなも)に鮮やかな映像が映し出された。
西の果てにあった風景が、彼女をゆっくりと呑み込んでいく――。
*******
その一報がもたらされたのは、忍び寄る睡魔を払うため、巡回に出ようとした矢先だった。近衛騎士の一隊を任されていた彼女は、サニト・ベイの側近といえ通常の任務もこなさなければならない。朝、王宮に出仕した後、仕事に追われて帰宅することができず、そのまま夜勤の任務に着いていた。
仮眠を取ったものの、疲れはそう簡単に取れるものではない。明け方、早く交代の時間が来ないかと少々不謹慎なことを考えていたところ、一人の騎士が飛び込んできたのだ。
「――何だと?」
伝えられた言葉はきちんと耳に届いていたが、アスレシアはもう一度尋ねた。騎士は顔を伏せたまま、震える声で繰り返す。
「陛下……と、王太子殿下が……お、お亡くなりに……」
「何を、馬鹿な」
アスレシアは笑った。疲労のせいで聞き間違えたかと思ったのだ。だが、そうではないらしい。では、この騎士が自分を騙そうとしているのだろうか。しかし、何のために?
「ハザック。近衛騎士が勤務中にそのような冗談を……」
「冗談ではございません!!」
ハザックという名のその若い騎士は、悲痛な叫びを上げた。隊の中でも一、二を争うほど生真面目な騎士の言葉に、アスレシアの笑いがかき消える。
「まさか……」
「本当なのです! お目覚めになる五鐘に……いつものように小姓が部屋に入ったところ……。陛下が……」
耳障りな音と共に、足元に水が散った。脇にあったテーブルを倒し、割れた水差しを踏みつけ、アスレシアは部屋を飛び出した。
「隊長!」
後方からハザックが追って来る。
「陛下の寝室の警護に当たっていたのは誰だ!」
「ガス・ハルディースとヨアン・バルガスです!」
ぎりりと奥歯を噛みしめる。嘘であってくれと心に念じながら、階段を一気に駆け上がった。
宮殿の最上階の一番奥に国王サレス・アード、その手前に王太子セイン・エレクの寝室がある。王妃と姫たちは後宮と呼ばれる別棟の宮殿に部屋を持つので、ここにはいない。
廊下に、ガスとヨアンを真ん中にして、数名の騎士たちが茫然とした様子で立っていた。
「退け!!」
騎士たちを突き飛ばして部屋に飛び込む。天蓋つきのベッドに横たわる男が目に入った。堂々たる体躯と、獅子を髣髴とさせる金色の髪と髭。
「陛……下……?」
喉に絡みつく声を何とか外へと押し出し、アスレシアは恐る恐る男の傍らへと歩み寄った。澄んだ碧色の瞳には、いつもの威厳は微塵もなく、ただ恐怖だけが浮かび上がっていた。頬は引きつり、口は半ば開いて何かを言おうとしているようにも見える。
虚ろな眼(まなこ)を覗きこみ、アスレシアは再び呼びかけた。だが、返事はおろか微動だにしない。男の命が失われていることは、あまりにも明白であった。
「団長を……早く……」
やっとの思いでそれだけを言う。頭が目の前の光景を拒んでいた。脳も身体も麻痺してしまい、何も考えられない。自分の取るべき行動も、次に言うべき言葉も見つからない。
問いかけても答える機能は停止していた。否、問いかけることすらできなかった。ただ、抜け殻のように膝をつき、国王の骸を見つめるしかできなかった。
「隊長!」
ハザックの声に振り返る。瞬間、いきなり頬に激しい衝撃を受けて床に倒れこんだ。殴られたのだ、と理解する間もなく胸ぐらを掴まれ、激しく揺さぶられた。
「どういうことだ。アスレシア! お前がいながら、何をしていた!!」
蒼ざめ、引きつった男の顔が視界いっぱいに広がる。自分と同じ青灰色の、その瞳を見た瞬間、アスレシアの中で凍りついていた感情が、一気に溶けて溢れ出した。
「ち……父上……。父上ぇぇぇっ!」
絶叫が口からほとばしった。感情はそのまま涙となり、頬から顎へと滴り落ちる。自分の胸ぐらを掴んだその手こそが唯一の支えのように、彼女は必死で父の手にすがりついた。
「アスレシア……」
半狂乱で泣き叫ぶ娘を見て、父は若干の落ち着きを取り戻したようだ。優しく己の胸に抱きしめると、幼子のように頭を撫でた。
「落ち着け。何があった? いったい何が起きたのだ?」
だが、アスレシアは父の肩に頭を押しつけ、ただかぶりを振るしかできなかった。何が起きたのか、彼女自身も分からないのだ。分かるのは、国王が死んだという事と、自分が防げなかったという事。
宰相リーエ、第一騎士団長ギルザム、第二騎士団長イディス、第三騎士団長バルバネス、そして近衛騎士団長セルマ。国を司る有能なる男たちも、このあまりに突然の事態に正常な思考が働かないようだ。セルマなどは、呆けたように王の手を握りしめているだけで一言も発しない。
隣室の様子を見に行っていた第四騎士団長ゲイクが蒼白な顔で戻ってきた。小さく首を横に振る彼に、男たちの口から絶望的な呻きが洩れる。
「王太子までも……そんな……」
「我らは、どうすればよいのだ……。ギルザム。我々は何をするべきなのだ? このような……このような状況で」
国王の傍らに膝をついていたリーエが父に声をかけた。ギルザムは娘を抱きしめたまま、天を仰いで目を閉じる。
「とにかく……この状況が他に洩れる事だけは防がねばならぬ。万が一隣国に知られるようなことになれば、我が国の命運は、その時点で尽きる」
「では、警固に当たっていた第二隊の騎士、兵士たちはここに留め置く必要があるな」
「ああ。状況を詳しく聞かねばならぬ」
「それに、こんな事は言いたくないが……」
バルバネスが横合いから囁いた。
「こやつらを留め置く事で、犯人を逃さぬ事にもなろう」
びくり、とアスレシアは身体を震わせた。鋭く息を呑むと、獣のごとき呻き声をあげる。
「なんと……言われた」
「………」
「我が……隊の中に……。陛下を手にかけた犯人がいる、と?」
真っ青に震えながら身を乗り出した彼女を、ギルザムが抱きとめる。その手を振り払おうと身を捩り、アスレシアは髪を振り乱して叫んだ。
「我が隊にそのような者はいない! 誇り高き近衛騎士を、あなたは疑うというのか!!」
「アスレシア!」
「離して下さい。父上! いかに騎士団長といえども、自分の部下を疑われては……」
「ならば!」
バルバネスが吠えた。いかにも武人らしい節くれだった指をアスレシアの顔に突きつけ、大きく声を震わせる。
「証し立てる事はできるのか。アスレシア・ジェスラート近衛第二隊長! お前の部下がすべて潔白だと、今、この場で我々に示す事はできるか!!」
「………!」
涙が、再び頬を伝ってゆく。
何も言い返せない。
アスレシアの身体から力が抜けたのを確かめ、ギルザムは腕の力を緩めた。現実から目を背けるように床に視線を落とし、深く長く嘆息する。
「とにかく……他の王族の方々の安否を確かめねばならぬ。まずは後宮の女王陛下を……」
ハッとアスレシアは面を上げた。怒りと悲しみにぐちゃぐちゃになった心に、針で鋭く突かれたような痛みが走ったのだ。浮かび上がるひとつの名が、瞬時に失った冷静さを取り戻させる。
彼女は、油断していた父の腕を振りほどくと、脇目も振らずに扉へと走った。
「どこへ行く!」
バルバネスの厳しい言葉に足を止め、アスレシアは怒りに燃えた目を向けた。
「我が主の元! 戻ってきてのち、この首、存分に斬られるが良い!!」
責は自分が負う。逃げるつもりなど毛頭ない。だが、剣を捧げた主サニト・ベイの安否だけは、この目で確かめねばならぬ。
アスレシアは王宮を飛び出すと、全力でサニト・ベイの屋敷へと向かった。この時ほど、彼が妾腹ゆえに王宮の外に住まわされている事を呪ったことはない。
声にならぬ叫びを上げ、アスレシアは黎明の街を駆けた。
*******
「……!」
痺れるような感覚を覚え、アスレシアは足元を見つめた。ひときわ高い波が侵入してきたらしい。彼女の右足は、膝の辺りまで濡れていた。そのあまりの冷たさに、思考は一瞬にして現実へと引き戻されてしまった。
苦笑を浮かべる。――苦い、苦い笑みを。
海面は鮮やかな映像など微塵も映さず、ただ黒い姿を不吉に揺らしているだけだ。
「肝心な時に身体を壊したら、どうにもならないぞ」
声に振り返った。漆黒の髪を北風に乱されながら、端正な顔が不安気に歪んでいた。
「ゼフィオン……」
ふわり、と暖かくなる。己のマントを広げた彼は、アスレシアの身体を優しく包み込んだ。慕わしく愛しい温もりに、凍りついた心が溶ける。
二人は、遥か前方に目を転じた。
〈過去の遺物〉は、ただ静かに彼らを待ち受けている。
2014.12.06(Sat):黄昏人
第十章 一話
北方大陸のさらに北の果てに、小さな島がある。
名はバジャ。北限の島と冠する雪と氷で覆われた大地。
棲まうのは、わずかな獣と雪人(イエティ)とよばれる古代の種族のみ――。
「そろそろだな」
ソファに身を沈めてひとりごちたのは、冥界の伯爵コズウェイルだ。
追い続けていた少年の気配を北の果てに見出し、死神は酷薄な、それでいてひどく満ち足りた笑みを浮かべた。
「失礼します」
ノックと同時に声がする。思考を破られ、コズウェイルは一瞬、不機嫌に表情を歪めた。
「何だ」
扉が開く。入ってきたのは、小柄で貧相な男だ。コズウェイルは、ふと、なぜこの男がペンドラゴンなどという魔族も一目置く人間の英雄と同じ名を持つのか、と脈絡のないことを考えた。
「アベリアル様がお見えですが」
「アベリアルが? ここへ?」
自分が彼女の元を訪れる事はあっても、彼女がここを訪れる事はないと思っていた。主の戸惑った様子に、ペンドラゴンは小首を傾げる。
「どうします? お通ししてよろしいですか?」
「まさか、門前払いを食わせるわけにもゆくまい……というよりも。ちょうど良かった。私も会いに行こうと思っていたところだ」
コズウェイルは立ち上がると、ペンドラゴンを先に追い出し、自身も私室を後にした。応接室へ向かう廊下を歩きながら、思いを巡らせる。
――妙な縁、と言えるだろう。当初は貴族の中で最も気の合わぬ最低の女だと、頭から決めつけていた。だが、何がきっかけとなるか分からないものだ。あのサニト・ベイという存在を通して、幾度となく顔を合わせ言葉を交わすうち、彼女を嫌悪する心は少しずつ影を潜め、代わって親近感ともいうべき感情が現れはじめていた。
どの酒を開けようか、と考えている自分に苦笑を投げかけ、コズウェイルは応接室の扉を開ける。アベリアルは、すでにソファに座って待っていた。今日は、白を基調とした上品なドレスを身にまとっている。派手な色を好む彼女にしては珍しい。
「わざわざお前の方から来るとはな。どういう風の吹き回しだ?」
アベリアルは優雅な物腰で立ち上がると、いつものごとく妖艶な微笑を向けてきた。黙っていれば、これ以上ないくらい美しい女だ。彼女の右腕であるネイヴァという黒猫の女も、同じような雰囲気を持っている。冥界の貴族たちの間では、親しくなりたいと評判の主従だが、口を開いてからの彼女たちを知っているコズウェイルは、あまり賛同する気にはなれない。
「ネイヴァから話を聞いてね。あの子供が、かなり危険になってきているというから、少し話を聞きたいと思ったのよ」
「……黒猫か。酷い怪我をしたらしいな。レクセントの王都で」
「ええ。幸い命に別状はなかったわ。調子に乗って相手の誘いに乗るなんて……。もう少し落ち着きが出てくれればいいのだけれど」
「私に言われても困る」
「少しぐらい愚痴を言わせて頂戴」
コズウェイルは卓上にあった鈴を振り、下女を呼びつけた。現れた黒い翼を揺らす少女に、蒸留酒を持ってくるよう言いつけると、女の向かい側に腰を下ろした。アベリアルも、それを見て再び座る。
「……あの黄昏人たちに傷を負わされてから、かしら。あの子供がずいぶんと凶暴になったのは?」
「………」
コズウェイルは片方の眉をひくりと動かす。
「そろそろ限界でしょう? 黄昏人には、重荷だったのかもしれないわね。……あなたがなぜ、そこまであの二人にこだわるのかは分からないけれど。あなた自身が出て行った方がいいのではなくて?」
「それは、分かっている……。分かっているのだが」
コズウェイルは言葉を切った。下女が酒を持って現れたのだ。美しい切子細工のグラスがテーブルに置かれるのを、二人はじっと見つめた。
下女が下がるのを見届けてから、コズウェイルは再び口を開いた。
「……あいつたちに、最後まで任せてみたいのだよ」
「ずいぶんと買っているのね」
アベリアルは、探るような視線を向けてきた。コズウェイルは、その意味に気づいて唇の端を上げる。
「理由は分かっているのだろう?」
「推測の域を出ないわ」
「女の勘とやらは、鋭い」
肩をすくめるコズウェイルから視線を外さぬまま、アベリアルは杯を取り上げ、舐めるように口をつけた。
「ゼフィオンの理由はそう(、、)だとして……。あのアスレシアという女は、どうして? そこまで見込みのある女なのかしら」
「そう……だな」
コズウェイルは杯を揺らすと、中の酒を一息に干した。液体が喉を焼いて滑り落ちてゆき、幾度となく思い返した鮮明な記憶が再生される。
――爽やかな初秋の朝だ。魔族には不快とさえ感じる朝陽の下、あの女は己の胸に突き立った短剣を握りしめ、倒れこんだ。普通ならば、それで終わるだろう。自身も、何も感じることなく女を見捨て、その場を去ったはずだ。何しろ裏切者は逃走したのだから。後を追って然るべきだった。
だが、女は起き上がろうとした。震える手で己が胸の剣を引き抜き、血にまみれながら、なおも立ち上がろうとした。
もがき、崩れ、そしてまた立ち上がろうとする女に、自分はいったい何を見出したのだろう。
目の前でどんどん朱に染め上げられてゆく女を、見下ろした。足はすでに止まっていた。逃亡者の後を追わねばという気持ちも失せていた。そして。
顔を上げた女と眼が合ったのだ。深い青灰色の瞳。そこからただ一筋零れた滴は、瞳と同じ色に見えた。
その瞬間、彼の身体は動いていた。レイピアで自分の掌を裂き、倒れ伏す女の傷口へと押し当てた。低く呪文をつぶやくと、噛み切って血の滲んだ唇で女の口を塞いだ――。
あの時、女の面に宿るあまりにも強い炎に、コズウェイルは図らずも魅せられてしまった。冥界の貴族が、死神ともあろう男が、心を動かされたのだ。
買いかぶりすぎか? そうかも知れぬ。たかが元は人間の半魔に、どれほどの期待をかけようというのか。だが。
コズウェイルは、己の勘を信じたかった。
「あの女に、魔族としてひとつの目的を成し遂げさせれば、強力な力となろう。あいつの内なる意思は、見過ごせぬほど強いものだ」
「なるほどね」
アベリアルは、とりあえず理解は示してみせる。
「コズウェイル。あなたは、死神のくせに心が豊か過ぎるようね」
「………」
「ま、そんなことは、私に言われなくても分かっているでしょうけれど」
そして、もう一度杯を舐めると眉をしかめ、やはり強すぎると文句を言った。
「それで。結局のところ、あなたが出るつもりはないという事?」
「ない」
きっぱりとコズウェイルは言い切った。これ以上言っても無駄だと暗に示され、アベリアルは苦笑を浮かべる。
「でも、そろそろ決着はつけるつもりなんでしょう」
「ああ。――やつは今、北限の島にいる。それは、奴自身が何らかの終焉を望んでいるという事だろうな。そうでなくば、自らを袋小路に追い詰めるような真似はするまい」
「サニト・ベイの魔力は、どれほどになっているのかしら」
「想像もつかぬな」
コズウェイルは、再度下女を呼びつけ、今度は甘い果実酒を持ってくるように命じた。
「あいつの存在そのものが、想像を超えているのだから」
「それもそうね……」
アベリアルは肯いてから一度口を閉じ、それから思い切ったように続けた。
「それでも……。あなたは、黄昏人にすべてを任せるのね」
「そうだ」
「ゼフィオンを失うかもしれないのに? あなたの大切な……」
「アベリアル」
コズウェイルの厳しい一言に遮られ、アベリアルは口をつぐんだ。
「それ以上言ってはならぬ。私にも、死神としての立場というものがある」
「………」
下女が静かに入ってくる。コズウェイルは、運ばれてきた二つの杯を盆から取り上げ、一つをアベリアルに手渡した。満たされた赤い液体が、不規則に揺れる。
近々、己自身も北の果てに赴くだろう。少年が大罪をあがなう瞬間を見届けるために。
(我が黄昏人たちよ。期待を裏切ってくれるなよ)
心中でひとりごち、杯をあおる。
眼が合ったアベリアルに、コズウェイルは薄く笑いかけた。
名はバジャ。北限の島と冠する雪と氷で覆われた大地。
棲まうのは、わずかな獣と雪人(イエティ)とよばれる古代の種族のみ――。
「そろそろだな」
ソファに身を沈めてひとりごちたのは、冥界の伯爵コズウェイルだ。
追い続けていた少年の気配を北の果てに見出し、死神は酷薄な、それでいてひどく満ち足りた笑みを浮かべた。
「失礼します」
ノックと同時に声がする。思考を破られ、コズウェイルは一瞬、不機嫌に表情を歪めた。
「何だ」
扉が開く。入ってきたのは、小柄で貧相な男だ。コズウェイルは、ふと、なぜこの男がペンドラゴンなどという魔族も一目置く人間の英雄と同じ名を持つのか、と脈絡のないことを考えた。
「アベリアル様がお見えですが」
「アベリアルが? ここへ?」
自分が彼女の元を訪れる事はあっても、彼女がここを訪れる事はないと思っていた。主の戸惑った様子に、ペンドラゴンは小首を傾げる。
「どうします? お通ししてよろしいですか?」
「まさか、門前払いを食わせるわけにもゆくまい……というよりも。ちょうど良かった。私も会いに行こうと思っていたところだ」
コズウェイルは立ち上がると、ペンドラゴンを先に追い出し、自身も私室を後にした。応接室へ向かう廊下を歩きながら、思いを巡らせる。
――妙な縁、と言えるだろう。当初は貴族の中で最も気の合わぬ最低の女だと、頭から決めつけていた。だが、何がきっかけとなるか分からないものだ。あのサニト・ベイという存在を通して、幾度となく顔を合わせ言葉を交わすうち、彼女を嫌悪する心は少しずつ影を潜め、代わって親近感ともいうべき感情が現れはじめていた。
