2014.06.18(Wed):黄昏人
第三章 四話
足元が揺れた。
大蛇の頭が、女の縛られた寝台の上に落ちたのだ。
舞い上がる砂埃の中で、デル=タルスの二つの頭のうち、右側のものが女の身体を頭から丸呑みにする。
女がすでに気を失っているのが、せめてもの救いだった。
アスレシアは胸を痛めながら、それでも次の動きに備えた。女の運命は、そのまま自分にも訪れるものなのだ。悲しんでいる暇などない。
相棒に生贄を取られた事が気に入らなかったのか、左側の頭が赤い舌を出しながら、せわしなく周囲を探っていた。
「ひ……ひぃぃぃっ」
腰を抜かしていたように座り込んでいた教祖が、逃げようとデル=タルスに背を向けた。
「駄目だ! 動くな!!」
とっさにアスレシアは叫ぶ。教祖は、彼女に救いを求めるように手を伸ばした。が。
横合いから巨大な尾が素早く伸びてきたかと思うと、その身体に巻きついた。教祖の顔面が恐怖に引きつる。
「ひ……ひいっ。やめてくれ……!! や……やめ……」
信者たちの間から悲鳴が上がった。尾は、もがく教祖を容赦なく締めつけていく。小柄な身体はめきめきと不気味な音を立て始めたかと思うと、ほどなくぐしゃりとその形を崩した。デル=タルスは歓喜に身体を震わせ、教祖の身体を咥えこむ。
「く……そ……。化物め……!」
こみ上げてくる吐き気を何とか抑えこみ、額ににじむ脂汗を拭うと、アスレシアは周囲に目を走らせた。教祖が持っていたはずの短剣を探す。しかし、もうもうと舞い上がる砂埃に阻まれ、まったく分からない。
(どうする?)
自分自身に問いかける。ほんの一瞬、食われるしかないのかとの思いが頭をよぎったが、急いでそれを叩き出す。こんな所で死ぬわけにはいかないのだ。
大蛇は女と教祖を食い終わり、新たな獲物を探し始めた。赤い二股の舌を出し入れして周囲を探っている。アスレシアは、身動き一つとれぬ。動いたが最後、この双頭の化物の牙は確実に彼女に襲いかかってくるだろう。コロシアムの信者もそれを知っているのか、まったく動こうとはしなかった。息を呑んで、大蛇と生贄を見守っている。
(まるで格闘士になった気分だ)
アスレシアは自嘲気味に考えた。だが、本物の格闘士の試合であれば、彼女の手足は自由だろうし、武器も手にしているだろう。最悪だ、と小さく吐き捨てる。
デル=タルスは、ふらりふらりと二つの頭を揺すっていたが、そのうち何かを感じ取ったのか、右側の頭がアスレシアの方へぐいと首を伸ばしてきた。
「う……」
あまりのおぞましさに、反射的に身を引く。それがいけなかった。
ジャラン、と鉄枷の鎖が大きな音を立てた。
(しまった!)
「シュオオオゥ」
デル=タルスは歓喜の声を上げた。獲物がいる場所を突き止めたのだ。二つの頭が鎌首をもたげ、彼女に狙いを定める。
(だめだ……)
さすがのアスレシアにも絶望が押し寄せる。この状況で、もはや助かる確率などまったくないと言って良い。諦めと恐怖に抗いきれず目を閉じようとした――その時だ。
不意に彼女の眼前にゆらりと陽炎が立ち上った。現れたのは一本の長剣。聞きなれた声とともに。
「アベリアル様からの贈り物! ありがたく受け取りなさいよ!」
黄金色(きんいろ)の瞳がそこにあった。
「黒猫!!」
女はニヤリと笑うと、アスレシアの手枷と足枷を一瞬にして断ち切った。
「シャアァァァッ」
アスレシアが自由を取り戻すのとほぼ同時に、大蛇が襲いかかって来た。アスレシアは剣を掴み取ると、全身をばねにして横合いに飛ぶ。
ドォン。
地響きを上げて、デル=タルスの二つの首が、つい先程まで彼女のいた場所に落ちる。
「大丈夫か!」
「あたしは大丈夫さ! 魔族を甘く見るんじゃないよ!」
ネイヴァはふわりと飛び上がると、空中で一回転して観客席の中へ降り立った。信者たちが、慌てて彼女から距離を置いた。
「確かに渡したからね。後はあんたが何とかしな!」
「言われなくても何とかする!」
剣を手にしたアスレシアに力が戻ってくる。両手でしっかりと柄を握り、彼女は大蛇に向かって地を蹴った。
「はあぁぁっ」
渾身の力で剣を白い身体に叩きつけた。魔力を帯びた剣は、化物の硬い鱗を軽々と斬り裂き、その肉にまで喰い込んだ。
「ギャアアァ!!」
右側の頭から凄まじい悲鳴が洩れる。アスレシアの剣は、大蛇の胴と首の境目を深々と斬り、骨にまで達していた。
首の半分以上を斬られたためバランスを失い、右側の頭はそのまま地に倒れこんだ。おびただしい血と体液が噴き出し、デル=タルス自身の白い身体を染め上げていく。
「とどめだ!」
もう一匹にも同じように斬りつけようと、高く剣を振りかぶる。だが、彼女の剣が届くよりわずかに早く、残った左側の強靭な首が彼女をとらえていた。
「っっ!!」
木槌で殴られたような衝撃を受け、アスレシアは吹き飛んだ。凄まじい勢いで地面に叩きつけられ息が止まる。一瞬意識を失いそうになったが、ぐらりと揺れる視界を強引に修正し、ふらつく足で立ち上がると再び剣を構えた。
背中に鋭い痛みが走り、薄絹の服がじっとりと濡れていくのが分かった。背中を打った衝撃で、矢傷から再び出血し始めたらしい。
「悪いが、これ以上貴様に構っていられない」
苦痛に顔を歪めながらも、下段に剣を構えると呼吸を整える。怒り狂ったデル=タルスの赤い瞳を睨みつけた。
「行くぞ!」
頭上から大蛇が巨大な牙を剥く。アスレシアは、躊躇せずその真下に飛び込んだ。
「喰らえーっ!!」
体中の力を腕に集中させ剣を天空に向かって突き出した。デル=タルスの巨大で醜悪な口は、剣と彼女の腕をそのまま呑み込み――。
時が止まり、全ての音が消え去った。