どの酒を開けようか、と考えている自分に苦笑を投げかけ、コズウェイルは応接室の扉を開ける。アベリアルは、すでにソファに座って待っていた。今日は、白を基調とした上品なドレスを身にまとっている。派手な色を好む彼女にしては珍しい。
「わざわざお前の方から来るとはな。どういう風の吹き回しだ?」
アベリアルは優雅な物腰で立ち上がると、いつものごとく妖艶な微笑を向けてきた。黙っていれば、これ以上ないくらい美しい女だ。彼女の右腕であるネイヴァという黒猫の女も、同じような雰囲気を持っている。冥界の貴族たちの間では、親しくなりたいと評判の主従だが、口を開いてからの彼女たちを知っているコズウェイルは、あまり賛同する気にはなれない。
「ネイヴァから話を聞いてね。あの子供が、かなり危険になってきているというから、少し話を聞きたいと思ったのよ」
「……黒猫か。酷い怪我をしたらしいな。レクセントの王都で」
「ええ。幸い命に別状はなかったわ。調子に乗って相手の誘いに乗るなんて……。もう少し落ち着きが出てくれればいいのだけれど」
「私に言われても困る」
「少しぐらい愚痴を言わせて頂戴」
コズウェイルは卓上にあった鈴を振り、下女を呼びつけた。現れた黒い翼を揺らす少女に、蒸留酒を持ってくるよう言いつけると、女の向かい側に腰を下ろした。アベリアルも、それを見て再び座る。
「……あの黄昏人たちに傷を負わされてから、かしら。あの子供がずいぶんと凶暴になったのは?」
「………」
コズウェイルは片方の眉をひくりと動かす。
「そろそろ限界でしょう? 黄昏人には、重荷だったのかもしれないわね。……あなたがなぜ、そこまであの二人にこだわるのかは分からないけれど。あなた自身が出て行った方がいいのではなくて?」
「それは、分かっている……。分かっているのだが」
コズウェイルは言葉を切った。下女が酒を持って現れたのだ。美しい切子細工のグラスがテーブルに置かれるのを、二人はじっと見つめた。
下女が下がるのを見届けてから、コズウェイルは再び口を開いた。
「……あいつたちに、最後まで任せてみたいのだよ」
「ずいぶんと買っているのね」
アベリアルは、探るような視線を向けてきた。コズウェイルは、その意味に気づいて唇の端を上げる。
「理由は分かっているのだろう?」
「推測の域を出ないわ」
「女の勘とやらは、鋭い」
肩をすくめるコズウェイルから視線を外さぬまま、アベリアルは杯を取り上げ、舐めるように口をつけた。
「ゼフィオンの理由はそう(、、)だとして……。あのアスレシアという女は、どうして? そこまで見込みのある女なのかしら」
「そう……だな」
コズウェイルは杯を揺らすと、中の酒を一息に干した。液体が喉を焼いて滑り落ちてゆき、幾度となく思い返した鮮明な記憶が再生される。
――爽やかな初秋の朝だ。魔族には不快とさえ感じる朝陽の下、あの女は己の胸に突き立った短剣を握りしめ、倒れこんだ。普通ならば、それで終わるだろう。自身も、何も感じることなく女を見捨て、その場を去ったはずだ。何しろ裏切者は逃走したのだから。後を追って然るべきだった。
だが、女は起き上がろうとした。震える手で己が胸の剣を引き抜き、血にまみれながら、なおも立ち上がろうとした。
もがき、崩れ、そしてまた立ち上がろうとする女に、自分はいったい何を見出したのだろう。
目の前でどんどん朱に染め上げられてゆく女を、見下ろした。足はすでに止まっていた。逃亡者の後を追わねばという気持ちも失せていた。そして。
顔を上げた女と眼が合ったのだ。深い青灰色の瞳。そこからただ一筋零れた滴は、瞳と同じ色に見えた。
その瞬間、彼の身体は動いていた。レイピアで自分の掌を裂き、倒れ伏す女の傷口へと押し当てた。低く呪文をつぶやくと、噛み切って血の滲んだ唇で女の口を塞いだ――。
あの時、女の面に宿るあまりにも強い炎に、コズウェイルは図らずも魅せられてしまった。冥界の貴族が、死神ともあろう男が、心を動かされたのだ。
買いかぶりすぎか? そうかも知れぬ。たかが元は人間の半魔に、どれほどの期待をかけようというのか。だが。
コズウェイルは、己の勘を信じたかった。
「あの女に、魔族としてひとつの目的を成し遂げさせれば、強力な力となろう。あいつの内なる意思は、見過ごせぬほど強いものだ」
「なるほどね」
アベリアルは、とりあえず理解は示してみせる。
「コズウェイル。あなたは、死神のくせに心が豊か過ぎるようね」
「………」
「ま、そんなことは、私に言われなくても分かっているでしょうけれど」
そして、もう一度杯を舐めると眉をしかめ、やはり強すぎると文句を言った。
「それで。結局のところ、あなたが出るつもりはないという事?」
「ない」
きっぱりとコズウェイルは言い切った。これ以上言っても無駄だと暗に示され、アベリアルは苦笑を浮かべる。
「でも、そろそろ決着はつけるつもりなんでしょう」
「ああ。――やつは今、北限の島にいる。それは、奴自身が何らかの終焉を望んでいるという事だろうな。そうでなくば、自らを袋小路に追い詰めるような真似はするまい」
「サニト・ベイの魔力は、どれほどになっているのかしら」
「想像もつかぬな」
コズウェイルは、再度下女を呼びつけ、今度は甘い果実酒を持ってくるように命じた。
「あいつの存在そのものが、想像を超えているのだから」
「それもそうね……」
アベリアルは肯いてから一度口を閉じ、それから思い切ったように続けた。
「それでも……。あなたは、黄昏人にすべてを任せるのね」
「そうだ」
「ゼフィオンを失うかもしれないのに? あなたの大切な……」
「アベリアル」
コズウェイルの厳しい一言に遮られ、アベリアルは口をつぐんだ。
「それ以上言ってはならぬ。私にも、死神としての立場というものがある」
「………」
下女が静かに入ってくる。コズウェイルは、運ばれてきた二つの杯を盆から取り上げ、一つをアベリアルに手渡した。満たされた赤い液体が、不規則に揺れる。
近々、己自身も北の果てに赴くだろう。少年が大罪をあがなう瞬間を見届けるために。
(我が黄昏人たちよ。期待を裏切ってくれるなよ)
心中でひとりごち、杯をあおる。
眼が合ったアベリアルに、コズウェイルは薄く笑いかけた。
2014.12.06(Sat):黄昏人
第九章 四話
鮮やかな色彩を全身にまとった街が嬌声をたてる。舞台に立つ踊り子のごとく妖しい興奮をはらみ、人々をさらに昂ぶらせてゆく。
祭である。
レクセント王国を守護する古代神ギィと雪の精霊フィエランティナの婚礼を寿(ことほ)ぐ風花祭礼(かざばなのまつり)。日頃の憂さを晴らし、辛さを忘れ、人々が無為に活気づく日。
紅炎の館には、能力者たちの芸を見ようと多くの人が詰め掛けていた。
中庭に舞台を設置し、木製の粗末な長椅子が狭い間隔でずらりと並べられている。そのどれもが人で埋まっており、空席はすでに無い。
アスレシアたちは朝から脇の一画に陣取り、ずっとレオンの様子を観察していた。あれから二日、彼らは少年の身辺を探り続けたのだが、結局目ぼしいものを何一つ見つけられないまま当日を迎えてしまったのである。
出番でない能力者たちには、それぞれ決まった役割があるらしく、入り口で入場券を受け取ったり客の整備に当たったりしている。レオンは司会役を任されていて、仔猫のエスと共にずっと舞台の傍らで次の演目や解説に声を張り上げていた。
「運が良かったな。これなら楽に見張れる」
ゼフィオンの言葉にアスレシアもうなずいた。ネイヴァだけが、一人面白くもなさそうに組んだ膝の上に頬杖をつく。
「もしかして、夜までこうしてくだらない大道芸を見ていろって言うの?」
「大道芸じゃなくて、レオンをな」
「余計につまらないわよ。演目を読み上げるだけで精一杯じゃない、あの悪ガキ」
「何を期待しているんだ」
アスレシアは、ネイヴァに鋭い視線を向けてたしなめた後、腕を組んでレオンに目を戻した。今のところ、特に目立った変化や動きはない。このまま何事もなく過ぎてくれれば良いのに、と淡い期待を込めて少年を見つめる。サニト・ベイが絡んでいる以上、無事に事が済むなどあろうはずがないのは、十分に分かっているのだが……。
しばらくすると、レオンが手にしていた紙片を胸ポケットにしまい、他の者と交代した。どうやら出番らしい。アスレシアの緊張が少しばかり高まる。
「続きまして、レオンによる火炎の舞いにございます」
司会としては、お世辞にも上手いとはいえぬ声が会場に響くと、客の間からワッと歓声が上がった。レオンが一番の目玉は自分だと言っていたのは、あながち嘘ではないらしい。拍手と口笛に迎えられるようにして、レオンがはにかみながら舞台に踊り出た。
「レオン! 三日間の昼食代くらいは、楽しませなさいよ!」
歓声の中、ネイヴァが叫んだ。よく通る彼女の声に、周囲の観客が振り返る。アスレシアとゼフィオンは揃って苦笑を洩らした。
レオンは、ネイヴァに向かって胸を小さくひとつ叩いてみせると、客席に向き直り深々と頭を下げた。エスが心得たように肩から下り、舞台の袖から消えた。
「今日は紅炎の館にようこそお出でくださいました! 僕は、レオン・ノイエ。このクルーデン・ヒル一の火の能力者です。この風花祭礼の日に、ぜひ皆さんに僕の素晴らしい力を見ていただきたいと思います!」
先の司会とは打って変わって、流れるような挨拶だ。観客たちは、一斉に喝采を浴びせかけた。レオンはもう一度お辞儀をしてから舞台の中央へと移動し、やや緊張した面持ちで掌を服に擦りつける。
静まりかえった観客に見守られ、少年の両手が高々と上がった。いよいよ芸が始まろうとした――まさにその時。
「………!」
アスレシアは、はっと面を上げた。視界の端に飛び込んできたのは、黒い煙。
舞台の後方、いや、紅炎の館の中だ。弾かれたように三人は立ち上がった。
「なぜだ? レオンは……」
ドオオオン。
怒鳴る彼女の言葉をかき消して、巨大な火柱が天を突いた。
「きゃああああっ」
「何だ、あの火は!」
「あれが見世物なのか?」
「馬鹿言え! あれが芸なもんか!」
観客たちは一瞬にして混乱状態に陥り、大騒ぎとなった。観客だけではない。巨大な火柱は、クルーデン・ヒルにいる人々すべての目に入ったに違いない。館の外からも、人々の喚きたてる声が響いてきた。
三人は、逃げ出す人々の流れに逆らい舞台へと向かう。舞台の上では、茫然とレオンが突っ立っていた。アスレシアは彼の元まで駆け寄ってその肩を掴み、揺さぶった。
「レオン、どういうことだ! お前が、サニト・ベイに力を……」
「知らないよ! 僕じゃない! 僕はあんなの知らない!」
恐怖のためか、ぼろぼろと涙を流し、レオンはアスレシアにしがみついてきた。そのあまりに正直な子供の反応に、彼女は言葉を継ぐ事ができない。レオンの肩を掴む手を緩めて少年を落ち着かせようとし――。ふと、眉をひそめた。
(サニト・ベイの気配が……)
鮮やかに感じていたはずのサニト・ベイの嘲笑が、微かなものになっている。まさか自分の魔力が弱まってしまったのかと、不安がよぎった。
「アスレシア!」
ゼフィオンの鋭い声に、顔を向けた。館に上がった炎は、恐ろしい勢いで燃え広がっていた。昨夜の小火とは比べものにならない。意思を持った生物のごとく建物を舐めていく。
「こっちだ!」
言うなり、ゼフィオンは身を翻して舞台から降りた。アスレシアとレオンも急いで後を追う。
「ゼフィオン! ネイヴァはどうした?」
「追っている!」
「誰を……」
言いかけて、口を閉ざした。すうっと顔から血の気が引いていく。
――分かった。なぜ、レオンにあったサニト・ベイの気配が弱まったのか。彼のまったく関係のないところで炎が上がったのか。そして、ネイヴァが先に追ったのか。
アスレシアは、手を伸ばしてレオンの行く手を遮った。驚いた様子で少年は足を止める。
「この先は私たちに任せて、お前は逃げろ」
「ええ!? どうして! 僕は、この館の……」
「いいから逃げろ!」
びくっと身を縮めたレオンに背を向け、アスレシアは駆け出した。怒りに噛みしめた奥歯が、ぎりりと悲鳴をあげる。
ゼフィオンに追いつき、二人は激しく燃え盛る建物の前に立った。風に煽られて飛び火したのか、数箇所から火の手が上がっていた。このままでは、辺り一帯が火事になってしまいそうだ。早く何とかしなければならない。
警固兵たちが、ようやく消火活動のために集まり始めている。アスレシアは、空を振り仰ぐと炎に向かって叫んだ。
「ネイヴァ! どこにいる!!」
バリバリと音を立てて館の屋根の一部が崩れ落ちる。何人かが巻き込まれたらしく、悲鳴が上がった。人々は泣き喚き逃げ惑い、一帯はさながら戦場のようになっていた。
「ニャーオ」
耳を塞ぎたくなる騒音の中、はっきりと猫の声が届く。直後、塊が二つ落下してくるのが見え、アスレシアとゼフィオンは慌てて駆け寄った。
ドサリ。地面に落ちた塊は、二つとも動かない。アスレシアは、素早く黒い方を手に抱き取った。黄金色の目がうっすらと開き、弱々しくニャアと鳴く。
「ネイヴァ……。大丈夫だ。すぐに連れて帰ってやる」
べっとりと血で汚れた己の掌に頬を引きつらせながら、アスレシアは囁いた。ゼフィオンが彼女の手からネイヴァを抱き上げると、そうっと自身のマントで小さな身体を包んでやる。そして、「すぐに戻る」とアスレシアに肯きかけると、その場を離れていった。
アスレシアは束の間その背を見送ると、地面に倒れていたもう一つの塊を睨み据えた。こちらも酷い怪我を負っているらしく、地面にどす黒い染みが広がっている。
「サニト・ベイに力を貰ったのは、レオンだけではなかった……。むしろ、お前の方が力を与えられていたんだな」
「ニャア」
茶トラの仔猫は、答えるように鳴いた。その声にはっきりと嘲りの色を感じ取り、アスレシアは表情を強張らせる。
「ク……クク……。イママデ、きガつかないトハ、どこマデ、おろかナンダロウ、ね」
たどたどしい言葉が、仔猫の口から洩れた。
「まずテハジメに、ゴウマンなクロネコ。つぎハ、オヒトヨシのオオカミ。それかラ、おまえダヨ、アスレシア。ボクを、きずツケタむくいを、ウケテもらう」
「鬼ごっこは、もう終わりということか」
「そうダね。これイジョウ、オマエとあそぶのハ、ヤメだ。イッタだろう。ぼくニモ、カンガエがある、ト」
仔猫は、嗤った。湧き上がる怒りに言葉を上手く継げないアスレシアに向かい、小さな、しかし凶悪な牙を光らせる。
「セッカクだから、おまえハ、ボクが、アイテをシテあげヨウ。ハヤク、おいデ。マッテいるカラ」
「焦らなくても殺してやる。首を洗って待っていろ!」
「クク……ククク。タノシミにしてイルよ」
仔猫はさも可笑しそうに今一度牙を見せて笑った。そして、次の瞬間、ひらりと身を翻した。
「エス!!」
アスレシアは我に返って地面を蹴った。血飛沫を撒き散らしながら逃げようとする小さな身体に向かって、精一杯腕を伸ばす。と、その脇を。
さっと一つの影がすり抜けた。彼女よりも早くエスに飛びつき、地面を転がった姿を見て、アスレシアは驚きの声を上げる。
「レオン!」
少年は彼女を見上げると微笑もうとしたが、仔猫に狂ったように爪と牙を立てられ、顔を歪める。アスレシアは腰袋から応急処置用の布を取り出すと、仔猫の攻撃を防ぎつつ少年の腕に手早く巻きつけてやった。
「戻ってきたのか」
「うん。……あの子が教えてくれたんだ。エスが死んじゃうって」
振り返ったレオンの視線の先には、ゼフィオンとユナがいた。ゼフィオンに守られるようにして近づいてきたユナは、不安気に目を伏せた。
「今朝、予見でアスレシアさんと仔猫が見えました。そうしたら、〈紅炎の館〉が火事だって聞いて……。急いで来てみたら、ゼフィオンさんと彼に会ったんです」
腕の中のエスが若干おとなしくなったのを見て取り、彼女はレオンの肩に手を回して立たせた。友に抱かれて自我が蘇ってきたのか、仔猫の目から狂気は薄らいでいる。
「ゼフィオン、ネイヴァは……」
二匹の猫の血に濡れた手を見つめ、口を開いた。が、すぐ近くで派手な音をたてて建物の屋根が崩れた。派手に舞い上がった火の粉に、子供たちがびくっと身体をすくめる。
「その話は後だ。早くここを離れた方がいい」
ゼフィオンが緊迫した面持ちで建物を見上げる。
彼らに気づいた警固兵が、何かを叫ぶのが見えた。立ち込める煙と喧騒の中、四人と一匹は急いで混乱の中に逃げ込んだ。
結局、火が完全に鎮まったのは、その日の夜更け過ぎだった。〈紅炎の館〉は建物すべてを灰にし、最後まで消火を諦めなかった数人の住人と警固兵が犠牲になった。だが、大勢の人で賑わう祭の只中で起きた災厄にしては、ずいぶんと被害が少なかったといえるだろう。レクセントの行き届いた設備と体制が、被害を最小限に抑えたのだ。
混乱がようやく下火になった二日後、アスレシアとゼフィオンはクルーデン・ヒルの城門にいた。ユナとレオンが二人を見送りに来てくれていた。
「すまない。……結局、何もできなかったな」
アスレシアの言葉に、ユナは小さくかぶりを振った。
「あなたたちがいなければ、もっと多くの人が亡くなっていたと思います。それよりも、ネイヴァさんが怪我をしてしまって……。私のほうが謝らないと」
「それは、気にしなくていい。あいつは、見かけよりもずっと強いから」
安心させるように微笑み、ゼフィオンを見る。彼も同じようにユナに笑いかけて肯いた。
「レオン」
アスレシアは少年へと視線を移す。痛々しい包帯姿のエスを抱えたレオンは、一度彼女と目を合わせた後、唇を噛んでうつむいた。
「エスが無事で、本当に良かったな。もう、他人に力を借りようとするなよ」
レオンが顔を上げた。生意気な少年の瞳に、涙が一杯に溜まっている。
「……ごめんなさい」
アスレシアとゼフィオンは、柔らかな笑みを浮かべると、馬上の人となった。
「さよなら」
「どうか、気をつけて」
物言いたげなユナに最後に微笑を送り、馬首を返す。見覚えのある門兵に、チラリと鋭い視線をくれた。