ぬるりとしたものが、腕を伝って落ちてくるのが分かった。気づかぬうちにきつく閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
魔力の剣は大蛇の口腔を刺し貫き、そのまま後頭部を突き破って、虚空へと切っ先を除かせていた。
アスレシアは大きく息を吸うと、一気に剣を抜き飛びすさる。
デル=タルスは血と体液を撒き散らしながら地面に倒れこみ、二、三度痙攣すると動かなくなった。
信者たちは、その時になってようやく呪縛が解けたように動き出していた。散り散りにコロシアムから逃げ出していく。
「さすがね。剣の腕に関してだけは、感心するわ」
ネイヴァがひょいと彼女の隣へと飛び降りてきた。それには答えず、アスレシアは肩で大きく息をつき、無言のままデル=タルスの死骸に鋭い視線を注ぐ。
(この蛇が双頭になっていると、あの教祖は驚愕していた。ということは……)
アスレシアは、蛇の巨大な頭を足で蹴った。まだ終わっていない。彼女の剣士としての本能が、戦いの終焉はまだだと告げている。
「どうしたの? まだ何か……」
不思議そうに訊ねたネイヴァの声が途切れた。びくり、と大蛇の頭が動いたのだ。明らかに己の意思で。
ネイヴァが悲鳴を上げて飛び退いたかと思うと、溶けるように姿を消した。冥界へ逃げたのだ。アスレシアは、薄く笑うと大蛇に剣を突きつけた。
「やはり貴様だな。サニト・ベイ」
大蛇の双眸が赤く光ると、ぱっくりと開けた口から声が漏れてきた。
「せっかく僕が用意した玩具(おもちゃ)なんだから、もっとじっくり遊んでもらわないと困るんだけれどね。双頭のうえに性格も凶暴にするのは、思った以上に大変だったんだから」
「ふっ……。たいしたものだ。魔力か」
「もちろん」
大蛇の口がニタリと笑った。
「どんどん僕の中で魔力が膨れ上がっていくんだよ。使わなくては勿体無いだろう? それに、何より鬼に追いつかれないようにしないといけないからね」
アスレシアは、喋り続ける大蛇の死骸を冷ややかに見下ろす。聖都カスラムの時と同様、魔石を使って一部始終を見ていたのだろう。ただ、今日は身代わり人形を用いて姿を現すつもりはないようだった。
「――ひとつだけ教えろ」
「なにかな?」
「ゼフィオンをどこへやった」
大蛇は、ケケケ……と奇妙な声を出して笑った。アスレシアの顔に怒りが漲る。
「残念だけど、あれは僕の仕業じゃない。あの女たちを逃がしたのは僕だけれども、何者かなんて気にも留めなかったからねぇ。そんなにあの狼が心配なのかい? もしかして、君にとって大切な人なのかな?」
「黙れ!」
アスレシアは剣を薙いだ。大蛇の頭が真っ二つに割れる。魔石が蛇の眼窩からころりと転がり落ちた。
「乱暴はやめてくれよ。見えなくなったじゃないか。……まあ、いい。僕はそろそろ失礼するよ。また近いうちにおもてなしをするからね。一人でも頑張って僕を探してくれたまえ」
サニト・ベイは不快な笑い声を残すと、ふっと気配を消した。アスレシアは、蛇の頭を力任せに蹴り上げる。乾いた音を立てて砂塵が舞った。
誰もいなくなったコロシアム。松明の灯をうけ、アスレシアはいつまでも立ち尽くしていた。
大蛇の頭が、女の縛られた寝台の上に落ちたのだ。
舞い上がる砂埃の中で、デル=タルスの二つの頭のうち、右側のものが女の身体を頭から丸呑みにする。
女がすでに気を失っているのが、せめてもの救いだった。
アスレシアは胸を痛めながら、それでも次の動きに備えた。女の運命は、そのまま自分にも訪れるものなのだ。悲しんでいる暇などない。
相棒に生贄を取られた事が気に入らなかったのか、左側の頭が赤い舌を出しながら、せわしなく周囲を探っていた。
「ひ……ひぃぃぃっ」
腰を抜かしていたように座り込んでいた教祖が、逃げようとデル=タルスに背を向けた。
「駄目だ! 動くな!!」
とっさにアスレシアは叫ぶ。教祖は、彼女に救いを求めるように手を伸ばした。が。
横合いから巨大な尾が素早く伸びてきたかと思うと、その身体に巻きついた。教祖の顔面が恐怖に引きつる。
「ひ……ひいっ。やめてくれ……!! や……やめ……」
信者たちの間から悲鳴が上がった。尾は、もがく教祖を容赦なく締めつけていく。小柄な身体はめきめきと不気味な音を立て始めたかと思うと、ほどなくぐしゃりとその形を崩した。デル=タルスは歓喜に身体を震わせ、教祖の身体を咥えこむ。
「く……そ……。化物め……!」
こみ上げてくる吐き気を何とか抑えこみ、額ににじむ脂汗を拭うと、アスレシアは周囲に目を走らせた。教祖が持っていたはずの短剣を探す。しかし、もうもうと舞い上がる砂埃に阻まれ、まったく分からない。
(どうする?)
自分自身に問いかける。ほんの一瞬、食われるしかないのかとの思いが頭をよぎったが、急いでそれを叩き出す。こんな所で死ぬわけにはいかないのだ。
大蛇は女と教祖を食い終わり、新たな獲物を探し始めた。赤い二股の舌を出し入れして周囲を探っている。アスレシアは、身動き一つとれぬ。動いたが最後、この双頭の化物の牙は確実に彼女に襲いかかってくるだろう。コロシアムの信者もそれを知っているのか、まったく動こうとはしなかった。息を呑んで、大蛇と生贄を見守っている。
(まるで格闘士になった気分だ)
アスレシアは自嘲気味に考えた。だが、本物の格闘士の試合であれば、彼女の手足は自由だろうし、武器も手にしているだろう。最悪だ、と小さく吐き捨てる。
デル=タルスは、ふらりふらりと二つの頭を揺すっていたが、そのうち何かを感じ取ったのか、右側の頭がアスレシアの方へぐいと首を伸ばしてきた。
「う……」
あまりのおぞましさに、反射的に身を引く。それがいけなかった。
ジャラン、と鉄枷の鎖が大きな音を立てた。
(しまった!)