手を振る二人の小さな影に別れを告げた後、巨大な城門から視線を戻し、ゼフィオンが口を開いた。
「行くか」
「ああ」
アスレシアは肯いた。耳元で鳴く風の中に、昨夜ユナから告げられた言葉が聞こえた。
『お願いです。決して北には行かないで下さい。もしも北に行けば、あなたたちは……』
凛とした面に、別人のごとく酷薄な笑みが浮かぶ。
吹きつける寒風。二頭の馬はゆっくりと歩き始めた。――北に向かって。
祭である。
レクセント王国を守護する古代神ギィと雪の精霊フィエランティナの婚礼を寿(ことほ)ぐ風花祭礼(かざばなのまつり)。日頃の憂さを晴らし、辛さを忘れ、人々が無為に活気づく日。
紅炎の館には、能力者たちの芸を見ようと多くの人が詰め掛けていた。
中庭に舞台を設置し、木製の粗末な長椅子が狭い間隔でずらりと並べられている。そのどれもが人で埋まっており、空席はすでに無い。
アスレシアたちは朝から脇の一画に陣取り、ずっとレオンの様子を観察していた。あれから二日、彼らは少年の身辺を探り続けたのだが、結局目ぼしいものを何一つ見つけられないまま当日を迎えてしまったのである。
出番でない能力者たちには、それぞれ決まった役割があるらしく、入り口で入場券を受け取ったり客の整備に当たったりしている。レオンは司会役を任されていて、仔猫のエスと共にずっと舞台の傍らで次の演目や解説に声を張り上げていた。
「運が良かったな。これなら楽に見張れる」
ゼフィオンの言葉にアスレシアもうなずいた。ネイヴァだけが、一人面白くもなさそうに組んだ膝の上に頬杖をつく。
「もしかして、夜までこうしてくだらない大道芸を見ていろって言うの?」
「大道芸じゃなくて、レオンをな」
「余計につまらないわよ。演目を読み上げるだけで精一杯じゃない、あの悪ガキ」
「何を期待しているんだ」
アスレシアは、ネイヴァに鋭い視線を向けてたしなめた後、腕を組んでレオンに目を戻した。今のところ、特に目立った変化や動きはない。このまま何事もなく過ぎてくれれば良いのに、と淡い期待を込めて少年を見つめる。サニト・ベイが絡んでいる以上、無事に事が済むなどあろうはずがないのは、十分に分かっているのだが……。
しばらくすると、レオンが手にしていた紙片を胸ポケットにしまい、他の者と交代した。どうやら出番らしい。アスレシアの緊張が少しばかり高まる。
「続きまして、レオンによる火炎の舞いにございます」
司会としては、お世辞にも上手いとはいえぬ声が会場に響くと、客の間からワッと歓声が上がった。レオンが一番の目玉は自分だと言っていたのは、あながち嘘ではないらしい。拍手と口笛に迎えられるようにして、レオンがはにかみながら舞台に踊り出た。
「レオン! 三日間の昼食代くらいは、楽しませなさいよ!」
歓声の中、ネイヴァが叫んだ。よく通る彼女の声に、周囲の観客が振り返る。アスレシアとゼフィオンは揃って苦笑を洩らした。
レオンは、ネイヴァに向かって胸を小さくひとつ叩いてみせると、客席に向き直り深々と頭を下げた。エスが心得たように肩から下り、舞台の袖から消えた。
「今日は紅炎の館にようこそお出でくださいました! 僕は、レオン・ノイエ。このクルーデン・ヒル一の火の能力者です。この風花祭礼の日に、ぜひ皆さんに僕の素晴らしい力を見ていただきたいと思います!」
先の司会とは打って変わって、流れるような挨拶だ。観客たちは、一斉に喝采を浴びせかけた。レオンはもう一度お辞儀をしてから舞台の中央へと移動し、やや緊張した面持ちで掌を服に擦りつける。
静まりかえった観客に見守られ、少年の両手が高々と上がった。いよいよ芸が始まろうとした――まさにその時。
「………!」
アスレシアは、はっと面を上げた。視界の端に飛び込んできたのは、黒い煙。
舞台の後方、いや、紅炎の館の中だ。弾かれたように三人は立ち上がった。
「なぜだ? レオンは……」
ドオオオン。
怒鳴る彼女の言葉をかき消して、巨大な火柱が天を突いた。
「きゃああああっ」
「何だ、あの火は!」
「あれが見世物なのか?」
「馬鹿言え! あれが芸なもんか!」
観客たちは一瞬にして混乱状態に陥り、大騒ぎとなった。観客だけではない。巨大な火柱は、クルーデン・ヒルにいる人々すべての目に入ったに違いない。館の外からも、人々の喚きたてる声が響いてきた。
三人は、逃げ出す人々の流れに逆らい舞台へと向かう。舞台の上では、茫然とレオンが突っ立っていた。アスレシアは彼の元まで駆け寄ってその肩を掴み、揺さぶった。
「レオン、どういうことだ! お前が、サニト・ベイに力を……」
「知らないよ! 僕じゃない! 僕はあんなの知らない!」
恐怖のためか、ぼろぼろと涙を流し、レオンはアスレシアにしがみついてきた。そのあまりに正直な子供の反応に、彼女は言葉を継ぐ事ができない。レオンの肩を掴む手を緩めて少年を落ち着かせようとし――。ふと、眉をひそめた。
(サニト・ベイの気配が……)
鮮やかに感じていたはずのサニト・ベイの嘲笑が、微かなものになっている。まさか自分の魔力が弱まってしまったのかと、不安がよぎった。
「アスレシア!」
ゼフィオンの鋭い声に、顔を向けた。館に上がった炎は、恐ろしい勢いで燃え広がっていた。昨夜の小火とは比べものにならない。意思を持った生物のごとく建物を舐めていく。
「こっちだ!」
言うなり、ゼフィオンは身を翻して舞台から降りた。アスレシアとレオンも急いで後を追う。
「ゼフィオン! ネイヴァはどうした?」
「追っている!」
「誰を……」
言いかけて、口を閉ざした。すうっと顔から血の気が引いていく。
――分かった。なぜ、レオンにあったサニト・ベイの気配が弱まったのか。彼のまったく関係のないところで炎が上がったのか。そして、ネイヴァが先に追ったのか。
アスレシアは、手を伸ばしてレオンの行く手を遮った。驚いた様子で少年は足を止める。
「この先は私たちに任せて、お前は逃げろ」
「ええ!? どうして! 僕は、この館の……」
「いいから逃げろ!」
びくっと身を縮めたレオンに背を向け、アスレシアは駆け出した。怒りに噛みしめた奥歯が、ぎりりと悲鳴をあげる。
ゼフィオンに追いつき、二人は激しく燃え盛る建物の前に立った。風に煽られて飛び火したのか、数箇所から火の手が上がっていた。このままでは、辺り一帯が火事になってしまいそうだ。早く何とかしなければならない。
警固兵たちが、ようやく消火活動のために集まり始めている。アスレシアは、空を振り仰ぐと炎に向かって叫んだ。
「ネイヴァ! どこにいる!!」
バリバリと音を立てて館の屋根の一部が崩れ落ちる。何人かが巻き込まれたらしく、悲鳴が上がった。人々は泣き喚き逃げ惑い、一帯はさながら戦場のようになっていた。
「ニャーオ」
耳を塞ぎたくなる騒音の中、はっきりと猫の声が届く。直後、塊が二つ落下してくるのが見え、アスレシアとゼフィオンは慌てて駆け寄った。
ドサリ。地面に落ちた塊は、二つとも動かない。アスレシアは、素早く黒い方を手に抱き取った。黄金色の目がうっすらと開き、弱々しくニャアと鳴く。
「ネイヴァ……。大丈夫だ。すぐに連れて帰ってやる」
べっとりと血で汚れた己の掌に頬を引きつらせながら、アスレシアは囁いた。ゼフィオンが彼女の手からネイヴァを抱き上げると、そうっと自身のマントで小さな身体を包んでやる。そして、「すぐに戻る」とアスレシアに肯きかけると、その場を離れていった。
アスレシアは束の間その背を見送ると、地面に倒れていたもう一つの塊を睨み据えた。こちらも酷い怪我を負っているらしく、地面にどす黒い染みが広がっている。
「サニト・ベイに力を貰ったのは、レオンだけではなかった……。むしろ、お前の方が力を与えられていたんだな」
「ニャア」
茶トラの仔猫は、答えるように鳴いた。その声にはっきりと嘲りの色を感じ取り、アスレシアは表情を強張らせる。
「ク……クク……。イママデ、きガつかないトハ、どこマデ、おろかナンダロウ、ね」
たどたどしい言葉が、仔猫の口から洩れた。
「まずテハジメに、ゴウマンなクロネコ。つぎハ、オヒトヨシのオオカミ。それかラ、おまえダヨ、アスレシア。ボクを、きずツケタむくいを、ウケテもらう」
「鬼ごっこは、もう終わりということか」
「そうダね。これイジョウ、オマエとあそぶのハ、ヤメだ。イッタだろう。ぼくニモ、カンガエがある、ト」
仔猫は、嗤った。湧き上がる怒りに言葉を上手く継げないアスレシアに向かい、小さな、しかし凶悪な牙を光らせる。
「セッカクだから、おまえハ、ボクが、アイテをシテあげヨウ。ハヤク、おいデ。マッテいるカラ」
「焦らなくても殺してやる。首を洗って待っていろ!」
「クク……ククク。タノシミにしてイルよ」
仔猫はさも可笑しそうに今一度牙を見せて笑った。そして、次の瞬間、ひらりと身を翻した。
「エス!!」
アスレシアは我に返って地面を蹴った。血飛沫を撒き散らしながら逃げようとする小さな身体に向かって、精一杯腕を伸ばす。と、その脇を。
さっと一つの影がすり抜けた。彼女よりも早くエスに飛びつき、地面を転がった姿を見て、アスレシアは驚きの声を上げる。
「レオン!」
少年は彼女を見上げると微笑もうとしたが、仔猫に狂ったように爪と牙を立てられ、顔を歪める。アスレシアは腰袋から応急処置用の布を取り出すと、仔猫の攻撃を防ぎつつ少年の腕に手早く巻きつけてやった。
「戻ってきたのか」
「うん。……あの子が教えてくれたんだ。エスが死んじゃうって」
振り返ったレオンの視線の先には、ゼフィオンとユナがいた。ゼフィオンに守られるようにして近づいてきたユナは、不安気に目を伏せた。
「今朝、予見でアスレシアさんと仔猫が見えました。そうしたら、〈紅炎の館〉が火事だって聞いて……。急いで来てみたら、ゼフィオンさんと彼に会ったんです」
腕の中のエスが若干おとなしくなったのを見て取り、彼女はレオンの肩に手を回して立たせた。友に抱かれて自我が蘇ってきたのか、仔猫の目から狂気は薄らいでいる。
「ゼフィオン、ネイヴァは……」
二匹の猫の血に濡れた手を見つめ、口を開いた。が、すぐ近くで派手な音をたてて建物の屋根が崩れた。派手に舞い上がった火の粉に、子供たちがびくっと身体をすくめる。
「その話は後だ。早くここを離れた方がいい」
ゼフィオンが緊迫した面持ちで建物を見上げる。
彼らに気づいた警固兵が、何かを叫ぶのが見えた。立ち込める煙と喧騒の中、四人と一匹は急いで混乱の中に逃げ込んだ。
結局、火が完全に鎮まったのは、その日の夜更け過ぎだった。〈紅炎の館〉は建物すべてを灰にし、最後まで消火を諦めなかった数人の住人と警固兵が犠牲になった。だが、大勢の人で賑わう祭の只中で起きた災厄にしては、ずいぶんと被害が少なかったといえるだろう。レクセントの行き届いた設備と体制が、被害を最小限に抑えたのだ。
混乱がようやく下火になった二日後、アスレシアとゼフィオンはクルーデン・ヒルの城門にいた。ユナとレオンが二人を見送りに来てくれていた。
「すまない。……結局、何もできなかったな」
アスレシアの言葉に、ユナは小さくかぶりを振った。
「あなたたちがいなければ、もっと多くの人が亡くなっていたと思います。それよりも、ネイヴァさんが怪我をしてしまって……。私のほうが謝らないと」
「それは、気にしなくていい。あいつは、見かけよりもずっと強いから」
安心させるように微笑み、ゼフィオンを見る。彼も同じようにユナに笑いかけて肯いた。
「レオン」
アスレシアは少年へと視線を移す。痛々しい包帯姿のエスを抱えたレオンは、一度彼女と目を合わせた後、唇を噛んでうつむいた。
「エスが無事で、本当に良かったな。もう、他人に力を借りようとするなよ」
レオンが顔を上げた。生意気な少年の瞳に、涙が一杯に溜まっている。
「……ごめんなさい」
アスレシアとゼフィオンは、柔らかな笑みを浮かべると、馬上の人となった。
「さよなら」
「どうか、気をつけて」
物言いたげなユナに最後に微笑を送り、馬首を返す。見覚えのある門兵に、チラリと鋭い視線をくれた。
手を振る二人の小さな影に別れを告げた後、巨大な城門から視線を戻し、ゼフィオンが口を開いた。
「行くか」
「ああ」
アスレシアは肯いた。耳元で鳴く風の中に、昨夜ユナから告げられた言葉が聞こえた。
『お願いです。決して北には行かないで下さい。もしも北に行けば、あなたたちは……』
凛とした面に、別人のごとく酷薄な笑みが浮かぶ。
吹きつける寒風。二頭の馬はゆっくりと歩き始めた。――北に向かって。
2014.12.06(Sat):黄昏人
第九章 三話
翌朝、白日の下に紅炎の館は無残な姿を晒していた。
被害があったのは館の一画だけであり、幸いなことに死者や重傷人もなかったので、すでに周囲は平穏を取り戻して見物人は皆無だった。警固兵が二人、退屈極まりない顔で見張りに立っているだけである。
アスレシアとゼフィオン、ネイヴァの三人は、塀の外から様子を窺った。昨夜のレオンという少年がいるかどうか、確かめに来たのだ。
「あの少年は、火の能力者なのか?」
ゼフィオンが大欠伸をしながら言った。傍らのネイヴァが含み笑いをしているのに気づき、憮然とした顔で彼女の肩を小突く。
「館から出てきたからな……。あの少年が火を出したのかどうかは分からないが、サニト・ベイと関わりがあるのは間違いなさそうだ」
「じゃあ、その少年を捕まえれば、不吉な力とやらは防げるっていうわけ?」
「理屈ではそうなる。が……」
アスレシアは、片手で口元を覆って考え込んだ。
「そう簡単にいくかどうか」
「それはそうね。何しろ、あいつ(、、、)なんだから」
館の中には入れそうにない。中庭を人が時々横切るのが見えるが、いずれもレオンではなかった。
「迷ってるより訊いた方が早いんじゃないの?」
「そうだな。俺もそう思う」
あっけらかんと言うネイヴァに、ゼフィオンがすかさず同意した。思いがけず息の合ったところを見せられて、アスレシアは一瞬鼻白む。
「……じゃあ、訊いてくる」
自分でも思ってみなかったほど棘を含んだ声になり、アスレシアは慌てて二人に背を向けた。門前まで行くと、偶然出てきた壮年の男―魔術師でも気取っているのか、全身黒ずくめの長衣をまとっていた―に近づいていく。
「ここにレオンという男の子はいるだろうか」
ローブの男は、いかにも胡散臭そうな目つきでアスレシアを睨め回す。
「レオンなら、いつものように買い物に出ている……。知り合いか?」
「少しな」
いないのなら、余計な事を話す必要はない。そう思って踵を返そうとした矢先、背にネイヴァの声が飛んできた。
「アスレシア! この子じゃないの?」
振り返ると、そこには、きょとんとした表情のレオンがいた。肩には、昨日と同じく仔猫のエスが乗っている。
ゼフィオンとネイヴァを前に不思議そうな表情をしていたレオンだったが、アスレシアを見たとたん悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、アスレシアさんだ。……へえ、夜より昼のほうがやっぱり綺麗だね。僕の好みかどうかは別にして」
十歳程度の子供の言葉とは思えない。アスレシアは怒りを通り越して苦笑を浮かべながら、レオンの元へと歩いて行った。
「少年、今日はじっくりと話を聞かせてもらうぞ」
「そんなに話すことなんてないんだけど」
レオンは、三人の大人を向こうに回しても一向に怯む気配はない。むしろ、余裕すら感じさせるその態度に、アスレシアは苦りきった表情になる。
「とにかく、少し移動しよう」
先の黒いローブの男が、不審な目つきで彼らを見ていた。無邪気に「お腹が減った」というレオンに、一行は通りにある小さな食堂に入ることにした。
ちょうど朝食の時間ということもあり、小さな店内は意外と混雑していた。席につくなりメニューを手にして次々と注文し始めたレオンを見て、ネイヴァが呆れた様子で足元のエスを抱き上げる。
「ちょっと。調子に乗るんじゃないよ、悪ガキ」
「いいじゃないか。お姉さん、美人がそんな話し方をしてたら、男の人がガッカリするよ」
「あんたに言われる筋合いはないって」
呆れた口調で返すと、ネイヴァはエスの耳を引っ張って遊ぶ。エスは甚だ迷惑そうに首を振った。が、それ以上嫌がるわけでもなく彼女の手から逃れようとはしない。アスレシアは、猫同士通じるものでもあるのかと興味を持ってエスを眺めた。
「アスレシアさん、猫好き?」
エスをじっと見つめるアスレシアに気づいたレオンが、尋ねてきた。ネイヴァの黄金色の瞳と視線を合わせてから、彼女はとぼけた口調で言う。
「猫によるかな。悪戯が過ぎる猫は嫌いだ」
「ふふ。猫はみんな悪戯好きなのよ。ね、エス?」
ネイヴァの言葉に、エスは小さくニャアと返事をすると、するりと床へ降りた。そして、レオンの足元でうずくまる。猫との相性が極めてよろしくないゼフィオンが、幾分ホッとしたように話題を変えた。
「猫のことなんて放っておいて、肝心のサニト・ベイの事を聞かせてもらおうか」
「食べながらでもいい? 僕、お腹が減って我慢できないよ」
言いつつ、すでにレオンの手は運ばれてきたばかりの皿に伸びていた。炙った鹿の塩漬け肉と甘味のあるタランの実を合えたクルーデン・ヒル名物〈フィフ・タラン〉である。
「みんなも食べれば?」
口いっぱいに頬張り、レオンは言った。金を払うのはアスレシアたちに決まっているのだが、まったく悪びれた様子はない。アスレシアは、うんざりとした様子で溜息をひとつつくと、通りかかった給仕の女に果実水を三つ注文した。
「――で、サニト・ベイとはいつ会った?」
香ばしい匂いにあっさりと屈し、ゼフィオンがフォークを手に取りながら言った。レオンは肉を飲み下してから、首を傾げてみせる。
「いつだったかなあ……。五日ほど前、かな。紅炎の館に来て、僕の芸を見てたんだ。僕、どうしても上手くいかなくて失敗ばかりしてたんだよね。そしたら、サニトさんが手伝ってあげるって、僕の力を助けてくれたんだよ」
「火を操る力を大きくしてもらったのか」
「うん。でも、そんなに大きな力じゃないよ。芸が上手くできるほどの力さ。……おかげで祭には何とか間に合いそうだよ。僕の芸がこの祭で一番の出し物なんだから」