「シュオオオゥ」
デル=タルスは歓喜の声を上げた。獲物がいる場所を突き止めたのだ。二つの頭が鎌首をもたげ、彼女に狙いを定める。
(だめだ……)
さすがのアスレシアにも絶望が押し寄せる。この状況で、もはや助かる確率などまったくないと言って良い。諦めと恐怖に抗いきれず目を閉じようとした――その時だ。
不意に彼女の眼前にゆらりと陽炎が立ち上った。現れたのは一本の長剣。聞きなれた声とともに。
「アベリアル様からの贈り物! ありがたく受け取りなさいよ!」
黄金色(きんいろ)の瞳がそこにあった。
「黒猫!!」
女はニヤリと笑うと、アスレシアの手枷と足枷を一瞬にして断ち切った。
「シャアァァァッ」
アスレシアが自由を取り戻すのとほぼ同時に、大蛇が襲いかかって来た。アスレシアは剣を掴み取ると、全身をばねにして横合いに飛ぶ。
ドォン。
地響きを上げて、デル=タルスの二つの首が、つい先程まで彼女のいた場所に落ちる。
「大丈夫か!」
「あたしは大丈夫さ! 魔族を甘く見るんじゃないよ!」
ネイヴァはふわりと飛び上がると、空中で一回転して観客席の中へ降り立った。信者たちが、慌てて彼女から距離を置いた。
「確かに渡したからね。後はあんたが何とかしな!」
「言われなくても何とかする!」
剣を手にしたアスレシアに力が戻ってくる。両手でしっかりと柄を握り、彼女は大蛇に向かって地を蹴った。
「はあぁぁっ」
渾身の力で剣を白い身体に叩きつけた。魔力を帯びた剣は、化物の硬い鱗を軽々と斬り裂き、その肉にまで喰い込んだ。
「ギャアアァ!!」
右側の頭から凄まじい悲鳴が洩れる。アスレシアの剣は、大蛇の胴と首の境目を深々と斬り、骨にまで達していた。
首の半分以上を斬られたためバランスを失い、右側の頭はそのまま地に倒れこんだ。おびただしい血と体液が噴き出し、デル=タルス自身の白い身体を染め上げていく。
「とどめだ!」
もう一匹にも同じように斬りつけようと、高く剣を振りかぶる。だが、彼女の剣が届くよりわずかに早く、残った左側の強靭な首が彼女をとらえていた。
「っっ!!」
木槌で殴られたような衝撃を受け、アスレシアは吹き飛んだ。凄まじい勢いで地面に叩きつけられ息が止まる。一瞬意識を失いそうになったが、ぐらりと揺れる視界を強引に修正し、ふらつく足で立ち上がると再び剣を構えた。
背中に鋭い痛みが走り、薄絹の服がじっとりと濡れていくのが分かった。背中を打った衝撃で、矢傷から再び出血し始めたらしい。
「悪いが、これ以上貴様に構っていられない」
苦痛に顔を歪めながらも、下段に剣を構えると呼吸を整える。怒り狂ったデル=タルスの赤い瞳を睨みつけた。
「行くぞ!」
頭上から大蛇が巨大な牙を剥く。アスレシアは、躊躇せずその真下に飛び込んだ。
「喰らえーっ!!」
体中の力を腕に集中させ剣を天空に向かって突き出した。デル=タルスの巨大で醜悪な口は、剣と彼女の腕をそのまま呑み込み――。
時が止まり、全ての音が消え去った。
ぬるりとしたものが、腕を伝って落ちてくるのが分かった。気づかぬうちにきつく閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
魔力の剣は大蛇の口腔を刺し貫き、そのまま後頭部を突き破って、虚空へと切っ先を除かせていた。
アスレシアは大きく息を吸うと、一気に剣を抜き飛びすさる。
デル=タルスは血と体液を撒き散らしながら地面に倒れこみ、二、三度痙攣すると動かなくなった。
信者たちは、その時になってようやく呪縛が解けたように動き出していた。散り散りにコロシアムから逃げ出していく。
「さすがね。剣の腕に関してだけは、感心するわ」
ネイヴァがひょいと彼女の隣へと飛び降りてきた。それには答えず、アスレシアは肩で大きく息をつき、無言のままデル=タルスの死骸に鋭い視線を注ぐ。
(この蛇が双頭になっていると、あの教祖は驚愕していた。ということは……)
アスレシアは、蛇の巨大な頭を足で蹴った。まだ終わっていない。彼女の剣士としての本能が、戦いの終焉はまだだと告げている。
「どうしたの? まだ何か……」
不思議そうに訊ねたネイヴァの声が途切れた。びくり、と大蛇の頭が動いたのだ。明らかに己の意思で。
ネイヴァが悲鳴を上げて飛び退いたかと思うと、溶けるように姿を消した。冥界へ逃げたのだ。アスレシアは、薄く笑うと大蛇に剣を突きつけた。
「やはり貴様だな。サニト・ベイ」
大蛇の双眸が赤く光ると、ぱっくりと開けた口から声が漏れてきた。
「せっかく僕が用意した玩具(おもちゃ)なんだから、もっとじっくり遊んでもらわないと困るんだけれどね。双頭のうえに性格も凶暴にするのは、思った以上に大変だったんだから」
「ふっ……。たいしたものだ。魔力か」
「もちろん」
大蛇の口がニタリと笑った。
「どんどん僕の中で魔力が膨れ上がっていくんだよ。使わなくては勿体無いだろう? それに、何より鬼に追いつかれないようにしないといけないからね」
アスレシアは、喋り続ける大蛇の死骸を冷ややかに見下ろす。聖都カスラムの時と同様、魔石を使って一部始終を見ていたのだろう。ただ、今日は身代わり人形を用いて姿を現すつもりはないようだった。
「――ひとつだけ教えろ」
「なにかな?」
「ゼフィオンをどこへやった」
大蛇は、ケケケ……と奇妙な声を出して笑った。アスレシアの顔に怒りが漲る。
「残念だけど、あれは僕の仕業じゃない。あの女たちを逃がしたのは僕だけれども、何者かなんて気にも留めなかったからねぇ。そんなにあの狼が心配なのかい? もしかして、君にとって大切な人なのかな?」
「黙れ!」
アスレシアは剣を薙いだ。大蛇の頭が真っ二つに割れる。魔石が蛇の眼窩からころりと転がり落ちた。
「乱暴はやめてくれよ。見えなくなったじゃないか。……まあ、いい。僕はそろそろ失礼するよ。また近いうちにおもてなしをするからね。一人でも頑張って僕を探してくれたまえ」
サニト・ベイは不快な笑い声を残すと、ふっと気配を消した。アスレシアは、蛇の頭を力任せに蹴り上げる。乾いた音を立てて砂塵が舞った。
誰もいなくなったコロシアム。松明の灯をうけ、アスレシアはいつまでも立ち尽くしていた。
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2014.06.18(Wed):黄昏人
第三章 三話
熱い湯が傷にしみて、アスレシアは歯を喰いしばった。
ふらつく足を踏ん張り、かろうじて耐える。
白大理石でつくられた豪奢な浴場である。たっぷりと湯を使い、数人の女たちがアスレシアの身体を清めていた。
髪をくしけずり、爪の先まで丁寧に磨いていく。だが、その作業はあまりに機械的で無感情なものだった。女たちは一言も口を利かず、ただ黙々と決められた手順で仕事をこなしているだけらしい。だから、アスレシアの背にある深い矢傷も気にとめず、無造作に湯を浴びせるのだ。
「傷は……どれほどのものだ」