アスレシアとゼフィオンは顔を見合わせた。サニト・ベイが純粋に少年を助けるなど考えられなかったのだ。少年が気づいていないところで罠を仕掛けているとしか思えない。
「奴とは何を話した?」
「覚えてないなあ。特別変わった事なんて話さなかったと思うけど」
「お前の力を大きくした後、紅炎の館に入ったりはしたか?」
アスレシアの問いに、レオンは大げさに驚いた表情をしてみせた。
「まさか! どんな人でも部外者は一切入れないよ。サニトさんは、庭先で僕に力をくれただけさ。それから、すぐにどこかへ行っちゃった」
以下に口が達者な子供とはいえ、ここまで自然に嘘をつくのは難しいだろう。アスレシアは、レオンの言葉に真実を嗅ぎ取った。それはゼフィオンもネイヴァも同じらしく、彼女が視線を向けると密かに肯く。
「やつは、私のことを言っていたのだろう? 何と言っていた」
アスレシアは質問を変えた。
「何って……。アスレシアっていう女の人が、きっと後からここに来るって。もう半年近くもずっとサニトさんを追いかけてくるんだって言ってたよ。いつも怒って怖い顔してね。でも、そのくせ全然僕を捕まえることができないんだって笑ってた」
「………」
アスレシアは苦い笑いを洩らすしかなかった。相手が大人であれば、テーブルの下で蹴りのひとつでも見舞ってやるところだが、子供が相手ではそうもいかない。
「もうすぐ捕まえてやるさ」
運ばれてきた麦酒をあおり、独り言のようにつぶやいた。これ以上、サニト・ベイの思うままにさせておくつもりは、当然ながらなかった。半年という期間を得て、白金の美しき王子は恐ろしいまでの魔力を手にした。それはすでに、コズウェイルの手から逃れ、アスレシアたちを罠にはめて遊ぶだけでは、持て余してしまうほどの力となっているはずだ。彼が何かとてつもない考えを起こさぬうちに捕らえ、死神の元へ送り届けてやらなければならない。アスレシアの心に、小さな苛立ちが生まれる。
「サニト・ベイは、まだこの街にいると思う?」
ネイヴァが足元のエスに肉片を与えながら言った。ずばりと核心を突いたその言葉に、座の空気が一瞬強張る。
「……いまのところ、あいつがすぐ近くにいる気配はないな」
レオンの耳に入らぬよう声を低め、アスレシアは答えた。ネイヴァは「ああ」と納得した表情になり、含み笑いを洩らした。
「あんた“探索”の魔力を身につけていたんだっけ。……罠と本人では感じ方が違うの?」
アスレシアは片方の眉を少し上げて、肯定の意を表した。この街のどこかにいるのかもしれないが、少なくとも今現在この近辺にはいない。いっその事目の前に現れてくれれば、すぐにでも決着をつけてみせるのに、と、思わず浮かんだ不謹慎な気持ちを、彼女は慌てて打ち消した。
「とりあえず、レオン。祭が終わるまではお前を見晴らせて貰うからな。逃げようなどと考えるなよ」
ゼフィオンが皿に手を伸ばそうとしていたレオンの前から、最後の肉をひょいとさらった。少年の抗議の声に少し意地悪な笑みを返すと、容赦なく口に放り込む。
あと二日間もこの生意気な少年と関わらなければならないのかと、アスレシアはうんざりして視線を落とした。
テーブルの下にあった瞳が彼女を見上げ、ニャアと一声鳴く。
心を見透かされた気がして、口元がいっそう不機嫌に引き結ばれた。
被害があったのは館の一画だけであり、幸いなことに死者や重傷人もなかったので、すでに周囲は平穏を取り戻して見物人は皆無だった。警固兵が二人、退屈極まりない顔で見張りに立っているだけである。
アスレシアとゼフィオン、ネイヴァの三人は、塀の外から様子を窺った。昨夜のレオンという少年がいるかどうか、確かめに来たのだ。
「あの少年は、火の能力者なのか?」
ゼフィオンが大欠伸をしながら言った。傍らのネイヴァが含み笑いをしているのに気づき、憮然とした顔で彼女の肩を小突く。
「館から出てきたからな……。あの少年が火を出したのかどうかは分からないが、サニト・ベイと関わりがあるのは間違いなさそうだ」
「じゃあ、その少年を捕まえれば、不吉な力とやらは防げるっていうわけ?」
「理屈ではそうなる。が……」
アスレシアは、片手で口元を覆って考え込んだ。
「そう簡単にいくかどうか」
「それはそうね。何しろ、あいつ(、、、)なんだから」
館の中には入れそうにない。中庭を人が時々横切るのが見えるが、いずれもレオンではなかった。
「迷ってるより訊いた方が早いんじゃないの?」
「そうだな。俺もそう思う」
あっけらかんと言うネイヴァに、ゼフィオンがすかさず同意した。思いがけず息の合ったところを見せられて、アスレシアは一瞬鼻白む。
「……じゃあ、訊いてくる」
自分でも思ってみなかったほど棘を含んだ声になり、アスレシアは慌てて二人に背を向けた。門前まで行くと、偶然出てきた壮年の男―魔術師でも気取っているのか、全身黒ずくめの長衣をまとっていた―に近づいていく。
「ここにレオンという男の子はいるだろうか」
ローブの男は、いかにも胡散臭そうな目つきでアスレシアを睨め回す。
「レオンなら、いつものように買い物に出ている……。知り合いか?」
「少しな」
いないのなら、余計な事を話す必要はない。そう思って踵を返そうとした矢先、背にネイヴァの声が飛んできた。
「アスレシア! この子じゃないの?」
振り返ると、そこには、きょとんとした表情のレオンがいた。肩には、昨日と同じく仔猫のエスが乗っている。
ゼフィオンとネイヴァを前に不思議そうな表情をしていたレオンだったが、アスレシアを見たとたん悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、アスレシアさんだ。……へえ、夜より昼のほうがやっぱり綺麗だね。僕の好みかどうかは別にして」
十歳程度の子供の言葉とは思えない。アスレシアは怒りを通り越して苦笑を浮かべながら、レオンの元へと歩いて行った。
「少年、今日はじっくりと話を聞かせてもらうぞ」
「そんなに話すことなんてないんだけど」
レオンは、三人の大人を向こうに回しても一向に怯む気配はない。むしろ、余裕すら感じさせるその態度に、アスレシアは苦りきった表情になる。
「とにかく、少し移動しよう」
先の黒いローブの男が、不審な目つきで彼らを見ていた。無邪気に「お腹が減った」というレオンに、一行は通りにある小さな食堂に入ることにした。
ちょうど朝食の時間ということもあり、小さな店内は意外と混雑していた。席につくなりメニューを手にして次々と注文し始めたレオンを見て、ネイヴァが呆れた様子で足元のエスを抱き上げる。
「ちょっと。調子に乗るんじゃないよ、悪ガキ」
「いいじゃないか。お姉さん、美人がそんな話し方をしてたら、男の人がガッカリするよ」
「あんたに言われる筋合いはないって」
呆れた口調で返すと、ネイヴァはエスの耳を引っ張って遊ぶ。エスは甚だ迷惑そうに首を振った。が、それ以上嫌がるわけでもなく彼女の手から逃れようとはしない。アスレシアは、猫同士通じるものでもあるのかと興味を持ってエスを眺めた。
「アスレシアさん、猫好き?」
エスをじっと見つめるアスレシアに気づいたレオンが、尋ねてきた。ネイヴァの黄金色の瞳と視線を合わせてから、彼女はとぼけた口調で言う。
「猫によるかな。悪戯が過ぎる猫は嫌いだ」
「ふふ。猫はみんな悪戯好きなのよ。ね、エス?」
ネイヴァの言葉に、エスは小さくニャアと返事をすると、するりと床へ降りた。そして、レオンの足元でうずくまる。猫との相性が極めてよろしくないゼフィオンが、幾分ホッとしたように話題を変えた。
「猫のことなんて放っておいて、肝心のサニト・ベイの事を聞かせてもらおうか」
「食べながらでもいい? 僕、お腹が減って我慢できないよ」
言いつつ、すでにレオンの手は運ばれてきたばかりの皿に伸びていた。炙った鹿の塩漬け肉と甘味のあるタランの実を合えたクルーデン・ヒル名物〈フィフ・タラン〉である。
「みんなも食べれば?」
口いっぱいに頬張り、レオンは言った。金を払うのはアスレシアたちに決まっているのだが、まったく悪びれた様子はない。アスレシアは、うんざりとした様子で溜息をひとつつくと、通りかかった給仕の女に果実水を三つ注文した。
「――で、サニト・ベイとはいつ会った?」
香ばしい匂いにあっさりと屈し、ゼフィオンがフォークを手に取りながら言った。レオンは肉を飲み下してから、首を傾げてみせる。
「いつだったかなあ……。五日ほど前、かな。紅炎の館に来て、僕の芸を見てたんだ。僕、どうしても上手くいかなくて失敗ばかりしてたんだよね。そしたら、サニトさんが手伝ってあげるって、僕の力を助けてくれたんだよ」
「火を操る力を大きくしてもらったのか」
「うん。でも、そんなに大きな力じゃないよ。芸が上手くできるほどの力さ。……おかげで祭には何とか間に合いそうだよ。僕の芸がこの祭で一番の出し物なんだから」
アスレシアとゼフィオンは顔を見合わせた。サニト・ベイが純粋に少年を助けるなど考えられなかったのだ。少年が気づいていないところで罠を仕掛けているとしか思えない。
「奴とは何を話した?」
「覚えてないなあ。特別変わった事なんて話さなかったと思うけど」
「お前の力を大きくした後、紅炎の館に入ったりはしたか?」
アスレシアの問いに、レオンは大げさに驚いた表情をしてみせた。
「まさか! どんな人でも部外者は一切入れないよ。サニトさんは、庭先で僕に力をくれただけさ。それから、すぐにどこかへ行っちゃった」
以下に口が達者な子供とはいえ、ここまで自然に嘘をつくのは難しいだろう。アスレシアは、レオンの言葉に真実を嗅ぎ取った。それはゼフィオンもネイヴァも同じらしく、彼女が視線を向けると密かに肯く。
「やつは、私のことを言っていたのだろう? 何と言っていた」
アスレシアは質問を変えた。
「何って……。アスレシアっていう女の人が、きっと後からここに来るって。もう半年近くもずっとサニトさんを追いかけてくるんだって言ってたよ。いつも怒って怖い顔してね。でも、そのくせ全然僕を捕まえることができないんだって笑ってた」
「………」
アスレシアは苦い笑いを洩らすしかなかった。相手が大人であれば、テーブルの下で蹴りのひとつでも見舞ってやるところだが、子供が相手ではそうもいかない。
「もうすぐ捕まえてやるさ」
運ばれてきた麦酒をあおり、独り言のようにつぶやいた。これ以上、サニト・ベイの思うままにさせておくつもりは、当然ながらなかった。半年という期間を得て、白金の美しき王子は恐ろしいまでの魔力を手にした。それはすでに、コズウェイルの手から逃れ、アスレシアたちを罠にはめて遊ぶだけでは、持て余してしまうほどの力となっているはずだ。彼が何かとてつもない考えを起こさぬうちに捕らえ、死神の元へ送り届けてやらなければならない。アスレシアの心に、小さな苛立ちが生まれる。
「サニト・ベイは、まだこの街にいると思う?」
ネイヴァが足元のエスに肉片を与えながら言った。ずばりと核心を突いたその言葉に、座の空気が一瞬強張る。
「……いまのところ、あいつがすぐ近くにいる気配はないな」
レオンの耳に入らぬよう声を低め、アスレシアは答えた。ネイヴァは「ああ」と納得した表情になり、含み笑いを洩らした。
「あんた“探索”の魔力を身につけていたんだっけ。……罠と本人では感じ方が違うの?」
アスレシアは片方の眉を少し上げて、肯定の意を表した。この街のどこかにいるのかもしれないが、少なくとも今現在この近辺にはいない。いっその事目の前に現れてくれれば、すぐにでも決着をつけてみせるのに、と、思わず浮かんだ不謹慎な気持ちを、彼女は慌てて打ち消した。
「とりあえず、レオン。祭が終わるまではお前を見晴らせて貰うからな。逃げようなどと考えるなよ」
ゼフィオンが皿に手を伸ばそうとしていたレオンの前から、最後の肉をひょいとさらった。少年の抗議の声に少し意地悪な笑みを返すと、容赦なく口に放り込む。
あと二日間もこの生意気な少年と関わらなければならないのかと、アスレシアはうんざりして視線を落とした。
テーブルの下にあった瞳が彼女を見上げ、ニャアと一声鳴く。
心を見透かされた気がして、口元がいっそう不機嫌に引き結ばれた。
2014.12.06(Sat):黄昏人
第九章 二話
アスレシアは眉をひそめた。少女は静かに肯くと、三人を見つめる。
予見者たちが集団で住まうという“月(つく)読(よ)みの館”に招かれた彼女たちは、少女と共に一室にいた。瀟洒な造りの、いかにも洗練された造りの部屋である。
少女の名はユナといい、驚いた事にこの館に住む予見者の中で一、二を争う能力の持ち主だった。
「……つまり」
たった今ユナから聞いた話を反芻しつつ、アスレシアは口を開いた。
「三日後に開かれる古代神ギィの祭典で、その不吉な力が動く、と言うんだな」
「はい」
ユナはうつむき、唇を噛んだ。
「〈風花祭典(かざばなのまつり)〉は古代神ギィと雪の精霊フィエランティナとの婚礼を祝うお祭で、とても大きなものです。他の国からもたくさん人がやって来ていますし……。そんな場所で、大きな事件が起これば、街は大混乱になってしまうでしょう。何とかして、あなたたちの力でその災いを防いでください。クルーデン・ヒルを守って欲しいんです」
「その不吉な力がどういうものなのか、具体的には分からないの?」
ネイヴァの質問に、ユナは不安気に何度も瞬きをした。
「……炎が見えます」
「炎?」
アスレシアとゼフィオンの顔が強張る。少女は震える声で言った。
「祭典の日に、大きな炎が起こります。この街のどこかに」
「詳しい場所は?」
アスレシアは問い詰めたい衝動を抑えこみ、努めて冷静な声で尋ねた。しかし、ユナは彼女の期待のこもった眼差しを拒むかのように膝の上できゅっと小さな手を握りしめると、かぶりを振った。
「予見では、そこまでは分かりませんでした。ただ……」
「ただ?」
「この祭典で、炎を使うといえば、火の能力者たちが住む“紅炎(こうえん)の館”だと思います。いつも祭では火を使った見世物をしていますから」
「見世物……。ずいぶん危険な事をするんだな」
ゼフィオンが不快な面持ちで言った。ユナは困ったように少し笑う。
「能力者と言っても、魔術師のようにすごい力を持った人はいません。みんな、ほんの少し火を熾(おこ)したり動かしたりできる程度の人ばかりです。私たち予見者も同じですよ。ぼんやりと先が見えるだけで、詳しい事まで分からないんです」
アスレシアは、内心そうだろうと肯いた。本当に強力な力を持つ、いわゆる魔術師や預言者と呼ばれる者ならば、その力をもっと別のものに用いているはずだ。そして、力が強ければ強いほど、自分の能力を簡単に他人に見せたりしない――かつてガルバラインにいた一人の老文官から聞いた話だ。
その男も能力者だった。若い頃、自身の力を過信して人を殺めた事があったという。己の力の大きさを痛感した彼は、以来自らの力を封印した。大切な人の危機、あるいは国の危機以外に自分の力を使う事はないだろうと、男は笑った。
あの男はどうしただろうかと、ぼんやりと思い返してみる。が、ユナの不安に満ちた瞳に、すぐに現実に引き戻された。そんな事を考えている場合ではない……。
「どうするの?」
ネイヴァが顔を覗きこんできた。ユナを信じるのかと目が語っている。アスレシアは、ゆっくりと紅茶を一口含み、しばし考えた。
「……私たちだけでこの大きな街全部を見回れるわけじゃない。その“紅炎の館”とやらに奴の罠があると考えて行動に出るしかないだろう。奴は、炎を操るのが得意なようだから」
「頼りないね」
ネイヴァは、ふんと鼻で笑う。が、そう言いつつも、どこか楽しんでいるような表情だ。もしかすると、当てが外れて混乱が起こるのを期待しているのかもしれない。
「とりあえず、まだ時間はある。その間に、何とかして奴の罠を見つけ出すしかない」
身を乗り出してきたゼフィオンが、締めくくるように言った。
ユナが「お願いします」と深々と頭を下げる。任せろと言い切る事もできず、彼らは曖昧に肯くと席を立った。
「さぁて。何から始める?」
ネイヴァの弾んだ声に、アスレシアはこめかみを押さえ、眉根を寄せた。
さほど長居したとも思えなかったのだが、いつのまにか陽は西の空に消えていた。街灯の灯り始めたクルーデン・ヒルの街を見下ろしながら、三人は石畳の道を下っていく。強い風が、時折彼らの衣服を不規則にはためかせる。
「今日はもう遅いから、明日の朝にでも“紅炎の館”に行ってみる。運が良ければ、奴と接触できるかもしれない」
「運が良ければ、ね」
アスレシアの言葉にニヤリと笑うと、ネイヴァは足を止めた。
「じゃあ、あたしは帰ることにするわ。宿代を払ってもらうのも気が引けるし、少しでも魔力を回復させておきたいから。明日の朝は……そうね、七鐘頃に来ればいい?」
「あんまり張り切って早く来られても困る。長旅で疲れている上に、着いた早々こんなことになってクタクタなんだ。ゆっくりと休みたい」
「わかった。じゃあ、八鐘ぐらいに顔を覗かせる。――ゼフィオン」
「なんだ?」
ネイヴァは、仏頂面で返事をしたゼフィオンの耳元に顔を近づけた。
「疲れているんだってさ。ほどほどにしてやりな」
「……!!」
絶句するゼフィオンに片眼を瞑ってみせると、甲高い笑い声を残して黒猫は消えた。
アスレシアは、彼らのやりとりをはっきりと聞き取れなかったが、改めて聞くと更に疲れそうだと本能的に察知して、あえて問いただす事はしなかった。どうせ、また黒猫が余計な事を言ったに違いない。ゼフィオンのうろたえ振りが、それを証明している。
二人は坂道を下りきり、街の猥雑な喧騒の中へと足を踏み入れた。
群青色の宵空の下で、クルーデン・ヒルの街は不夜城へと姿を変えつつあった。通りという通りには屋台が立ち並び、仕事を終えた男たちが次々と宿屋と兼営されている酒場へと入っていく。アスレシアたちの宿も例外ではなく、一階の酒場はすでに陽気な歌声に支配されていた。吟遊詩人も訪れているのか、リュートの音も混じっている。
「……静かに眠れそうにないな」
苦笑交じりにアスレシアは扉を開けようとした。その時だ。
「火事だ!」
人混みの向こう側で誰かが叫んだ。反射的に二人は身構え、声のした方角に目を向ける。
闇の中に立ち上る白煙が、視界に飛び込んできた。
「紅炎の館らしいぜ!」
男が二、三人、叫びながら目の前を通り過ぎて行った。それを耳にするや否や、アスレシアはゼフィオンに確認もせず駆け出した。
狭い路地を抜け、騒ぐ人々を押し退けて進む。ほどなく大きな通りに出ると、前方にちらちらと揺れる赤い炎が現れた。“月読みの館”よりは一回り小さいが、それでも十分に広大な屋敷の一部から、火の手が上がっている。
「おい! 火事の原因は何だ!?」
アスレシアは周囲の野次馬たちの中に飛び込み、隣にいた青年の腕を掴んだ。青年はぎょっとして腰を引きつつ、答える。
「え? さ、さあ……。祭の練習に失敗したって誰かが言ってたけど」
「火を出した人間は分かっているのか?」
「知らないよ。警固兵にでも聞きな」
少年は、迷惑そうに彼女の手を振り払った。アスレシアは苛立ちを隠しきれず、荒っぽく周囲の人を押しやると、人垣の最前列まで進み出た。すでに警固兵は屋敷を取り囲んで事態の収拾に当たり始めており、館には近寄れなくなっている。
サニト・ベイの顔を苦々しく思い浮かべながら、彼女は身を乗り出した。
「気配は感じるか?」
背後でゼフィオンの声がした。
「いや……今のところは……」
警固兵に混じり、懸命に消火に当たっているのは、この館の住人たちだろう。右往左往し、協力しているのか邪魔しているのか分からないほど混乱しているのが、遠目にも分かる。
だが、それでも、暫くするうちに火の勢いは徐々に弱まり始め、炎の姿はほとんど見えなくなってきた。これ以上火が広がる事はなさそうだと判断したらしい野次馬たちの間から、安堵とも落胆ともつかぬ声が上がった。アスレシアも、とりあえずホッと胸をなで下ろす。
ただの小火(ぼや)だったのかもしれない。そう思ってゼフィオンの方を振り返ろうとした時。
「………」
視界の端に入り込んできた少年の姿に、ふと動きが止まった。
ユナと同じくらいの年齢だろう。肩に小さな仔猫を乗せた少年は、アスレシアと眼が合うと、にっこりと笑って近寄ってきた。
「お姉さん。アスレシアさんだよね?」
「……お前」
「ふふ。聞いたとおりだ。怖い顔してる。いつも怒ってるんだね」
「なに? ――誰から聞いた」
アスレシアの問いに、少年はおかしそうに笑った。肩の上の茶トラの仔猫が、ふらりと尻尾を揺らす。
「言わなくても分かってるんじゃないの?」
「サニト・ベイだな。お前、奴に何か能力を……」
少年は、ほっそりとした手を上げて彼女の言葉を遮る。そして、仔猫を肩から下ろし抱きかかえると、その前足を持って左右に振って見せた。
「僕はレオン。こいつはエス。今日はお姉さんの顔を見に来ただけなんだ。質問はまた今度にしてよ。じゃあね」
言うなり、ひらりと身を翻す。
「ちょっ……。おい、待て!」
後を追いかけようとしたが、人垣に阻まれた。あっという間に少年の姿は遠のいていく。
白煙の中にかすむ少年と仔猫の後姿を、アスレシアは歯噛みして見送るしかなかった。
予見者たちが集団で住まうという“月(つく)読(よ)みの館”に招かれた彼女たちは、少女と共に一室にいた。瀟洒な造りの、いかにも洗練された造りの部屋である。
少女の名はユナといい、驚いた事にこの館に住む予見者の中で一、二を争う能力の持ち主だった。
「……つまり」
たった今ユナから聞いた話を反芻しつつ、アスレシアは口を開いた。
「三日後に開かれる古代神ギィの祭典で、その不吉な力が動く、と言うんだな」
「はい」
ユナはうつむき、唇を噛んだ。
「〈風花祭典(かざばなのまつり)〉は古代神ギィと雪の精霊フィエランティナとの婚礼を祝うお祭で、とても大きなものです。他の国からもたくさん人がやって来ていますし……。そんな場所で、大きな事件が起これば、街は大混乱になってしまうでしょう。何とかして、あなたたちの力でその災いを防いでください。クルーデン・ヒルを守って欲しいんです」
「その不吉な力がどういうものなのか、具体的には分からないの?」
ネイヴァの質問に、ユナは不安気に何度も瞬きをした。
「……炎が見えます」
「炎?」
アスレシアとゼフィオンの顔が強張る。少女は震える声で言った。
「祭典の日に、大きな炎が起こります。この街のどこかに」
「詳しい場所は?」
アスレシアは問い詰めたい衝動を抑えこみ、努めて冷静な声で尋ねた。しかし、ユナは彼女の期待のこもった眼差しを拒むかのように膝の上できゅっと小さな手を握りしめると、かぶりを振った。
「予見では、そこまでは分かりませんでした。ただ……」
「ただ?」
「この祭典で、炎を使うといえば、火の能力者たちが住む“紅炎(こうえん)の館”だと思います。いつも祭では火を使った見世物をしていますから」
「見世物……。ずいぶん危険な事をするんだな」
ゼフィオンが不快な面持ちで言った。ユナは困ったように少し笑う。
「能力者と言っても、魔術師のようにすごい力を持った人はいません。みんな、ほんの少し火を熾(おこ)したり動かしたりできる程度の人ばかりです。私たち予見者も同じですよ。ぼんやりと先が見えるだけで、詳しい事まで分からないんです」
アスレシアは、内心そうだろうと肯いた。本当に強力な力を持つ、いわゆる魔術師や預言者と呼ばれる者ならば、その力をもっと別のものに用いているはずだ。そして、力が強ければ強いほど、自分の能力を簡単に他人に見せたりしない――かつてガルバラインにいた一人の老文官から聞いた話だ。
その男も能力者だった。若い頃、自身の力を過信して人を殺めた事があったという。己の力の大きさを痛感した彼は、以来自らの力を封印した。大切な人の危機、あるいは国の危機以外に自分の力を使う事はないだろうと、男は笑った。
あの男はどうしただろうかと、ぼんやりと思い返してみる。が、ユナの不安に満ちた瞳に、すぐに現実に引き戻された。そんな事を考えている場合ではない……。
「どうするの?」
ネイヴァが顔を覗きこんできた。ユナを信じるのかと目が語っている。アスレシアは、ゆっくりと紅茶を一口含み、しばし考えた。
「……私たちだけでこの大きな街全部を見回れるわけじゃない。その“紅炎の館”とやらに奴の罠があると考えて行動に出るしかないだろう。奴は、炎を操るのが得意なようだから」
「頼りないね」
ネイヴァは、ふんと鼻で笑う。が、そう言いつつも、どこか楽しんでいるような表情だ。もしかすると、当てが外れて混乱が起こるのを期待しているのかもしれない。
「とりあえず、まだ時間はある。その間に、何とかして奴の罠を見つけ出すしかない」
身を乗り出してきたゼフィオンが、締めくくるように言った。
ユナが「お願いします」と深々と頭を下げる。任せろと言い切る事もできず、彼らは曖昧に肯くと席を立った。
「さぁて。何から始める?」
ネイヴァの弾んだ声に、アスレシアはこめかみを押さえ、眉根を寄せた。
さほど長居したとも思えなかったのだが、いつのまにか陽は西の空に消えていた。街灯の灯り始めたクルーデン・ヒルの街を見下ろしながら、三人は石畳の道を下っていく。強い風が、時折彼らの衣服を不規則にはためかせる。
「今日はもう遅いから、明日の朝にでも“紅炎の館”に行ってみる。運が良ければ、奴と接触できるかもしれない」
「運が良ければ、ね」
アスレシアの言葉にニヤリと笑うと、ネイヴァは足を止めた。
「じゃあ、あたしは帰ることにするわ。宿代を払ってもらうのも気が引けるし、少しでも魔力を回復させておきたいから。明日の朝は……そうね、七鐘頃に来ればいい?」
「あんまり張り切って早く来られても困る。長旅で疲れている上に、着いた早々こんなことになってクタクタなんだ。ゆっくりと休みたい」
「わかった。じゃあ、八鐘ぐらいに顔を覗かせる。――ゼフィオン」
「なんだ?」
ネイヴァは、仏頂面で返事をしたゼフィオンの耳元に顔を近づけた。
「疲れているんだってさ。ほどほどにしてやりな」
「……!!」
絶句するゼフィオンに片眼を瞑ってみせると、甲高い笑い声を残して黒猫は消えた。
アスレシアは、彼らのやりとりをはっきりと聞き取れなかったが、改めて聞くと更に疲れそうだと本能的に察知して、あえて問いただす事はしなかった。どうせ、また黒猫が余計な事を言ったに違いない。ゼフィオンのうろたえ振りが、それを証明している。
二人は坂道を下りきり、街の猥雑な喧騒の中へと足を踏み入れた。
群青色の宵空の下で、クルーデン・ヒルの街は不夜城へと姿を変えつつあった。通りという通りには屋台が立ち並び、仕事を終えた男たちが次々と宿屋と兼営されている酒場へと入っていく。アスレシアたちの宿も例外ではなく、一階の酒場はすでに陽気な歌声に支配されていた。吟遊詩人も訪れているのか、リュートの音も混じっている。
「……静かに眠れそうにないな」
苦笑交じりにアスレシアは扉を開けようとした。その時だ。
「火事だ!」
人混みの向こう側で誰かが叫んだ。反射的に二人は身構え、声のした方角に目を向ける。
闇の中に立ち上る白煙が、視界に飛び込んできた。
「紅炎の館らしいぜ!」
男が二、三人、叫びながら目の前を通り過ぎて行った。それを耳にするや否や、アスレシアはゼフィオンに確認もせず駆け出した。
狭い路地を抜け、騒ぐ人々を押し退けて進む。ほどなく大きな通りに出ると、前方にちらちらと揺れる赤い炎が現れた。“月読みの館”よりは一回り小さいが、それでも十分に広大な屋敷の一部から、火の手が上がっている。
「おい! 火事の原因は何だ!?」
アスレシアは周囲の野次馬たちの中に飛び込み、隣にいた青年の腕を掴んだ。青年はぎょっとして腰を引きつつ、答える。
「え? さ、さあ……。祭の練習に失敗したって誰かが言ってたけど」
「火を出した人間は分かっているのか?」
「知らないよ。警固兵にでも聞きな」
少年は、迷惑そうに彼女の手を振り払った。アスレシアは苛立ちを隠しきれず、荒っぽく周囲の人を押しやると、人垣の最前列まで進み出た。すでに警固兵は屋敷を取り囲んで事態の収拾に当たり始めており、館には近寄れなくなっている。
サニト・ベイの顔を苦々しく思い浮かべながら、彼女は身を乗り出した。
「気配は感じるか?」
背後でゼフィオンの声がした。
「いや……今のところは……」
警固兵に混じり、懸命に消火に当たっているのは、この館の住人たちだろう。右往左往し、協力しているのか邪魔しているのか分からないほど混乱しているのが、遠目にも分かる。
だが、それでも、暫くするうちに火の勢いは徐々に弱まり始め、炎の姿はほとんど見えなくなってきた。これ以上火が広がる事はなさそうだと判断したらしい野次馬たちの間から、安堵とも落胆ともつかぬ声が上がった。アスレシアも、とりあえずホッと胸をなで下ろす。
ただの小火(ぼや)だったのかもしれない。そう思ってゼフィオンの方を振り返ろうとした時。
「………」
視界の端に入り込んできた少年の姿に、ふと動きが止まった。
ユナと同じくらいの年齢だろう。肩に小さな仔猫を乗せた少年は、アスレシアと眼が合うと、にっこりと笑って近寄ってきた。
「お姉さん。アスレシアさんだよね?」
「……お前」
「ふふ。聞いたとおりだ。怖い顔してる。いつも怒ってるんだね」
「なに? ――誰から聞いた」
アスレシアの問いに、少年はおかしそうに笑った。肩の上の茶トラの仔猫が、ふらりと尻尾を揺らす。
「言わなくても分かってるんじゃないの?」
「サニト・ベイだな。お前、奴に何か能力を……」
少年は、ほっそりとした手を上げて彼女の言葉を遮る。そして、仔猫を肩から下ろし抱きかかえると、その前足を持って左右に振って見せた。
「僕はレオン。こいつはエス。今日はお姉さんの顔を見に来ただけなんだ。質問はまた今度にしてよ。じゃあね」
言うなり、ひらりと身を翻す。
「ちょっ……。おい、待て!」
後を追いかけようとしたが、人垣に阻まれた。あっという間に少年の姿は遠のいていく。
白煙の中にかすむ少年と仔猫の後姿を、アスレシアは歯噛みして見送るしかなかった。
2014.12.06(Sat):黄昏人
第九章 一話
眼前で交差された長槍を冷ややかに見下ろした。磨き上げられた甲冑に身を包んだ衛兵が、兜の下から上目遣いに彼女を睨んでいる。
「通行証ならあるぞ」
傍らのゼフィオンが声を荒げた。だが、衛兵たちは答えない。人差し指をちょいと動かして、馬を下りろという仕草をする。
アスレシアは、渋々ながらも従った。鼻を鳴らす馬の鼻面を撫でてやりながら、鋭く兵士を睨みつける。ゼフィオンもやや遅れて下馬し、手綱を手繰り寄せた。
「通行証を出せ」
二人のうち年長の衛兵が手を出してきた。アスレシアは、腰の皮袋の中から薄い小さな石版を二枚取り出した。滑らかな光沢を放つ白石板に、レクセント王国の紋章と古代神ギィの肖像が彫刻されているものだ。通行証という言葉がおよそ似つかわしくないそれは、他国であるなら骨董品を扱う店に並んでいても不思議はないような、美しい石版だ。
衛兵は彼女の手から乱暴にそれを引っ手繰ると、入念に観察し始めた。明らかに偽造かどうかを疑っている態度を見せつけられ、アスレシアの眉間に深いしわが刻まれる。
「〈端境(はざかい)の大河〉沿いにあるパンザという関所で購入したものだ。レクセント王国内は、これ一枚で自由に通行できると聞いたが」
兵士たちの表情が変わる。ちらと眼を見交わした後、若い方の兵士が嘲笑を浮かべて言った。
「ふん。その訛り、〈西方の蛮族(ディカロ・バル)〉か。この古王都に来るとは、いい度胸だな」
その言葉が終わらぬうち、年長の衛兵は通行証を投げてよこす。
古代王国の流れを汲み、文化や芸術の中心となっている大陸東部〈古(いにしえ)の地方〉。その中心たるこの国は、北方大陸一の領土と国力を誇る。大陸東部そのものをレクセントと呼ぶ事もあるほどで、大陸内で主に流通している東方(レクセント)貨幣もこの国で鋳造されている。
自分たちこそ、この地で最も優れた国の民であるという自負を持つレクセントの人々は、他国――特に西方の〈混沌の地方〉を、好戦的な蛮族の住む地として見下す傾向にあった。衛兵たちの言動も、レクセントの者として、ごく自然に出たものだろう。
「貴様……」
さすがに聞き流す事ができず、衛兵に詰め寄る。が、素早く伸びてきたゼフィオンの手によって引き戻された。傍らを行く旅人たちが好奇に満ちた目で自分たちを眺めながら通り過ぎてゆく。彼女は大きく舌打ちをすると、腕を組んで黙り込んだ。
「通行証があるのだから、入っても構わないのだろう」
ゼフィオンが言う。だが、衛兵たちは答えようともせず背を向けた。そして、次の獲物だといわんばかりに、すぐ側を歩いていた南方大陸の黒い肌の商人の行く手に立ち塞がると、同じように通行証を求め始めた。
「行くぞ」
憤懣やるかたないアスレシアに苦笑を向け、ゼフィオンは馬を引いて歩き出す。アスレシアは、およそ上品とはいえぬ罵りの言葉を一言吐き捨てると、足音荒く後に続いた。
巨大な城門を抜け、一歩中に足を踏み入れる。途端に彼女の足が止まった。
「すごい……な」
思わず感嘆のつぶやきが洩れた。先の怒りも一瞬忘れ去り、目を見張る。
城門から真っ直ぐに伸びる大通りは人で溢れ、両側にはずらりと商店が立ち並んでいた。街のあちこちに高い塔や建物が天を突くようにそびえ立っている。しかし、そのどれもが洗練された造りであるためか、重苦しさや圧迫感は微塵も感じられない。むしろ、澄みきった空を背景にして、芸術品のように美しい光景を作り出していた。
これが、大陸一の都と謳われるレクセント王都クルーデン・ヒルなのだ。その繁栄ぶりを目の当たりにすると、悔しいが衛兵たちの態度も納得がいった。彼女の祖国ガルバラインの都ガラハールも美しい街ではあったが、これと比べれば、やはり片田舎の小国の一都市に過ぎないのだと認めざるを得ない。
ゼフィオンもここまで巨大な街は初めてであったらしい。二人は、しばし街の空気に圧倒されて立ち尽くしていた。と、
「あの……。ごめんなさい」
不意に背後から声をかけられた。我に返る。
「……?」
声の主を確かめ、首を傾げる。立っていたのは、十歳前後の少女だった。まっさらな雪を思わせる白銀の髪をみつあみにし、光沢のある淡い緑色の清楚な衣服を身につけている。髪と同じ銀色の瞳が印象的な娘だ。冥界ならばともかく、人間界にこの色の瞳を持つ者は極めて珍しい。
「お祭が近いので、いろんな所から人が集まってきているんです。だから、兵隊さんはいつもよりピリピリしていて……。怒らないでください。普段はもっと親切なんですよ」
「ああ……」
子供に言われ、二人は苦笑を洩らした。
「見ていたのか」
アスレシアは、少し屈んで少女と目線を合わせた。間近で見ると、その瞳の美しさが更によく分かる。吸い込まれそうなほどに透き通った美しい瞳だ。
少女は肯くと、にこにこと笑いながら言った。
「ええ、偶然。でも、おかげであなたたちを見つけることができました」
「見つける? ……私たちを?」
アスレシアとゼフィオンは、顔を見合わせた。クルーデン・ヒルには初めて足を踏み入れたのだ。人に探される覚えなどない。
だが、少女はそんな反応を予期していたのか、笑顔を崩すこともなく続けた。
「少し前、この街に二つの力が入ってくるのが見えました。不吉な力とそれを消そうとする力。どちらも人間のものではない、とても強い力です」
「………」
「不吉な力は、この街に大きな災いを起こそうとしています。……あなたたちは、その力を追ってこの街に来た、もう一つの力ですね」
アスレシアは、その揺らぎのない態度と口調に一瞬警戒心を抱いたが、すぐに表情を元に戻した。ここが古代の血を色濃く残すレクセントであることと、少女の銀色の瞳から、一つの答えに行き当たったのだ。