アスレシアの問いにも、女たちは答えない。口を利くのを恐れているのではなく、本当に彼女の言葉が聞こえていないようだ。
「おい。私の言う事が……」
「無駄だ」
不意に声が響いたかと思うと、入り口に一人の男が現れた。あの小柄な男だ。アスレシアは反射的に両腕で身体を覆い、後ずさる。
「ふふ……。その女たちは、全員耳と喉を潰してある。話しかけても無駄だ」
男は、壁に背を預けると腕を組んだ。アスレシアは、伸びてくる女たちの手を振り払って吠えた。
「何をしに来た!」
「監視だ。お前なら、この女たちすべてを殺して逃げかねんだろう」
「ふざけるな」
またも背中に湯をかけられ、アスレシアは顔をしかめた。いくら耳が聞こえなくても、傷を負っているのは見て分かるはずなのに、女たちは手を緩めようとはしない。足元に流れる湯が、うっすらと赤く染まっているのを認め、心の中で悪態をつく。
「傷の手当はしてくれるんだろうな。このままでは、血を失いすぎる」
「心配するな。大切な生贄だ」
男は酷薄な笑みを浮かべて言った。
「生きたまま、デル=タルス様に捧げなければならぬ」
男の口からその名が出るたびに、サニト・ベイの嘲笑が現れる。アスレシアは不快な気持ちを隠せず、面に出した。
(それにしても、このままでは戦うこともできないな……。あまりに深い傷は、治らないということか)
息を吐くたびに背中が鈍く痛む。裂傷は瞬時にして治癒するが、この矢傷は今のところ治りそうにない。半人半魔の黄昏人には、表面上の傷を治す力しかないという事だろう。
女たちは、やがてアスレシアの身体を清め終え、真新しい布で丁寧に身体を拭っていった。そして、その場で薬草をすり潰したものを彼女の背に塗りこみ、包帯を巻きつけた。男の言葉が真実であったので、アスレシアはとりあえず安堵の息をつく。これで、傷による命の心配はしなくてもいいわけだ。尤も、彼女の命が危険に晒されていることに変わりはないのだが。
安堵から少し余裕ができた彼女は、男に向かって言った。
「……聞いてもいいか」
「何だ」
「デル=タルスというのは何者だ。私の知識の中に、そのような神はいない」
彼女とて元は騎士の家に生まれた身である。しかも曽祖父より父まで三代続けて騎士団長を務めていた家柄だ。それゆえ、教育に関しては相当高いレベルのものを受けているといって良い。その彼女の知識の中に、デル=タルスなる名前の神は存在しなかった。
「デル=タルス様は、尊い白蛇の姿を持っておられる。そして、この世を欲望の世へと導かれる存在なのだ」
男は、謳うように高らかに答えた。それから、侮蔑の表情をアスレシアへと注ぐ。
「美しく崇高な神の御名を、貴様ごときが知らずとも当然かもしれぬ」
「………」
狂気の眼だ。こういう人間には言葉など通じない。話し合いに持っていくのは不可能だと判断し、アスレシアは腹をくくった。どうやら生贄になるしかないようである。
(白蛇の姿か……。モンスターの突然変異か何かだろうな)
デル=タルスとやらには、それほど脅威は感じない。森によく潜んでいる土蛇の巨大化したものだろうと思われた。ただ問題は、だ。
(あいつが、どういう形で関わってくるのか)
それは、実際にデル=タルスと向き合って見なければ分からない。
密かに溜息をついたアスレシアの肩に、薄絹でつくられた煌(きら)びやかな衣がかけられた。
そして、日没とともに狂宴は始まった。
低く響き渡る太鼓の音と、それに唱和する人々の声。
すり鉢型の円形コロシアムの中央部に、アスレシアと黒髪の女がいた。透けるような薄絹と全身に散りばめられた黄金や宝石の装飾品。しかし、その美しい姿に似つかわしくない重々しい鉄枷で、両手両足の動きを封じられている。
彼女たちの目の前には、白大理石の寝台がある。いったい何人の女がこの寝台で命を奪われたのだろうと、アスレシアはぼんやりと考えた。
コロシアムの周囲は観客席のようになっており、白い服の信者たちで埋め尽くされていた。総勢百名ほどだろうか。地の底から沸きあがってくるような詠唱を続けている。
アスレシアは背筋を真っ直ぐに伸ばし、油断なく周囲に気を配っていた。そうしながらも、どのようにしてデル=タルスと戦うか、懸命に頭を働かせる。
(あの男、どのような方法を用いてくるつもりだ……)
例の小柄な男は教祖だった。恐らく儀式で彼女の命を奪おうとするのは、あの男だろう。普通に考えれば、生贄の命を奪うには剣を用いるはずだ。
(それを奪って武器にするしかないか……)
人々の興奮が肌に突き刺さってくる。これほど多くの人間に“死”を望まれたのは、今までにない経験であった。さすがに背に冷たい汗が滲む。
アスレシアの隣に立つ黒髪の女は、全身を激しく震わせている。今にも倒れそうなほどに顔面が蒼白い。何とか助けてやる事ができれば良いのだが、考える限りかなり困難だと思われた。せめて、この女に戦う意思が少しでもあれば可能性が出てくるが、力も技も持たぬ普通の娘に、それを望むのは酷というものだろう。
太鼓の音が一層大きくなり、人々の興奮が最高潮に達したとき、アスレシアの視界の端に小柄な男が現れた。白地に紫と金の刺繍を施した長衣と覆面をつけている。
教祖であるその男が寝台の前まで厳かに歩いてくると、太鼓の音と詠唱はピタリとやんだ。先程までの耳を聾(ろう)せんばかりの音が一瞬にして消え、静寂が支配する。だが、人々の興奮は静まることなく、明らかに高まっていた。
教祖が両手を大きく広げ、叫んだ。
「崇高なデル=タルス神に仕える者たちよ! 今宵もまた、美しき贄を捧げるときが来た! さあ、祈り、踊り、己の欲望を満たすがよい。己の心の赴くままに、奪い、犯し、壊せ。その心こそが、デル=タルス様の糧となるのだ!!」
うおおお……と信者たちの歓喜の叫びがコロシアムを震わせた。
「さあ、美しき贄よ!至高の瞬間を迎えるがよい!」
教祖はまず、黒髪の女に手を伸ばした。女はほんの少し抵抗する素振りを見せたが、あっさりと教祖に抱きかかえられ、寝台に横たえられた。そして、四肢をしっかりと固定される。
(やはり助けられない……)
アスレシアは、身動きの取れぬ自分を呪いながら、女を見守るしかなかった。
「出でよ! 我が欲望の神よ!!」
「出でよ! 我が欲望の神よ!!」
教祖に続いて信者たちが繰り返す。
寝台の向こう側にあった鉄扉が、ゆっくりと軋んだ音を立てて開いていく。
アスレシアは身構え、息を呑んで中から出てくるものを待ち受けた。
扉の奥は、完全な闇。その中に真っ赤な光が二つ、揺れていた。シュウシュウと嫌な音が聞こえてきた。アスレシアの全身が総毛立つ。
「おお! 我が至高の神デル=タルスよ!」
芝居がかった仕草で教祖は言うと、腰にあった短剣を引き抜いた。女が絹を裂いたような悲鳴を上げる。
その恐怖の叫びに反応し、不快な音をゆっくりと引きずりながら、それは灯の下に姿を表した。――人間の五倍はゆうにあろう。とぐろを巻いた白く輝く身体は、途中で二手に分かれ、それぞれの先に巨大な頭がついている。
(双頭の蛇か!)