「〈古の地方〉では魔術師や能力者が珍しくないと聞いたことがあるが……。君もそうなんだな? 先を見る予見者というやつか」
少女は微笑を浮かべたまま肯くと、そっとアスレシアの手を握りしめてきた。ヒヤリとした感触は、子供の手とは思えなかった。
「このままだと、たくさんの怪我人が出ます。怪我だけじゃなくて、亡くなる人も。そのことをあなたたちに伝えたくて……。詳しいお話をしたいから、一緒に来てもらえませんか」
強く手を引かれる。ひとまずそれを制して立ち上がった彼女は、ゼフィオンと顔を寄せ合った。
「……どう思う? 不吉な力というのは、やはり奴のことか」
「そうだな。……どちらにしても、サニト・ベイの気配はこの街にあるんだ。乗ってみても悪くないかもしれない。それに、例の気配を感じてはいないんだろう? だとしたら、この子は奴の罠ではないということだ」
「ああ、それはそうだな。あいつの嗤いは浮かばない……」
アスレシアは、そっと少女を盗み見た。不安気に彼女たちを見上げて立っている姿は、どこにでもいるごく普通の少女だ。髪と瞳の色がなければ、とても予見者などと思わないだろう。
揺らぐ銀色の瞳に向かい、アスレシアうなずいた。
「いいだろう。私たちもあいつを探す手間が省ける。一緒に行こう」
少女は顔をほころばせると、再びアスレシアに向かって手を差し出そうとした。――すると。
ふと、その視線が二人の後方に流れた。小鳥のように可愛らしく小首を傾げる。
「あら? もう一人いらっしゃったんですね」
「え?」
意味が分からず振り返る。瞬間、二人は驚いて目を丸くした。
「ネイヴァ!?」
見事に揃った声に、そこに立っていた人物はケラケラと笑い声を立てた。緩やかなくせのある黒髪を揺らす、妖艶で無邪気な黒猫。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。あたしだって仕事があるんだからね」
黄金色の瞳を煌かせ、彼女は腰に下げた袋を叩いて見せた。どうやら、何某かの魂を手に入れるためにクルーデン・ヒルに紛れ込んでいたらしい。
「まさかこんな所で会うなんて、こっちも驚いたわよ。ここの所アベリアル様から何の指示もなかったからさ。あんたたちに会えなくて寂しいなあ、とか思ってたのよね」
悪戯っぽくネイヴァは笑った。アスレシアは渋面を作ると、わざとらしく視線を逸らす。
「……何を企んでいるんだか」
ぴくりとネイヴァは頬を引きつらせる。二人の女の空気が冷たく凍ったのを見て取り、ゼフィオンが慌てて間に割って入った。
「まあ、そういう偶然もあるんだろう。ネイヴァ、またアベリアル様に怒鳴られるぞ。早く帰った方が良い」
「ああ、それなら大丈夫」
ネイヴァはけろりと笑って言った。
「今日は退屈しのぎで捕りに来た小悪党の魂ひとつだけだったからね。競合相手もいなくて、予定よりずいぶん早く終わったのよ。だから、少しぐらい遊んでも全然問題なし」
「……お前な、そういう問題じゃないだろう。魔力はいいのか?」
ゼフィオンは声を落として訊ねる。だが、ネイヴァはそれにも笑って手を振ると、
「心配してくれなくて結構。自分の事は自分が一番よく分かってるからね」
そして、つかつかと少女の前に歩み寄った。少女は笑顔でネイヴァを見上げる。
「予見者、ね。面白そうじゃない。あたしも行くわ」
「ええ。あなたも力を持ってますね。それも、この方たちよりも少しだけ黒い力……」
「そうよ。人間の子供にしては、なかなか鋭い力持ってるじゃない」
ネイヴァは首をひねってアスレシアたちの方を振り返り、にっと笑って見せた。
「いいでしょ、アスレシア?」
勝ち誇ったような彼女の顔に、アスレシアは小さく肩をすくめると「好きにしろ」とだけ言った。どうせ駄目だと言ったところでついてくるのだ。言うだけ無駄である。
「では、行きましょう」
少女の言葉を合図に、大通りを歩き出す。先頭に少女、その後ろにアスレシアとネイヴァ、そして最後方にゼフィオン。
「……起こらなくてもいい問題が起きそうだな」
溜息混じりのつぶやきが背後から聞こえる。
二人の女はチラリと視線を合わせ、含んだ笑いを洩らした。
「通行証ならあるぞ」
傍らのゼフィオンが声を荒げた。だが、衛兵たちは答えない。人差し指をちょいと動かして、馬を下りろという仕草をする。
アスレシアは、渋々ながらも従った。鼻を鳴らす馬の鼻面を撫でてやりながら、鋭く兵士を睨みつける。ゼフィオンもやや遅れて下馬し、手綱を手繰り寄せた。
「通行証を出せ」
二人のうち年長の衛兵が手を出してきた。アスレシアは、腰の皮袋の中から薄い小さな石版を二枚取り出した。滑らかな光沢を放つ白石板に、レクセント王国の紋章と古代神ギィの肖像が彫刻されているものだ。通行証という言葉がおよそ似つかわしくないそれは、他国であるなら骨董品を扱う店に並んでいても不思議はないような、美しい石版だ。
衛兵は彼女の手から乱暴にそれを引っ手繰ると、入念に観察し始めた。明らかに偽造かどうかを疑っている態度を見せつけられ、アスレシアの眉間に深いしわが刻まれる。
「〈端境(はざかい)の大河〉沿いにあるパンザという関所で購入したものだ。レクセント王国内は、これ一枚で自由に通行できると聞いたが」
兵士たちの表情が変わる。ちらと眼を見交わした後、若い方の兵士が嘲笑を浮かべて言った。
「ふん。その訛り、〈西方の蛮族(ディカロ・バル)〉か。この古王都に来るとは、いい度胸だな」
その言葉が終わらぬうち、年長の衛兵は通行証を投げてよこす。
古代王国の流れを汲み、文化や芸術の中心となっている大陸東部〈古(いにしえ)の地方〉。その中心たるこの国は、北方大陸一の領土と国力を誇る。大陸東部そのものをレクセントと呼ぶ事もあるほどで、大陸内で主に流通している東方(レクセント)貨幣もこの国で鋳造されている。
自分たちこそ、この地で最も優れた国の民であるという自負を持つレクセントの人々は、他国――特に西方の〈混沌の地方〉を、好戦的な蛮族の住む地として見下す傾向にあった。衛兵たちの言動も、レクセントの者として、ごく自然に出たものだろう。
「貴様……」
さすがに聞き流す事ができず、衛兵に詰め寄る。が、素早く伸びてきたゼフィオンの手によって引き戻された。傍らを行く旅人たちが好奇に満ちた目で自分たちを眺めながら通り過ぎてゆく。彼女は大きく舌打ちをすると、腕を組んで黙り込んだ。
「通行証があるのだから、入っても構わないのだろう」
ゼフィオンが言う。だが、衛兵たちは答えようともせず背を向けた。そして、次の獲物だといわんばかりに、すぐ側を歩いていた南方大陸の黒い肌の商人の行く手に立ち塞がると、同じように通行証を求め始めた。
「行くぞ」
憤懣やるかたないアスレシアに苦笑を向け、ゼフィオンは馬を引いて歩き出す。アスレシアは、およそ上品とはいえぬ罵りの言葉を一言吐き捨てると、足音荒く後に続いた。
巨大な城門を抜け、一歩中に足を踏み入れる。途端に彼女の足が止まった。
「すごい……な」
思わず感嘆のつぶやきが洩れた。先の怒りも一瞬忘れ去り、目を見張る。
城門から真っ直ぐに伸びる大通りは人で溢れ、両側にはずらりと商店が立ち並んでいた。街のあちこちに高い塔や建物が天を突くようにそびえ立っている。しかし、そのどれもが洗練された造りであるためか、重苦しさや圧迫感は微塵も感じられない。むしろ、澄みきった空を背景にして、芸術品のように美しい光景を作り出していた。
これが、大陸一の都と謳われるレクセント王都クルーデン・ヒルなのだ。その繁栄ぶりを目の当たりにすると、悔しいが衛兵たちの態度も納得がいった。彼女の祖国ガルバラインの都ガラハールも美しい街ではあったが、これと比べれば、やはり片田舎の小国の一都市に過ぎないのだと認めざるを得ない。
ゼフィオンもここまで巨大な街は初めてであったらしい。二人は、しばし街の空気に圧倒されて立ち尽くしていた。と、
「あの……。ごめんなさい」
不意に背後から声をかけられた。我に返る。
「……?」
声の主を確かめ、首を傾げる。立っていたのは、十歳前後の少女だった。まっさらな雪を思わせる白銀の髪をみつあみにし、光沢のある淡い緑色の清楚な衣服を身につけている。髪と同じ銀色の瞳が印象的な娘だ。冥界ならばともかく、人間界にこの色の瞳を持つ者は極めて珍しい。
「お祭が近いので、いろんな所から人が集まってきているんです。だから、兵隊さんはいつもよりピリピリしていて……。怒らないでください。普段はもっと親切なんですよ」
「ああ……」
子供に言われ、二人は苦笑を洩らした。
「見ていたのか」
アスレシアは、少し屈んで少女と目線を合わせた。間近で見ると、その瞳の美しさが更によく分かる。吸い込まれそうなほどに透き通った美しい瞳だ。
少女は肯くと、にこにこと笑いながら言った。
「ええ、偶然。でも、おかげであなたたちを見つけることができました」
「見つける? ……私たちを?」
アスレシアとゼフィオンは、顔を見合わせた。クルーデン・ヒルには初めて足を踏み入れたのだ。人に探される覚えなどない。
だが、少女はそんな反応を予期していたのか、笑顔を崩すこともなく続けた。
「少し前、この街に二つの力が入ってくるのが見えました。不吉な力とそれを消そうとする力。どちらも人間のものではない、とても強い力です」
「………」
「不吉な力は、この街に大きな災いを起こそうとしています。……あなたたちは、その力を追ってこの街に来た、もう一つの力ですね」
アスレシアは、その揺らぎのない態度と口調に一瞬警戒心を抱いたが、すぐに表情を元に戻した。ここが古代の血を色濃く残すレクセントであることと、少女の銀色の瞳から、一つの答えに行き当たったのだ。
「〈古の地方〉では魔術師や能力者が珍しくないと聞いたことがあるが……。君もそうなんだな? 先を見る予見者というやつか」
少女は微笑を浮かべたまま肯くと、そっとアスレシアの手を握りしめてきた。ヒヤリとした感触は、子供の手とは思えなかった。
「このままだと、たくさんの怪我人が出ます。怪我だけじゃなくて、亡くなる人も。そのことをあなたたちに伝えたくて……。詳しいお話をしたいから、一緒に来てもらえませんか」
強く手を引かれる。ひとまずそれを制して立ち上がった彼女は、ゼフィオンと顔を寄せ合った。
「……どう思う? 不吉な力というのは、やはり奴のことか」
「そうだな。……どちらにしても、サニト・ベイの気配はこの街にあるんだ。乗ってみても悪くないかもしれない。それに、例の気配を感じてはいないんだろう? だとしたら、この子は奴の罠ではないということだ」
「ああ、それはそうだな。あいつの嗤いは浮かばない……」
アスレシアは、そっと少女を盗み見た。不安気に彼女たちを見上げて立っている姿は、どこにでもいるごく普通の少女だ。髪と瞳の色がなければ、とても予見者などと思わないだろう。
揺らぐ銀色の瞳に向かい、アスレシアうなずいた。
「いいだろう。私たちもあいつを探す手間が省ける。一緒に行こう」
少女は顔をほころばせると、再びアスレシアに向かって手を差し出そうとした。――すると。
ふと、その視線が二人の後方に流れた。小鳥のように可愛らしく小首を傾げる。
「あら? もう一人いらっしゃったんですね」
「え?」
意味が分からず振り返る。瞬間、二人は驚いて目を丸くした。
「ネイヴァ!?」
見事に揃った声に、そこに立っていた人物はケラケラと笑い声を立てた。緩やかなくせのある黒髪を揺らす、妖艶で無邪気な黒猫。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。あたしだって仕事があるんだからね」
黄金色の瞳を煌かせ、彼女は腰に下げた袋を叩いて見せた。どうやら、何某かの魂を手に入れるためにクルーデン・ヒルに紛れ込んでいたらしい。
「まさかこんな所で会うなんて、こっちも驚いたわよ。ここの所アベリアル様から何の指示もなかったからさ。あんたたちに会えなくて寂しいなあ、とか思ってたのよね」
悪戯っぽくネイヴァは笑った。アスレシアは渋面を作ると、わざとらしく視線を逸らす。
「……何を企んでいるんだか」
ぴくりとネイヴァは頬を引きつらせる。二人の女の空気が冷たく凍ったのを見て取り、ゼフィオンが慌てて間に割って入った。
「まあ、そういう偶然もあるんだろう。ネイヴァ、またアベリアル様に怒鳴られるぞ。早く帰った方が良い」
「ああ、それなら大丈夫」
ネイヴァはけろりと笑って言った。
「今日は退屈しのぎで捕りに来た小悪党の魂ひとつだけだったからね。競合相手もいなくて、予定よりずいぶん早く終わったのよ。だから、少しぐらい遊んでも全然問題なし」
「……お前な、そういう問題じゃないだろう。魔力はいいのか?」
ゼフィオンは声を落として訊ねる。だが、ネイヴァはそれにも笑って手を振ると、
「心配してくれなくて結構。自分の事は自分が一番よく分かってるからね」
そして、つかつかと少女の前に歩み寄った。少女は笑顔でネイヴァを見上げる。
「予見者、ね。面白そうじゃない。あたしも行くわ」
「ええ。あなたも力を持ってますね。それも、この方たちよりも少しだけ黒い力……」
「そうよ。人間の子供にしては、なかなか鋭い力持ってるじゃない」
ネイヴァは首をひねってアスレシアたちの方を振り返り、にっと笑って見せた。
「いいでしょ、アスレシア?」
勝ち誇ったような彼女の顔に、アスレシアは小さく肩をすくめると「好きにしろ」とだけ言った。どうせ駄目だと言ったところでついてくるのだ。言うだけ無駄である。
「では、行きましょう」
少女の言葉を合図に、大通りを歩き出す。先頭に少女、その後ろにアスレシアとネイヴァ、そして最後方にゼフィオン。
「……起こらなくてもいい問題が起きそうだな」
溜息混じりのつぶやきが背後から聞こえる。
二人の女はチラリと視線を合わせ、含んだ笑いを洩らした。
2014.12.06(Sat):黄昏人
第八章 四話
リニーク兵たちが掛けた火は、またたく間に砦内に燃え広がった。吹き上げる黒煙と紅蓮の炎を抜け、最奥を目指して走っていた彼らの眼に、一見してそれと分かる大きな館が飛び込んできた。赤地に金色の翼の紋章が、鮮やかに翻る。アスレシアは声を張り上げた。
「サウス! 無茶をするな!」
だが。
前方を行く傭兵は、振り返りもせずに門兵たちの中に斬り込んだ。瞬く間にジラルス兵の間に埋もれた男を見て、アスレシアとゼフィオンは揃って舌打ちをする。
「あの、馬鹿……!」
「金の力は侮れないな。人をさらに馬鹿にする」
呆れた口調でゼフィオンは言うと、足を止めた。手早く長弓を構え、矢を手に取る。アスレシアの方は、そのまま勢いに任せてジラルス兵の中に飛び込んだ。剣を振り回して敵を散らすと、サウスの短い髪をむりやり引っ掴む。
「全員相手にしてる暇はない。先に行くぞ」
「ててててっ。乱暴な女だな! 分かってるよ。雑魚に用はねえ」
「サウス。モーガンの部屋に行く前に言っておく。奴の首を刎ねる前に、知りたいことがあるんだ。いきなり斬りかかるのは止めてくれ」
「ええ? まあ、あんたがそう言うならしょうがねえな……。行くぜ!」
掛け声を合図に、同時に駆け出した。アスレシアはゼフィオンのいた場所を振り返ったが、すでに姿はなかった。己のルートを見つけ出し、早々と先に進んだようだ。
後を追ってくる兵士を楽々と引き離し、二人は濃紺の絨毯を道標に駆ける。横合いから飛び出してきた兵士や、健気に剣を向けてくる小姓たちを容赦なく斬り倒し、先へ先へ。
程なく一際重厚な彫刻を施された扉が正面に現れた。扉の前には、怯えきった兵士が立ち並び、壁となっていた。
「死にたくないなら退け!」
吠える。だが、兵士は一人も退くことはなかった。恐怖に震えながら槍を向けてくるその姿に、隣を走るサウスが迷った様子で一瞬足を緩める。
アスレシアは鋭く舌打ちをした。彼女の足は鈍らない。それどころか、一気に加速する。
「ならば、死ね!」
剣を振りかぶる。今度は警告ではない。宣告だった。
戦場に迷いは持ち込まない。それは、戦乱の地に生まれた者が叩き込まれる鉄則だ。戦場で剣を握るならば、二つの覚悟を持て。殺される覚悟と、迷いなく殺す覚悟を。
力の入っていない槍の穂先を数本まとめて叩き斬った。朱に染まり鬼神の形相で迫る彼女に、兵士たちの数人は悲鳴を上げて逃げ出した。それには構わず、扉をふさぐ兵士を一人、鎧ごと袈裟懸けに切り倒す。直後、背後から叩きつけられてきた槍の柄を、左の肩当で受け止める。マントを翻して絡め取ると、柄を握る若い兵士の下腹に剣を叩き込んだ。
またたく間に二人の兵士を倒した彼女に、さしもサウスも息を呑む。
「これが〈混沌の地方〉の戦い方だ」
サウスに片頬で笑いかけると、アスレシアは扉を力任せに押した。立派なのは見掛けだけらしい。大きさのわりに重量のない扉は、いとも簡単に開いた。
「ひ、ひいぃぃぃっ」
扉が開くと同時に悲鳴が響き、思わず足を止める。
中央に据え置かれた巨大な円卓の周囲には、喉を噛み裂かれた竜人たち。その向こう側に鎧を着けた肥満体の中年男。そして。
「……驚いた。いつの間に?」
苦笑と共にかけた声の先には、漆黒の巨狼がいた。恐怖に顔を引きつらせる男の首に牙をかけている。わずかでも力を加えれば、男の頭部はただの肉塊と化すのは明らかだった。
「ぐぅ」
ギラリと瞳を光らせ、一瞬だけ黒狼は笑った。それから、肉に埋もれるように男の首根にかかる首飾りを器用に牙に引っ掛けると、引っ張ってみせた。それを見たアスレシアの表情が、さっと凍りつく。
「……サウス。悪いが、少しの間だけ、外で兵士を防いでいてくれないか。モーガンの首を刎ねる時は呼ぶから」
傷ひとつない鎧の上に輝く真紅の石を見つめたまま、硬い声で彼女は言った。サウスは蒼ざめた表情で眼前の光景を眺めていたが、再度促されてようやく我に返ったらしい。幾度も黒狼と彼女に視線を往復させた。
「外でって……。大丈夫なのか? こいつは……」
「大丈夫だ」
アスレシアは黒狼に向かい、ふと唇の端を上げる。
「とにかく、頼む。そう時間はかからない。かけるつもりもない」