アスレシアは、内心舌打ちをして叫んだ。
一番面倒な相手である。二匹の蛇ならば一匹ずつ相手にできるが、双頭となれば至近距離で二匹同時に戦わなければならない。おまけに、身体は一つであるためか、やたらと連携が良いのである。手強い敵だ。
(とりあえず、あの教祖の剣を……)
そう思って教祖に視線を移したアスレシアであったが。
「……?」
明らかにその様子がおかしいことに気づいた。両手を大きく広げたまま、まったく動かない。いや、そればかりではなかった。気づけば、信者たちの放つ歓喜の声もいつの間にか消えている。
(何事だ?)
信者たちの目は、どれも驚愕に見開かれていた。この大蛇がいつもと違うのだ、とアスレシアは悟った。しかし、どこが違うのか彼女には分からない。
「おい!」
押し殺した声で教祖を呼んだ。静かであったため届いたらしい。教祖の身体がびくりと震え、彼女を振り返る。
「何が起きたんだ?」
教祖は、信じられぬというふうに小さく首を振った。そして、震える声で答えた。
「……デル=タルス様が、双頭に……」
直後。
白い大蛇が一気に動いた。
ふらつく足を踏ん張り、かろうじて耐える。
白大理石でつくられた豪奢な浴場である。たっぷりと湯を使い、数人の女たちがアスレシアの身体を清めていた。
髪をくしけずり、爪の先まで丁寧に磨いていく。だが、その作業はあまりに機械的で無感情なものだった。女たちは一言も口を利かず、ただ黙々と決められた手順で仕事をこなしているだけらしい。だから、アスレシアの背にある深い矢傷も気にとめず、無造作に湯を浴びせるのだ。
「傷は……どれほどのものだ」
アスレシアの問いにも、女たちは答えない。口を利くのを恐れているのではなく、本当に彼女の言葉が聞こえていないようだ。
「おい。私の言う事が……」
「無駄だ」
不意に声が響いたかと思うと、入り口に一人の男が現れた。あの小柄な男だ。アスレシアは反射的に両腕で身体を覆い、後ずさる。
「ふふ……。その女たちは、全員耳と喉を潰してある。話しかけても無駄だ」
男は、壁に背を預けると腕を組んだ。アスレシアは、伸びてくる女たちの手を振り払って吠えた。
「何をしに来た!」
「監視だ。お前なら、この女たちすべてを殺して逃げかねんだろう」
「ふざけるな」
またも背中に湯をかけられ、アスレシアは顔をしかめた。いくら耳が聞こえなくても、傷を負っているのは見て分かるはずなのに、女たちは手を緩めようとはしない。足元に流れる湯が、うっすらと赤く染まっているのを認め、心の中で悪態をつく。
「傷の手当はしてくれるんだろうな。このままでは、血を失いすぎる」
「心配するな。大切な生贄だ」
男は酷薄な笑みを浮かべて言った。
「生きたまま、デル=タルス様に捧げなければならぬ」
男の口からその名が出るたびに、サニト・ベイの嘲笑が現れる。アスレシアは不快な気持ちを隠せず、面に出した。
(それにしても、このままでは戦うこともできないな……。あまりに深い傷は、治らないということか)
息を吐くたびに背中が鈍く痛む。裂傷は瞬時にして治癒するが、この矢傷は今のところ治りそうにない。半人半魔の黄昏人には、表面上の傷を治す力しかないという事だろう。
女たちは、やがてアスレシアの身体を清め終え、真新しい布で丁寧に身体を拭っていった。そして、その場で薬草をすり潰したものを彼女の背に塗りこみ、包帯を巻きつけた。男の言葉が真実であったので、アスレシアはとりあえず安堵の息をつく。これで、傷による命の心配はしなくてもいいわけだ。尤も、彼女の命が危険に晒されていることに変わりはないのだが。
安堵から少し余裕ができた彼女は、男に向かって言った。
「……聞いてもいいか」
「何だ」
「デル=タルスというのは何者だ。私の知識の中に、そのような神はいない」
彼女とて元は騎士の家に生まれた身である。しかも曽祖父より父まで三代続けて騎士団長を務めていた家柄だ。それゆえ、教育に関しては相当高いレベルのものを受けているといって良い。その彼女の知識の中に、デル=タルスなる名前の神は存在しなかった。
「デル=タルス様は、尊い白蛇の姿を持っておられる。そして、この世を欲望の世へと導かれる存在なのだ」
男は、謳うように高らかに答えた。それから、侮蔑の表情をアスレシアへと注ぐ。
「美しく崇高な神の御名を、貴様ごときが知らずとも当然かもしれぬ」
「………」
狂気の眼だ。こういう人間には言葉など通じない。話し合いに持っていくのは不可能だと判断し、アスレシアは腹をくくった。どうやら生贄になるしかないようである。
(白蛇の姿か……。モンスターの突然変異か何かだろうな)
デル=タルスとやらには、それほど脅威は感じない。森によく潜んでいる土蛇の巨大化したものだろうと思われた。ただ問題は、だ。
(あいつが、どういう形で関わってくるのか)
それは、実際にデル=タルスと向き合って見なければ分からない。
密かに溜息をついたアスレシアの肩に、薄絹でつくられた煌(きら)びやかな衣がかけられた。
そして、日没とともに狂宴は始まった。
低く響き渡る太鼓の音と、それに唱和する人々の声。
すり鉢型の円形コロシアムの中央部に、アスレシアと黒髪の女がいた。透けるような薄絹と全身に散りばめられた黄金や宝石の装飾品。しかし、その美しい姿に似つかわしくない重々しい鉄枷で、両手両足の動きを封じられている。
彼女たちの目の前には、白大理石の寝台がある。いったい何人の女がこの寝台で命を奪われたのだろうと、アスレシアはぼんやりと考えた。
コロシアムの周囲は観客席のようになっており、白い服の信者たちで埋め尽くされていた。総勢百名ほどだろうか。地の底から沸きあがってくるような詠唱を続けている。
アスレシアは背筋を真っ直ぐに伸ばし、油断なく周囲に気を配っていた。そうしながらも、どのようにしてデル=タルスと戦うか、懸命に頭を働かせる。
(あの男、どのような方法を用いてくるつもりだ……)
例の小柄な男は教祖だった。恐らく儀式で彼女の命を奪おうとするのは、あの男だろう。普通に考えれば、生贄の命を奪うには剣を用いるはずだ。
(それを奪って武器にするしかないか……)
人々の興奮が肌に突き刺さってくる。これほど多くの人間に“死”を望まれたのは、今までにない経験であった。さすがに背に冷たい汗が滲む。
アスレシアの隣に立つ黒髪の女は、全身を激しく震わせている。今にも倒れそうなほどに顔面が蒼白い。何とか助けてやる事ができれば良いのだが、考える限りかなり困難だと思われた。せめて、この女に戦う意思が少しでもあれば可能性が出てくるが、力も技も持たぬ普通の娘に、それを望むのは酷というものだろう。
太鼓の音が一層大きくなり、人々の興奮が最高潮に達したとき、アスレシアの視界の端に小柄な男が現れた。白地に紫と金の刺繍を施した長衣と覆面をつけている。
教祖であるその男が寝台の前まで厳かに歩いてくると、太鼓の音と詠唱はピタリとやんだ。先程までの耳を聾(ろう)せんばかりの音が一瞬にして消え、静寂が支配する。だが、人々の興奮は静まることなく、明らかに高まっていた。
教祖が両手を大きく広げ、叫んだ。
「崇高なデル=タルス神に仕える者たちよ! 今宵もまた、美しき贄を捧げるときが来た! さあ、祈り、踊り、己の欲望を満たすがよい。己の心の赴くままに、奪い、犯し、壊せ。その心こそが、デル=タルス様の糧となるのだ!!」
うおおお……と信者たちの歓喜の叫びがコロシアムを震わせた。
「さあ、美しき贄よ!至高の瞬間を迎えるがよい!」
教祖はまず、黒髪の女に手を伸ばした。女はほんの少し抵抗する素振りを見せたが、あっさりと教祖に抱きかかえられ、寝台に横たえられた。そして、四肢をしっかりと固定される。
(やはり助けられない……)
アスレシアは、身動きの取れぬ自分を呪いながら、女を見守るしかなかった。
「出でよ! 我が欲望の神よ!!」
「出でよ! 我が欲望の神よ!!」
教祖に続いて信者たちが繰り返す。
寝台の向こう側にあった鉄扉が、ゆっくりと軋んだ音を立てて開いていく。
アスレシアは身構え、息を呑んで中から出てくるものを待ち受けた。
扉の奥は、完全な闇。その中に真っ赤な光が二つ、揺れていた。シュウシュウと嫌な音が聞こえてきた。アスレシアの全身が総毛立つ。
「おお! 我が至高の神デル=タルスよ!」
芝居がかった仕草で教祖は言うと、腰にあった短剣を引き抜いた。女が絹を裂いたような悲鳴を上げる。
その恐怖の叫びに反応し、不快な音をゆっくりと引きずりながら、それは灯の下に姿を表した。――人間の五倍はゆうにあろう。とぐろを巻いた白く輝く身体は、途中で二手に分かれ、それぞれの先に巨大な頭がついている。
(双頭の蛇か!)
アスレシアは、内心舌打ちをして叫んだ。
一番面倒な相手である。二匹の蛇ならば一匹ずつ相手にできるが、双頭となれば至近距離で二匹同時に戦わなければならない。おまけに、身体は一つであるためか、やたらと連携が良いのである。手強い敵だ。
(とりあえず、あの教祖の剣を……)
そう思って教祖に視線を移したアスレシアであったが。
「……?」
明らかにその様子がおかしいことに気づいた。両手を大きく広げたまま、まったく動かない。いや、そればかりではなかった。気づけば、信者たちの放つ歓喜の声もいつの間にか消えている。
(何事だ?)
信者たちの目は、どれも驚愕に見開かれていた。この大蛇がいつもと違うのだ、とアスレシアは悟った。しかし、どこが違うのか彼女には分からない。
「おい!」
押し殺した声で教祖を呼んだ。静かであったため届いたらしい。教祖の身体がびくりと震え、彼女を振り返る。
「何が起きたんだ?」
教祖は、信じられぬというふうに小さく首を振った。そして、震える声で答えた。
「……デル=タルス様が、双頭に……」
直後。
白い大蛇が一気に動いた。
2014.06.18(Wed):黄昏人
第三章 二話
コズウェイルの面は、いつもより青白く引きつっていた。その只ならぬ雰囲気に、いつもならからかいの一つでも口にするアベリアルも黙り込んでいる。
「どうしてくれるのだ」
言葉そのものは、いたって冷静である。だが、その目は明らかに彼女を責めていた。
「……どうすればいいのかなんて、私にも分からないわよ」
半ばふてくされたように、アベリアルは答えた。事実、そうなのだから仕方がない。黄昏人の探し方など知るはずもない。
アベリアルは、純血の魔族であることに非常に誇りを持っている。敵対する天界の神や天使たちは憎むべき存在だし、地上の人間どもは魂を管理するいわば家畜のようなものだ。そして、その中間に位置する混血者たちの存在は、彼女にとって、どうでもよいものなのである。
人間界に何かと関わりを持つことが多い死神なので、魔力を失わずに人間界に長く留まれる黄昏人がいれば、便利なのだろうとは思う。だが、彼女はあくまでも純血の魔族にこだわっている。理屈などない。それが彼女の主義なのだ。
「もう少しすれば、自分で帰ってくるんじゃないの?」
アベリアルは何気なく言ってから、それが失言であると気づき口を押さえた。しかし、コズウェイルにはしっかりと届いていた。馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「毎日酒ばかり飲んで、着飾る事しか考えていないのがよく分かる」
「うるさいわね。少し忘れていただけよ」
アベリアルは、苦い顔をして杯をあおった。
「黄昏人は自力で冥界と人間界を行き来できない。……純血の魔族に呼び戻してもらうか、付き添ってもらうかしなければ、駄目なんでしょう」
「ふん。偉そうに言うような事ではない。魔族ならば子供でも知っている」
「悪かったわね。子供以下で」
不機嫌なコズウェイルを見ながら、アベリアルは、これは本当にまずいかもしれないと感じ始めていた。突如として行方がわからなくなってしまった黄昏人のゼフィオンという男を、コズウェイルはずいぶんと可愛がっているのだ。
「あの黒狼の青年がいなくなったのも……やはりあの子供のせいなの?」
おそるおそる訊ねた。あの子供――サニト・ベイという名の人間の子供である。たった十五かそこらで、契約を結ぶためにコズウェイルを呼びだす程の知識を持った少年だ。しかも、あろうことか土壇場になってコズウェイルを欺き、裏切った。そして、現在大陸中を逃げ回っている。“鬼ごっこ”と称して楽しみながら。
(たいした子供だわ……)
人間を家畜と呼んでいるアベリアルも、認めざるを得なかった。稀に見る悪魔の資質を備えた少年といえよう。だからこそコズウェイルは契約に応じたのだろうし、自分も彼を出し抜いて魂を貰う契約を取り付けようと、少年に魔力を貸し与えたのだ。結果として、その目論見は見事に外れてしまったのだが。
「あの子供のせいだと言いたいところだが……。どうも違うような気がする」
コズウェイルの声に、アベリアルは現実に引き戻される。自分が問いかけておきながら物思いに囚われていたのかと、思わず苦笑した。
「サニト・ベイの気配があることは確かだ。しかし、ペンドラゴンが木々の記憶を見たところ、ゼフィオンは庇っていた女によって河へと落とされたらしい。その女もろともに」