サウスはまだ何か言いたそうな素振りを見せたが、ひょいと肩をすくめると血濡れの剣を肩に担いで部屋を出て行った。荒々しく扉が閉まる。アスレシアは背中でその音を確認すると、冷ややかな眼でモーガンを――正確に言うとモーガンの胸元を――見下ろした。ゼフィオンが銀の鎖を噛み切り、石を床に放り投げる。真紅の石は硬い音を伴って床を跳ね、彼女の足元へと転がった。
「……さっさと出てきたらどうだ」
静かに呼びかけた。たった一言。その後は、待つ。
束の間の静寂。
やがて、空気が揺らいだかと思うと、鳥肌が立つ感覚が立ち込めた。眼前の空間がぐにゃりと歪む。うっすらと霧をまとい、湧き出でたのは――白金の幻。
「………」
「ずいぶんと生臭い出迎えだね。半魔」
開口一番、少年は嗤った。少し痩せたのだろうか。頬の線が幾分鋭くなった気がする。
「黙れ。すべて貴様が仕向けたことだ」
アスレシアは顔にこびりついた血を拭うと、怒りに声を震わせた。
「サニト・ベイ……。貴様に、聞きたいことがある」
少年は、小首を傾げる仕草さえ憎らしいほど優雅にやってのける。白金の髪が、さらりと美しく流れた。
「貴様の遊び相手は私達だろう。なぜ、無関係な人間をあんな化け物にした? なぜ、この国の内乱を煽るようなことをした? ここまで事を大きくする必要などないはずだ!」
「うるさいな。叫ばなくても聞こえているよ」
サニト・ベイは柳眉をひそめ、大げさに耳を塞いだ。
「理由、ね。そんなものを言ったところで、何にもならないとは思うけれど……」
白い歯を見せ、一呼吸置く。それから。
「――気が向いたから。それだけ」
答えた。まるで今日の天気の話でもするように、素っ気なく。絶句するアスレシアを見て、少年はさらに言葉を継いだ。
「魔力を使いたかったし、この国の内乱を煽ったら面白そうだと思ったんだ。傷も治って機嫌が良かったからね。それに、少しくらい派手にやった方が、お前たちの頭にも血が昇りやすくなるだろう?」
「それだけの、ために……? たったそれだけのために、こんな大勢の人間を弄んだというのか。ここだけじゃない。ケーズでも……」
「ああ、そうだ。ケーズ、ね」
サニト・ベイはゼフィオンに鳶色の瞳を向け、露骨に挑発の笑みを浮かべた。
「久しぶりの里帰り、楽しんでくれたかな? まだ本調子じゃなかったから、魔石を用意できなかったんだ。お前が村人を皆殺しにするかと期待していたんだけれど、そうはならなかったようだね。……残念だよ、情けない野良犬くん」
「ぐあぁぁぅ!」
黒狼は激怒の咆哮を上げる。飛びかかろうとする彼を、アスレシアは両腕で飛びついて引きとめた。
憤怒に滾る二人の視線を心地良さそうに受け止めつつ、少年は、さも可笑しそうに喉を震わせて嗤った。
「さて、と。お前たちの馬鹿げたやりとりを見る趣味もないから、手短に言おう。……アスレシア、ここでわざわざお前と話したのは他でもない。お前に謝罪を求めようと思ったからだよ」
びくり、とアスレシアの頬が引きつる。
「謝罪……だと? ふざけてるのか、貴様」
「いたって真面目だよ。……いいかい。お前は、僕を傷つけたんだ。僕の身体に、おぞましい鋼鉄の痕を残してくれた。謝罪をしてもらわないと、また遊ぶ気になれなくてね」
ゼフィオンが首筋の毛を逆立てて唸った。アスレシアは首筋に回した手に力をこめて、彼を諌める。冷静になれ、と幾度も頭の中で繰り返してから、口を開いた。
「……残念だが」
冷徹な笑みをわざと浮かべ、彼女はかぶりを振った。
「子供の世迷言に付き合っている暇はない」
「もしも、お前が罪を認めないのなら、僕にも考えがある」
「勝手に考えていろ」
即答する。少年の顔にちらと怒りが走るのが分かった。
「……そう。それが、答えなんだね?」
鳶色の瞳に暗い焔が灯った。アスレシアはゼフィオンから離れると、幻影に血染めの刃を突きつけた。
「そうだ」
サニト・ベイは不快な目つきで刃を見下ろす。冷徹な瞳を鋭く細め、何かを言おうとしたのか、軽く唇を舐めた。
だが、その時。
不意に激しく叩かれた扉に、アスレシアはハッと目を向けた。サニト・ベイも驚いたらしい。一瞬身体を強張らせてから、忌々しげに美しい面を歪めた。
「総大将のお出ましか……。仕方がない。これ以上話すのは無理なようだね」
「待て! まだ話は終わって……」
「残った竜人は、情けがあるなら殺してやるといい。それほど数も多くないだろう」
ゆらり。少年は一瞬にして消え失せる。ゼフィオンは幻影が消えると同時に首飾りを咥え、そのまま破れた窓から飛び出していった。
扉が叩き割られ、オズワルドとサウスが怒声とともに転がり込んでくる。
モーガンの絶望的な悲鳴が、部屋に響き渡った。
陽はすでに西に傾きかけていた。アスレシアは表情を変えぬまま、視線を走らせ傍らを見る。石畳の上に点々と描かれる鮮血の絵画が、あまりにも鮮やかに眼に刺さる。
オズワルドの手にぶら下がったモーガンの首級。その顔は白目を剥き、大きく開けられた口からだらりと舌を出していた。太った男の首からは、血だけではなく黄色く濁った脂も滴り落ちている。
「晒すのか」
「無論」
アスレシアは眉をひそめただけで、何も言わなかった。これは戦だ。敗軍の将の首級が晒されるのは当然の事である。それを非難する理由は、彼女にはなかった。
「俺のこと、ちゃあんと兵士どもに言っといてくれよ。このサウス・ブランデル様がモーガンの首を取ったってな」
サウスが横合いから身を乗り出してきた。オズワルドは苦笑を洩らすと肯きかける。
「分かっている。報奨の件も後で相談しよう」
「そうこなくちゃな」と満面に笑みを浮かべるサウスに、アスレシアとゼフィオンは、顔を見合わせて苦笑した。
「今日一晩は、ゆっくりとしていくがいい。アデムの村で勝ちいくさの宴でも開こう」
「ああ……」
アスレシアは、ふと足を止めた。城壁の前に積み重ねられた兵士たちの遺体の中に、緑色の身体を見つけたのだ。ゼフィオンも気づいたのだろう。彼女と共に歩みを止めた。
立ち止まった二人に、サウスが首を傾げて「どうした」と訊ねる。そして、彼らの視線の先にある竜人の遺体に気づくと、肩をすくめた。
「なに、心配すんなって。あいつらも、あの世へ行ってホッとしてるさ。これでまた人間に生まれて来られるってな」
歯を剥いて笑う。ゼフィオンがふっと息を吐いて笑った。
「呆れるほど前向きな男だな」
「いくらでも呆れてくれ。男になら、呆れられようと嫌われようと構わん」
おどけて手をひらひらと振る仕草に、アスレシアの表情も思わず緩む。
「そうだな」
つぶやくと、踵を返した。
「そう思うと、少しは気が楽になる。……たまには、お前のような男にも救われるんだな」
「失礼な女だ。おい、お前の教育が悪いんじゃねえか?」
サウスに胸を小突かれ、ゼフィオンは一瞬言葉をなくす。オズワルドが溜まらず吹きだした。
嘆くばかりが、死者の為とは限らない。
アスレシアは竜人と兵士たちの遺体を見つめ、そっと胸に手を当てた。
「汝が剣に清らかなる水を。汝が盾に静かなる風を。汝が御霊に穏やかなる眠りを……。心配はいらない。冥界も、それほど悪いところじゃない」
「サウス! 無茶をするな!」
だが。
前方を行く傭兵は、振り返りもせずに門兵たちの中に斬り込んだ。瞬く間にジラルス兵の間に埋もれた男を見て、アスレシアとゼフィオンは揃って舌打ちをする。
「あの、馬鹿……!」
「金の力は侮れないな。人をさらに馬鹿にする」
呆れた口調でゼフィオンは言うと、足を止めた。手早く長弓を構え、矢を手に取る。アスレシアの方は、そのまま勢いに任せてジラルス兵の中に飛び込んだ。剣を振り回して敵を散らすと、サウスの短い髪をむりやり引っ掴む。
「全員相手にしてる暇はない。先に行くぞ」
「ててててっ。乱暴な女だな! 分かってるよ。雑魚に用はねえ」
「サウス。モーガンの部屋に行く前に言っておく。奴の首を刎ねる前に、知りたいことがあるんだ。いきなり斬りかかるのは止めてくれ」
「ええ? まあ、あんたがそう言うならしょうがねえな……。行くぜ!」
掛け声を合図に、同時に駆け出した。アスレシアはゼフィオンのいた場所を振り返ったが、すでに姿はなかった。己のルートを見つけ出し、早々と先に進んだようだ。
後を追ってくる兵士を楽々と引き離し、二人は濃紺の絨毯を道標に駆ける。横合いから飛び出してきた兵士や、健気に剣を向けてくる小姓たちを容赦なく斬り倒し、先へ先へ。
程なく一際重厚な彫刻を施された扉が正面に現れた。扉の前には、怯えきった兵士が立ち並び、壁となっていた。
「死にたくないなら退け!」
吠える。だが、兵士は一人も退くことはなかった。恐怖に震えながら槍を向けてくるその姿に、隣を走るサウスが迷った様子で一瞬足を緩める。
アスレシアは鋭く舌打ちをした。彼女の足は鈍らない。それどころか、一気に加速する。
「ならば、死ね!」
剣を振りかぶる。今度は警告ではない。宣告だった。
戦場に迷いは持ち込まない。それは、戦乱の地に生まれた者が叩き込まれる鉄則だ。戦場で剣を握るならば、二つの覚悟を持て。殺される覚悟と、迷いなく殺す覚悟を。
力の入っていない槍の穂先を数本まとめて叩き斬った。朱に染まり鬼神の形相で迫る彼女に、兵士たちの数人は悲鳴を上げて逃げ出した。それには構わず、扉をふさぐ兵士を一人、鎧ごと袈裟懸けに切り倒す。直後、背後から叩きつけられてきた槍の柄を、左の肩当で受け止める。マントを翻して絡め取ると、柄を握る若い兵士の下腹に剣を叩き込んだ。
またたく間に二人の兵士を倒した彼女に、さしもサウスも息を呑む。
「これが〈混沌の地方〉の戦い方だ」
サウスに片頬で笑いかけると、アスレシアは扉を力任せに押した。立派なのは見掛けだけらしい。大きさのわりに重量のない扉は、いとも簡単に開いた。
「ひ、ひいぃぃぃっ」
扉が開くと同時に悲鳴が響き、思わず足を止める。
中央に据え置かれた巨大な円卓の周囲には、喉を噛み裂かれた竜人たち。その向こう側に鎧を着けた肥満体の中年男。そして。
「……驚いた。いつの間に?」
苦笑と共にかけた声の先には、漆黒の巨狼がいた。恐怖に顔を引きつらせる男の首に牙をかけている。わずかでも力を加えれば、男の頭部はただの肉塊と化すのは明らかだった。
「ぐぅ」
ギラリと瞳を光らせ、一瞬だけ黒狼は笑った。それから、肉に埋もれるように男の首根にかかる首飾りを器用に牙に引っ掛けると、引っ張ってみせた。それを見たアスレシアの表情が、さっと凍りつく。
「……サウス。悪いが、少しの間だけ、外で兵士を防いでいてくれないか。モーガンの首を刎ねる時は呼ぶから」
傷ひとつない鎧の上に輝く真紅の石を見つめたまま、硬い声で彼女は言った。サウスは蒼ざめた表情で眼前の光景を眺めていたが、再度促されてようやく我に返ったらしい。幾度も黒狼と彼女に視線を往復させた。
「外でって……。大丈夫なのか? こいつは……」
「大丈夫だ」
アスレシアは黒狼に向かい、ふと唇の端を上げる。
「とにかく、頼む。そう時間はかからない。かけるつもりもない」
サウスはまだ何か言いたそうな素振りを見せたが、ひょいと肩をすくめると血濡れの剣を肩に担いで部屋を出て行った。荒々しく扉が閉まる。アスレシアは背中でその音を確認すると、冷ややかな眼でモーガンを――正確に言うとモーガンの胸元を――見下ろした。ゼフィオンが銀の鎖を噛み切り、石を床に放り投げる。真紅の石は硬い音を伴って床を跳ね、彼女の足元へと転がった。
「……さっさと出てきたらどうだ」
静かに呼びかけた。たった一言。その後は、待つ。
束の間の静寂。
やがて、空気が揺らいだかと思うと、鳥肌が立つ感覚が立ち込めた。眼前の空間がぐにゃりと歪む。うっすらと霧をまとい、湧き出でたのは――白金の幻。
「………」
「ずいぶんと生臭い出迎えだね。半魔」
開口一番、少年は嗤った。少し痩せたのだろうか。頬の線が幾分鋭くなった気がする。
「黙れ。すべて貴様が仕向けたことだ」
アスレシアは顔にこびりついた血を拭うと、怒りに声を震わせた。
「サニト・ベイ……。貴様に、聞きたいことがある」
少年は、小首を傾げる仕草さえ憎らしいほど優雅にやってのける。白金の髪が、さらりと美しく流れた。
「貴様の遊び相手は私達だろう。なぜ、無関係な人間をあんな化け物にした? なぜ、この国の内乱を煽るようなことをした? ここまで事を大きくする必要などないはずだ!」
「うるさいな。叫ばなくても聞こえているよ」
サニト・ベイは柳眉をひそめ、大げさに耳を塞いだ。
「理由、ね。そんなものを言ったところで、何にもならないとは思うけれど……」
白い歯を見せ、一呼吸置く。それから。
「――気が向いたから。それだけ」
答えた。まるで今日の天気の話でもするように、素っ気なく。絶句するアスレシアを見て、少年はさらに言葉を継いだ。
「魔力を使いたかったし、この国の内乱を煽ったら面白そうだと思ったんだ。傷も治って機嫌が良かったからね。それに、少しくらい派手にやった方が、お前たちの頭にも血が昇りやすくなるだろう?」
「それだけの、ために……? たったそれだけのために、こんな大勢の人間を弄んだというのか。ここだけじゃない。ケーズでも……」
「ああ、そうだ。ケーズ、ね」
サニト・ベイはゼフィオンに鳶色の瞳を向け、露骨に挑発の笑みを浮かべた。
「久しぶりの里帰り、楽しんでくれたかな? まだ本調子じゃなかったから、魔石を用意できなかったんだ。お前が村人を皆殺しにするかと期待していたんだけれど、そうはならなかったようだね。……残念だよ、情けない野良犬くん」
「ぐあぁぁぅ!」
黒狼は激怒の咆哮を上げる。飛びかかろうとする彼を、アスレシアは両腕で飛びついて引きとめた。
憤怒に滾る二人の視線を心地良さそうに受け止めつつ、少年は、さも可笑しそうに喉を震わせて嗤った。
「さて、と。お前たちの馬鹿げたやりとりを見る趣味もないから、手短に言おう。……アスレシア、ここでわざわざお前と話したのは他でもない。お前に謝罪を求めようと思ったからだよ」
びくり、とアスレシアの頬が引きつる。
「謝罪……だと? ふざけてるのか、貴様」
「いたって真面目だよ。……いいかい。お前は、僕を傷つけたんだ。僕の身体に、おぞましい鋼鉄の痕を残してくれた。謝罪をしてもらわないと、また遊ぶ気になれなくてね」
ゼフィオンが首筋の毛を逆立てて唸った。アスレシアは首筋に回した手に力をこめて、彼を諌める。冷静になれ、と幾度も頭の中で繰り返してから、口を開いた。
「……残念だが」
冷徹な笑みをわざと浮かべ、彼女はかぶりを振った。
「子供の世迷言に付き合っている暇はない」
「もしも、お前が罪を認めないのなら、僕にも考えがある」
「勝手に考えていろ」
即答する。少年の顔にちらと怒りが走るのが分かった。
「……そう。それが、答えなんだね?」
鳶色の瞳に暗い焔が灯った。アスレシアはゼフィオンから離れると、幻影に血染めの刃を突きつけた。
「そうだ」
サニト・ベイは不快な目つきで刃を見下ろす。冷徹な瞳を鋭く細め、何かを言おうとしたのか、軽く唇を舐めた。
だが、その時。
不意に激しく叩かれた扉に、アスレシアはハッと目を向けた。サニト・ベイも驚いたらしい。一瞬身体を強張らせてから、忌々しげに美しい面を歪めた。
「総大将のお出ましか……。仕方がない。これ以上話すのは無理なようだね」
「待て! まだ話は終わって……」
「残った竜人は、情けがあるなら殺してやるといい。それほど数も多くないだろう」
ゆらり。少年は一瞬にして消え失せる。ゼフィオンは幻影が消えると同時に首飾りを咥え、そのまま破れた窓から飛び出していった。
扉が叩き割られ、オズワルドとサウスが怒声とともに転がり込んでくる。
モーガンの絶望的な悲鳴が、部屋に響き渡った。
陽はすでに西に傾きかけていた。アスレシアは表情を変えぬまま、視線を走らせ傍らを見る。石畳の上に点々と描かれる鮮血の絵画が、あまりにも鮮やかに眼に刺さる。
オズワルドの手にぶら下がったモーガンの首級。その顔は白目を剥き、大きく開けられた口からだらりと舌を出していた。太った男の首からは、血だけではなく黄色く濁った脂も滴り落ちている。
「晒すのか」
「無論」
アスレシアは眉をひそめただけで、何も言わなかった。これは戦だ。敗軍の将の首級が晒されるのは当然の事である。それを非難する理由は、彼女にはなかった。
「俺のこと、ちゃあんと兵士どもに言っといてくれよ。このサウス・ブランデル様がモーガンの首を取ったってな」
サウスが横合いから身を乗り出してきた。オズワルドは苦笑を洩らすと肯きかける。
「分かっている。報奨の件も後で相談しよう」
「そうこなくちゃな」と満面に笑みを浮かべるサウスに、アスレシアとゼフィオンは、顔を見合わせて苦笑した。
「今日一晩は、ゆっくりとしていくがいい。アデムの村で勝ちいくさの宴でも開こう」
「ああ……」
アスレシアは、ふと足を止めた。城壁の前に積み重ねられた兵士たちの遺体の中に、緑色の身体を見つけたのだ。ゼフィオンも気づいたのだろう。彼女と共に歩みを止めた。
立ち止まった二人に、サウスが首を傾げて「どうした」と訊ねる。そして、彼らの視線の先にある竜人の遺体に気づくと、肩をすくめた。
「なに、心配すんなって。あいつらも、あの世へ行ってホッとしてるさ。これでまた人間に生まれて来られるってな」
歯を剥いて笑う。ゼフィオンがふっと息を吐いて笑った。
「呆れるほど前向きな男だな」
「いくらでも呆れてくれ。男になら、呆れられようと嫌われようと構わん」
おどけて手をひらひらと振る仕草に、アスレシアの表情も思わず緩む。
「そうだな」
つぶやくと、踵を返した。
「そう思うと、少しは気が楽になる。……たまには、お前のような男にも救われるんだな」
「失礼な女だ。おい、お前の教育が悪いんじゃねえか?」
サウスに胸を小突かれ、ゼフィオンは一瞬言葉をなくす。オズワルドが溜まらず吹きだした。
嘆くばかりが、死者の為とは限らない。
アスレシアは竜人と兵士たちの遺体を見つめ、そっと胸に手を当てた。