「その女がサニト・ベイに操られていたとか?」
「違うな」
コズウェイルは、あっさりと否定した。
「サニト・ベイの眼中にあるのは、私とアスレシアだ。ゼフィオンは、やつにとって単にアスレシアの同行者という存在に過ぎぬ。わざわざ狙う理由がない。それに……」
コズウェイルは、丁寧に後ろに撫でつけた銀髪を荒っぽくかきむしると、
「一切ゼフィオンの気が感じられなくなったというのが、どうにも解せぬ。いくら人間でもそこまではできぬはずだ。もしも、サニト・ベイ一人の力でこんな事をやってのけたとしたら、あいつは……本当に化け物だぞ」
「たしかにね」
完全にお手上げだわ、とアベリアルは内心つぶやいた。あの物静かな好青年は、諦めるしかないだろう。その気になれば黄昏人などいくらでも作る事ができるのだ。――あのアスレシアという女のように。
アベリアルは慰めるつもりで、コズウェイルに言った。
「まあ、本当に死んだのかもしれないし……。黄昏人は、私たちほど強くはないでしょう。寿命だって人間とそれほど変わらないしね」
「不吉な事を言うな。死神がそれを言っては、洒落にならん」
「でも事実じゃない。また新しい黄昏人を手に入れれば済む話よ」
「………」
コズウェイルは、腹の底から深いため息を吐いた。その沈痛な面持ちから、相当大きな痛手を受けているのが分かる。
「アベリアル。とりあえず、これだけは言っておく」
「なに?」
「こうなった原因の一端は、明らかにお前にある。これからは、奴を捕らえるために私に協力しろ」
「……分かったわ」
「アスレシア一人では、少々心許ない。剣の腕は立つが、魔力に対してはまったくの素人だからな。……時折でいい、あの黒猫の娘を人間界へ遣るようにしてくれ」
(この前までは、連れ戻せと言っていたくせに)
だが、そんな事を言おうものなら、この神経質な伯爵殿は、怒り狂って何をしでかすか分からない。いかに他人を怒らせるのが好きな彼女であっても、今はやめておこうと素直に思った。何しろ、ここは彼女の屋敷なのだ。大切な調度品の数々を傷つけるわけにはいかないのである。
コズウェイルが立ち上がった。これ以上ここにいても、何の進展も得られぬと判断したらしい。アベリアルは、珍しく彼を玄関まで送った。
外に出たところで、コズウェイルはふと足を止めた。力なく彼女のほうを振り返る。
「見苦しいところを見せてしまったな。すまない」
「気にしてないわ」
アベリアルは、肩をそびやかして答えた。この男に謝られるなど、何十年ぶりだろう。
「気が動転してしまっているのだ。……あいつが行方不明になるなど、想像もしなかったからな」
「あなたが家臣を大切にしているのは、よく分かったわよ」
「………」
コズウェイルは、視線を上げてアベリアルを見つめた。その目がなぜか物言いたげなことに、アベリアルは気づく。
「どうしたの?」
「いや……」
コズウェイルは小さく苦笑いをすると、背を向けた。そして。
「家臣……か」
聞こえぬほどのつぶやきを残すと、大鷲の姿となって飛び去った。
*****
後に残されたアベリアルは、何とも落ち着かぬ感情を抱きながら、自室へと戻った。
(ゼフィオンは特別だ、とでも言いたそうだったわね)
手つかずのまま残されたコズウェイルの酒杯を取ると、一息に飲み干した。
あれほどまでにコズウェイルを動揺させるゼフィオンとは、何者なのだろう。アベリアルも何度か会った事はあるが、特別目を引く存在ではなかったように思う。たしかに射手として腕前は一流だし、頭の回転も早い男だとは思った。穏やかで端正な顔立ちも好感が持てるものだった。しかし、そんなものは、コズウェイルにとって問題ではないだろう。そうすると、考えられるのは……。
「まさか」
アベリアルは、眉をひそめた。
たしか、あの男は生まれもっての黄昏人だと言っていた。魔族と人間の混血(ハーフ)だと。
「まさか……ね」
もう一度同じ言葉を繰り返し、アベリアルは頭に浮かんだ考えを追い払う。
ありえない。下級魔族ならばともかく、冥界の貴族と人間が交わり、そのうえ子を成すなど、あってはならぬ事だ。だが、考えれば考えるほど、それが確信へと変わっていくのを彼女は感じた。
大きく息をつく。これ以上、その問題に関わるべきではない。アベリアルは、問題を切り替える事にした。
「元はといえば、私があの子供に力を貸したからなのよね。認めたくはないのだけれど」
誰にともなく、言い訳めいた口調で言った。
「ゼフィオンを見つけるのは無理だけど、せめてアスレシアにだけでも協力してやることにするわ」
そして、口の中で呪文をつぶやく。ほどなくして黒猫が溶け出すように姿を現した。アベリアルの前に出ると、若い女性の姿となる。
「お呼びですか。アベリアル様」
「お前に命令があるの。ネイヴァ」
アベリアルが手で小さな印を組むと、空中に一振りの剣が現れた。それをネイヴァに指し示す。
「この剣を、あのアスレシアという女に渡してきて頂戴」
「これを? ――魔力の剣ではありませんか」
ネイヴァは少し驚いた表情になったが、主の真剣な顔つきを見て、それ以上は口を開かなかった。
「その剣なら、あの娘でも少しはサニト・ベイと戦えるはずよ。いい? くれぐれも悪戯はしないようにね」
「かしこまりました」
幾分不満そうに、ネイヴァは肯いた。
(剣の腕は相当だというし、後は何とか自分一人で解決なさいな)
アベリアルは、脳裏に描いた女剣士の姿に話しかけた。
「どうしてくれるのだ」
言葉そのものは、いたって冷静である。だが、その目は明らかに彼女を責めていた。
「……どうすればいいのかなんて、私にも分からないわよ」
半ばふてくされたように、アベリアルは答えた。事実、そうなのだから仕方がない。黄昏人の探し方など知るはずもない。
アベリアルは、純血の魔族であることに非常に誇りを持っている。敵対する天界の神や天使たちは憎むべき存在だし、地上の人間どもは魂を管理するいわば家畜のようなものだ。そして、その中間に位置する混血者たちの存在は、彼女にとって、どうでもよいものなのである。
人間界に何かと関わりを持つことが多い死神なので、魔力を失わずに人間界に長く留まれる黄昏人がいれば、便利なのだろうとは思う。だが、彼女はあくまでも純血の魔族にこだわっている。理屈などない。それが彼女の主義なのだ。
「もう少しすれば、自分で帰ってくるんじゃないの?」