「汝が剣に清らかなる水を。汝が盾に静かなる風を。汝が御霊に穏やかなる眠りを……。心配はいらない。冥界も、それほど悪いところじゃない」
2014.12.06(Sat):黄昏人
第八章 三話
三日後、リニーク軍は深い森の中を貫く街道を進んでいた。目標は、アデムの村から最も近い場所にあるサイアスという名の砦である。砦そのものは小さく、地理的にもたいして重要な拠点ではない。しかし、竜人どもはすべてこの砦から現れているとの事で、オズワルドは総力を挙げて潰すつもりのようだった。
途中、村々からの志願兵たちを加え、リニーク軍は総勢千五百余になっていた。
アスレシアとゼフィオン、サウスの三人は特別に許可を受け、オズワルドの近くで馬を進めていた。当初サウスは参戦を渋っていたが、一人でも多く武将が欲しいと願うオズワルドが、この戦だけで東方(レクセント)金貨五百枚という破格の報酬を提示すると、掌を返して参戦を決めたのだ。
冬の空は、いつにも増して重苦しい。アスレシアは、風にはためくマントをしっかりとかき寄せた。
「サイアス砦には、どれくらいの兵がいるんだ?」
アスレシアの問いかけに、オズワルドは兜の面頬を上げた。
「およそ、二千。ただし、竜人がどれくらい占めているのかは分からぬ。……まあ、いつも攻めてくる時は一部隊に十体ほど混じっているに過ぎぬのだ。さほど多くもなかろうが」
「………」
竜人という言葉に彼女の表情は自然と険しくなる。眉根を寄せてオズワルドから顔を背けると、深い溜息をついた。
自分が諸悪の根源のように思えてしまう。少年の魔力は、他ならぬ自分たちを弄ぶために使われているのだ。死神をからかい、自身の魔力を試し、楽しむ。そんな身勝手なことのために、ケーズの村に続き、またも大勢の人間が被害にあっている。その現実が、あまりにも重い。
(どれだけ無関係な人間を巻き込むつもりだ……)
もしも、メイエンガムで少年を仕留めていたならば、こんな事態は起こらなかったはずだ。ケーズの村人たちも、命を落とさずに済んだ。アスレシアの中に、自身に対するやり切れない怒りが渦巻く。
あの瞬間、手に入りかけた終焉を掴み取っていたなら。いまさら考えても仕方がないとは分かっているが、どうしてもそこに行き着いてしまう。
揺らぐ心を抑えかね、アスレシアは今ひとたび深く嘆息した。ひときわ強い風が吹き抜け、手からするりとマントが逃げる。わずかに身体にまとわりついていた温もりを、寒風は一瞬にして奪い去っていった。
「よお。そんな怖い顔すんなよ」
不意に傍らで声が響く。ハッと我に返ったアスレシアの視界に、無精髭に包まれた顔が入り込んできた。驚いて思わず声を上げた彼女を見て、男は黄ばんだ歯をむきだした。
「そんなに驚くことはねえだろうよ」
「あ、いや……。少し考え事をしていて……」
アスレシアのうろたえた返事に、サウスは豪快な笑い声を上げた。
「わはは。そんな事は分かってるさあ。ずいぶんと真剣な顔で悩んでたからさ。あんまり眉間に皺寄せてると、治らなくなっちまうぜ」
「………」
余計なお世話だ、と目で語る。だが、この自信過剰な傭兵にはまったく通じない。にやにやと頬を歪め、口笛まで吹き始める彼を、アスレシアはじろりと上目遣いに睨みつけた。
「……ずいぶんと楽しそうだな。これから戦に向かうとは思えないぞ」
「そりゃあそうさ。何せ東方(レクセント)金貨五百枚だからな。西方(ディカロ)金貨なら五百枚貰った事はあるが、こんな大金は初めてだ。喜ぶのも仕方ねえだろ。それに、傭兵は、戦って聞くと興奮するもんだ」
「あまり誉められたことではないな」
男の口調につられ、アスレシアは思わず苦笑を洩らす。と、突然肩をぐいと引っ張られた。
「……ゼフィオン」
不機嫌丸出しの顔で、漆黒の瞳が彼女を見下ろしていた。その顔を見たサウスが、下品な笑い声を立てた。
「おお、怖ぇ。これ以上あんたと喋ったら、殺されちまいそうだ」
大げさに首をすくめる。そして、ゼフィオンが口を開くより早く、あっという間に前方へ走り去ってしまった。
「緊張感のないやつめ」
後姿を睨みつけて、ゼフィオンは苦々しく吐き捨てる。アスレシアは肩をすくめた。
「いいじゃないか。ああいうのも、一人ぐらい必要だろう」
「何だ。あいつの肩を持つのか」
「そういうわけじゃない……」
言いかけてふと言葉を切った。彼女の青灰色の瞳を向けられたゼフィオンは、むすりとした表情で子供のように顔を背けた。
「ゼフィオン。……お前、もしかして」
「必要以上に仲良くすることもあるまい」
ぶっきらぼうに零すと、馬首を返して後方へと去る。初めて目にした男の嫉妬に苦笑を浮かべ、アスレシアは森の向こう側へと目を向けた。
両軍が対峙したのは、翌日の昼過ぎだった。
サイアス砦の正門を見据え、ずらりとリニークの兵士たちが並ぶ。先頭は大盾を構えた重装歩兵。その後方に弓兵、軽装歩兵が控える。騎士たちはその左右両翼を守護する形で陣を組んでいた。
アスレシアたちは、オズワルドの傍らで陣形が出来上がっていく様子を馬上から眺めていた。志願兵が相当数混じっているにもかかわらず、兵士の動きは機敏である。
オズワルドは満足そうに目を細めていたが、やがて攻撃態勢がほぼ整ったのを見て取ると、静かに口を開いた。
「さて。準備が整ったところで、お前たちには、今から向かってほしい所がある」
「どこへ?」
サウスが首を傾げる。だが、オズワルドは彼に一瞥をくれただけで、返答はアスレシアに向けてきた。
「砦の西側。地下水路だ」
「……奇襲か」
つぶやくアスレシアに、オズワルドは薄い笑みを見せた。
「兵力は貴重ゆえな。すでに二十名ほどの精鋭が待機している。上手くやれば、戦わずして総大将の元まで行けよう。……やってくれるな?」
嫌とは言わせぬぞ、と眼で語り締めくくる。三人は、ついと視線を交差させた。互いの意見が一致していることを確かめ合う。
「いいだろう。異存はない」
アスレシアは肯いた。
「総大将のモーガンは、臆病な上に阿呆な男だ。居城から出る事はあるまい」
オズワルドはそう言うと、彼らから視線を外し再び砦に目を注いだ。すぐに行けということだろう。アスレシアたちは馬首を返す。手綱を絞ると、森の中へと分け入った。
剣で草葉を薙ぎ払いながら、馬を駆る。道なき道を行き、時折砦の様子を窺いながら、彼らは砦の西側に出た。
ジラルス軍は、大半の兵士を南側の正門に向かわせているのか、周囲に人気はない。
近くを流れる川から引かれた地下水路は予想以上に大きく、人が潜り込む道としては十分だった。二十名ほどのリニーク兵たちは、すでに城壁に取り付けられた鉄格子をこじ開けて待機していた。三人の姿を見ると、一斉に立ち上がる。
馬を手近な木につなぎ、彼らはすぐさま水路へと侵入した。
そろりと水に足を踏み入れる。途端に、その冷たさに震え上がった。
「これは……厳しいな」
石壁に水音が反響し、寒さに拍車をかける。水位はくるぶしまでしかないが、すぐに足の感覚がなくなり始めた。
下水道ではないので、臭気や汚れは気にならない。水底にも苔ひとつ生えていなかった。だが、澄んだ水が視覚的にも冷たさをいや増す。
道は少しずつ下りになり、水位が上がりはじめる。くるぶしからふくらはぎ、そして膝、腿。
水音と抑えた息遣いだけを聞き、四半鐘(約十五分)近くも歩いただろうか。ようやく行き止まりにたどり着いた時には、水はアスレシアの腰の位置にまで達していた。
頭上を見上げる。真上には小さな屋根があり、滑車と木製の桶がぶら下がっていた。ここから井戸のように水を汲み上げているのだ。
「さて、どこに出るか」
ゼフィオンが、先頭に立って壁にかかる縄梯子を上り始めた。さすがというべきか、音もたてず敏捷に動く。あっという間に地上へと辿りつく彼の背を見上げ、サウスが「でかいくせに、すばしっこいな」と感嘆の呟きをもらした。
顔だけ出してしばらく様子を窺っていたゼフィオンは、アスレシアたちを見下ろして軽く肯いてみせると、ひょいと外へ出て行った。続いてアスレシア、サウス、そして兵士達が素早く続く。
「敵は?」
地上に出たアスレシアは、周りを見回して眉をひそめる。すでに戦闘は始まっているらしく、剣戟の音が近くに聞こえた。門からは、さほど離れてはいないようだ。しかし、嘘のように敵兵の姿はなかった。裏をかかれることなどないと高をくくっているのか、それとも単に頭が回らぬだけか。罠ではないかと疑うほど、周辺は静かである。
兵士たちの間にも、不安とも動揺ともつかぬ空気が走る。支持を求めるように、彼らは一様に彼女たちに目を向けてきた。
「ここまで来たら、ごちゃごちゃ考えるより、進んじまった方がいいぜ」
サウスが濡れそぼった服を絞りながら言った。
「そうだな。罠であろうとなかろうと、モーガンの元まで行けば良い。考えるだけ無駄だ」
ゼフィオンが同意する。アスレシアは足元にできた水溜りを見下ろしながら、乱れた髪を纏めなおした。ふくらはぎを叩き、痺れきった足の感覚を呼び戻す。
「行くぞ。モーガンの首級(しるし)は俺がいただく」
サウスがいきなり剣を抜き、飛沫を撒き散らしながら駆け出して行った。それを合図に、兵士たちは用意していた火打石と油をしみこませた布切れを懐から取り出し、四方に散る。アスレシアとゼフィオンは……。
しばし顔を見合わせた後、二人は慌てて傭兵の後を追った。
途中、村々からの志願兵たちを加え、リニーク軍は総勢千五百余になっていた。
アスレシアとゼフィオン、サウスの三人は特別に許可を受け、オズワルドの近くで馬を進めていた。当初サウスは参戦を渋っていたが、一人でも多く武将が欲しいと願うオズワルドが、この戦だけで東方(レクセント)金貨五百枚という破格の報酬を提示すると、掌を返して参戦を決めたのだ。
冬の空は、いつにも増して重苦しい。アスレシアは、風にはためくマントをしっかりとかき寄せた。
「サイアス砦には、どれくらいの兵がいるんだ?」
アスレシアの問いかけに、オズワルドは兜の面頬を上げた。
「およそ、二千。ただし、竜人がどれくらい占めているのかは分からぬ。……まあ、いつも攻めてくる時は一部隊に十体ほど混じっているに過ぎぬのだ。さほど多くもなかろうが」
「………」
竜人という言葉に彼女の表情は自然と険しくなる。眉根を寄せてオズワルドから顔を背けると、深い溜息をついた。
自分が諸悪の根源のように思えてしまう。少年の魔力は、他ならぬ自分たちを弄ぶために使われているのだ。死神をからかい、自身の魔力を試し、楽しむ。そんな身勝手なことのために、ケーズの村に続き、またも大勢の人間が被害にあっている。その現実が、あまりにも重い。
(どれだけ無関係な人間を巻き込むつもりだ……)
もしも、メイエンガムで少年を仕留めていたならば、こんな事態は起こらなかったはずだ。ケーズの村人たちも、命を落とさずに済んだ。アスレシアの中に、自身に対するやり切れない怒りが渦巻く。
あの瞬間、手に入りかけた終焉を掴み取っていたなら。いまさら考えても仕方がないとは分かっているが、どうしてもそこに行き着いてしまう。
揺らぐ心を抑えかね、アスレシアは今ひとたび深く嘆息した。ひときわ強い風が吹き抜け、手からするりとマントが逃げる。わずかに身体にまとわりついていた温もりを、寒風は一瞬にして奪い去っていった。
「よお。そんな怖い顔すんなよ」
不意に傍らで声が響く。ハッと我に返ったアスレシアの視界に、無精髭に包まれた顔が入り込んできた。驚いて思わず声を上げた彼女を見て、男は黄ばんだ歯をむきだした。
「そんなに驚くことはねえだろうよ」
「あ、いや……。少し考え事をしていて……」
アスレシアのうろたえた返事に、サウスは豪快な笑い声を上げた。
「わはは。そんな事は分かってるさあ。ずいぶんと真剣な顔で悩んでたからさ。あんまり眉間に皺寄せてると、治らなくなっちまうぜ」
「………」
余計なお世話だ、と目で語る。だが、この自信過剰な傭兵にはまったく通じない。にやにやと頬を歪め、口笛まで吹き始める彼を、アスレシアはじろりと上目遣いに睨みつけた。
「……ずいぶんと楽しそうだな。これから戦に向かうとは思えないぞ」
「そりゃあそうさ。何せ東方(レクセント)金貨五百枚だからな。西方(ディカロ)金貨なら五百枚貰った事はあるが、こんな大金は初めてだ。喜ぶのも仕方ねえだろ。それに、傭兵は、戦って聞くと興奮するもんだ」
「あまり誉められたことではないな」
男の口調につられ、アスレシアは思わず苦笑を洩らす。と、突然肩をぐいと引っ張られた。
「……ゼフィオン」
不機嫌丸出しの顔で、漆黒の瞳が彼女を見下ろしていた。その顔を見たサウスが、下品な笑い声を立てた。
「おお、怖ぇ。これ以上あんたと喋ったら、殺されちまいそうだ」
大げさに首をすくめる。そして、ゼフィオンが口を開くより早く、あっという間に前方へ走り去ってしまった。
「緊張感のないやつめ」
後姿を睨みつけて、ゼフィオンは苦々しく吐き捨てる。アスレシアは肩をすくめた。
「いいじゃないか。ああいうのも、一人ぐらい必要だろう」
「何だ。あいつの肩を持つのか」
「そういうわけじゃない……」
言いかけてふと言葉を切った。彼女の青灰色の瞳を向けられたゼフィオンは、むすりとした表情で子供のように顔を背けた。
「ゼフィオン。……お前、もしかして」
「必要以上に仲良くすることもあるまい」
ぶっきらぼうに零すと、馬首を返して後方へと去る。初めて目にした男の嫉妬に苦笑を浮かべ、アスレシアは森の向こう側へと目を向けた。
両軍が対峙したのは、翌日の昼過ぎだった。
サイアス砦の正門を見据え、ずらりとリニークの兵士たちが並ぶ。先頭は大盾を構えた重装歩兵。その後方に弓兵、軽装歩兵が控える。騎士たちはその左右両翼を守護する形で陣を組んでいた。
アスレシアたちは、オズワルドの傍らで陣形が出来上がっていく様子を馬上から眺めていた。志願兵が相当数混じっているにもかかわらず、兵士の動きは機敏である。
オズワルドは満足そうに目を細めていたが、やがて攻撃態勢がほぼ整ったのを見て取ると、静かに口を開いた。
「さて。準備が整ったところで、お前たちには、今から向かってほしい所がある」
「どこへ?」
サウスが首を傾げる。だが、オズワルドは彼に一瞥をくれただけで、返答はアスレシアに向けてきた。
「砦の西側。地下水路だ」
「……奇襲か」
つぶやくアスレシアに、オズワルドは薄い笑みを見せた。
「兵力は貴重ゆえな。すでに二十名ほどの精鋭が待機している。上手くやれば、戦わずして総大将の元まで行けよう。……やってくれるな?」
嫌とは言わせぬぞ、と眼で語り締めくくる。三人は、ついと視線を交差させた。互いの意見が一致していることを確かめ合う。
「いいだろう。異存はない」
アスレシアは肯いた。
「総大将のモーガンは、臆病な上に阿呆な男だ。居城から出る事はあるまい」
オズワルドはそう言うと、彼らから視線を外し再び砦に目を注いだ。すぐに行けということだろう。アスレシアたちは馬首を返す。手綱を絞ると、森の中へと分け入った。
剣で草葉を薙ぎ払いながら、馬を駆る。道なき道を行き、時折砦の様子を窺いながら、彼らは砦の西側に出た。
ジラルス軍は、大半の兵士を南側の正門に向かわせているのか、周囲に人気はない。
近くを流れる川から引かれた地下水路は予想以上に大きく、人が潜り込む道としては十分だった。二十名ほどのリニーク兵たちは、すでに城壁に取り付けられた鉄格子をこじ開けて待機していた。三人の姿を見ると、一斉に立ち上がる。
馬を手近な木につなぎ、彼らはすぐさま水路へと侵入した。
そろりと水に足を踏み入れる。途端に、その冷たさに震え上がった。
「これは……厳しいな」
石壁に水音が反響し、寒さに拍車をかける。水位はくるぶしまでしかないが、すぐに足の感覚がなくなり始めた。
下水道ではないので、臭気や汚れは気にならない。水底にも苔ひとつ生えていなかった。だが、澄んだ水が視覚的にも冷たさをいや増す。
道は少しずつ下りになり、水位が上がりはじめる。くるぶしからふくらはぎ、そして膝、腿。
水音と抑えた息遣いだけを聞き、四半鐘(約十五分)近くも歩いただろうか。ようやく行き止まりにたどり着いた時には、水はアスレシアの腰の位置にまで達していた。
頭上を見上げる。真上には小さな屋根があり、滑車と木製の桶がぶら下がっていた。ここから井戸のように水を汲み上げているのだ。
「さて、どこに出るか」
ゼフィオンが、先頭に立って壁にかかる縄梯子を上り始めた。さすがというべきか、音もたてず敏捷に動く。あっという間に地上へと辿りつく彼の背を見上げ、サウスが「でかいくせに、すばしっこいな」と感嘆の呟きをもらした。
顔だけ出してしばらく様子を窺っていたゼフィオンは、アスレシアたちを見下ろして軽く肯いてみせると、ひょいと外へ出て行った。続いてアスレシア、サウス、そして兵士達が素早く続く。
「敵は?」
地上に出たアスレシアは、周りを見回して眉をひそめる。すでに戦闘は始まっているらしく、剣戟の音が近くに聞こえた。門からは、さほど離れてはいないようだ。しかし、嘘のように敵兵の姿はなかった。裏をかかれることなどないと高をくくっているのか、それとも単に頭が回らぬだけか。罠ではないかと疑うほど、周辺は静かである。
兵士たちの間にも、不安とも動揺ともつかぬ空気が走る。支持を求めるように、彼らは一様に彼女たちに目を向けてきた。
「ここまで来たら、ごちゃごちゃ考えるより、進んじまった方がいいぜ」
サウスが濡れそぼった服を絞りながら言った。
「そうだな。罠であろうとなかろうと、モーガンの元まで行けば良い。考えるだけ無駄だ」
ゼフィオンが同意する。アスレシアは足元にできた水溜りを見下ろしながら、乱れた髪を纏めなおした。ふくらはぎを叩き、痺れきった足の感覚を呼び戻す。
「行くぞ。モーガンの首級(しるし)は俺がいただく」
サウスがいきなり剣を抜き、飛沫を撒き散らしながら駆け出して行った。それを合図に、兵士たちは用意していた火打石と油をしみこませた布切れを懐から取り出し、四方に散る。アスレシアとゼフィオンは……。
しばし顔を見合わせた後、二人は慌てて傭兵の後を追った。