アベリアルは何気なく言ってから、それが失言であると気づき口を押さえた。しかし、コズウェイルにはしっかりと届いていた。馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「毎日酒ばかり飲んで、着飾る事しか考えていないのがよく分かる」
「うるさいわね。少し忘れていただけよ」
アベリアルは、苦い顔をして杯をあおった。
「黄昏人は自力で冥界と人間界を行き来できない。……純血の魔族に呼び戻してもらうか、付き添ってもらうかしなければ、駄目なんでしょう」
「ふん。偉そうに言うような事ではない。魔族ならば子供でも知っている」
「悪かったわね。子供以下で」
不機嫌なコズウェイルを見ながら、アベリアルは、これは本当にまずいかもしれないと感じ始めていた。突如として行方がわからなくなってしまった黄昏人のゼフィオンという男を、コズウェイルはずいぶんと可愛がっているのだ。
「あの黒狼の青年がいなくなったのも……やはりあの子供のせいなの?」
おそるおそる訊ねた。あの子供――サニト・ベイという名の人間の子供である。たった十五かそこらで、契約を結ぶためにコズウェイルを呼びだす程の知識を持った少年だ。しかも、あろうことか土壇場になってコズウェイルを欺き、裏切った。そして、現在大陸中を逃げ回っている。“鬼ごっこ”と称して楽しみながら。
(たいした子供だわ……)
人間を家畜と呼んでいるアベリアルも、認めざるを得なかった。稀に見る悪魔の資質を備えた少年といえよう。だからこそコズウェイルは契約に応じたのだろうし、自分も彼を出し抜いて魂を貰う契約を取り付けようと、少年に魔力を貸し与えたのだ。結果として、その目論見は見事に外れてしまったのだが。
「あの子供のせいだと言いたいところだが……。どうも違うような気がする」
コズウェイルの声に、アベリアルは現実に引き戻される。自分が問いかけておきながら物思いに囚われていたのかと、思わず苦笑した。
「サニト・ベイの気配があることは確かだ。しかし、ペンドラゴンが木々の記憶を見たところ、ゼフィオンは庇っていた女によって河へと落とされたらしい。その女もろともに」
「その女がサニト・ベイに操られていたとか?」
「違うな」
コズウェイルは、あっさりと否定した。
「サニト・ベイの眼中にあるのは、私とアスレシアだ。ゼフィオンは、やつにとって単にアスレシアの同行者という存在に過ぎぬ。わざわざ狙う理由がない。それに……」
コズウェイルは、丁寧に後ろに撫でつけた銀髪を荒っぽくかきむしると、
「一切ゼフィオンの気が感じられなくなったというのが、どうにも解せぬ。いくら人間でもそこまではできぬはずだ。もしも、サニト・ベイ一人の力でこんな事をやってのけたとしたら、あいつは……本当に化け物だぞ」
「たしかにね」
完全にお手上げだわ、とアベリアルは内心つぶやいた。あの物静かな好青年は、諦めるしかないだろう。その気になれば黄昏人などいくらでも作る事ができるのだ。――あのアスレシアという女のように。
アベリアルは慰めるつもりで、コズウェイルに言った。
「まあ、本当に死んだのかもしれないし……。黄昏人は、私たちほど強くはないでしょう。寿命だって人間とそれほど変わらないしね」
「不吉な事を言うな。死神がそれを言っては、洒落にならん」
「でも事実じゃない。また新しい黄昏人を手に入れれば済む話よ」
「………」
コズウェイルは、腹の底から深いため息を吐いた。その沈痛な面持ちから、相当大きな痛手を受けているのが分かる。
「アベリアル。とりあえず、これだけは言っておく」
「なに?」
「こうなった原因の一端は、明らかにお前にある。これからは、奴を捕らえるために私に協力しろ」
「……分かったわ」
「アスレシア一人では、少々心許ない。剣の腕は立つが、魔力に対してはまったくの素人だからな。……時折でいい、あの黒猫の娘を人間界へ遣るようにしてくれ」
(この前までは、連れ戻せと言っていたくせに)
だが、そんな事を言おうものなら、この神経質な伯爵殿は、怒り狂って何をしでかすか分からない。いかに他人を怒らせるのが好きな彼女であっても、今はやめておこうと素直に思った。何しろ、ここは彼女の屋敷なのだ。大切な調度品の数々を傷つけるわけにはいかないのである。
コズウェイルが立ち上がった。これ以上ここにいても、何の進展も得られぬと判断したらしい。アベリアルは、珍しく彼を玄関まで送った。
外に出たところで、コズウェイルはふと足を止めた。力なく彼女のほうを振り返る。
「見苦しいところを見せてしまったな。すまない」
「気にしてないわ」
アベリアルは、肩をそびやかして答えた。この男に謝られるなど、何十年ぶりだろう。
「気が動転してしまっているのだ。……あいつが行方不明になるなど、想像もしなかったからな」
「あなたが家臣を大切にしているのは、よく分かったわよ」
「………」
コズウェイルは、視線を上げてアベリアルを見つめた。その目がなぜか物言いたげなことに、アベリアルは気づく。
「どうしたの?」
「いや……」
コズウェイルは小さく苦笑いをすると、背を向けた。そして。
「家臣……か」
聞こえぬほどのつぶやきを残すと、大鷲の姿となって飛び去った。
*****
後に残されたアベリアルは、何とも落ち着かぬ感情を抱きながら、自室へと戻った。
(ゼフィオンは特別だ、とでも言いたそうだったわね)
手つかずのまま残されたコズウェイルの酒杯を取ると、一息に飲み干した。
あれほどまでにコズウェイルを動揺させるゼフィオンとは、何者なのだろう。アベリアルも何度か会った事はあるが、特別目を引く存在ではなかったように思う。たしかに射手として腕前は一流だし、頭の回転も早い男だとは思った。穏やかで端正な顔立ちも好感が持てるものだった。しかし、そんなものは、コズウェイルにとって問題ではないだろう。そうすると、考えられるのは……。
「まさか」
アベリアルは、眉をひそめた。
たしか、あの男は生まれもっての黄昏人だと言っていた。魔族と人間の混血(ハーフ)だと。
「まさか……ね」
もう一度同じ言葉を繰り返し、アベリアルは頭に浮かんだ考えを追い払う。
ありえない。下級魔族ならばともかく、冥界の貴族と人間が交わり、そのうえ子を成すなど、あってはならぬ事だ。だが、考えれば考えるほど、それが確信へと変わっていくのを彼女は感じた。
大きく息をつく。これ以上、その問題に関わるべきではない。アベリアルは、問題を切り替える事にした。
「元はといえば、私があの子供に力を貸したからなのよね。認めたくはないのだけれど」
誰にともなく、言い訳めいた口調で言った。
「ゼフィオンを見つけるのは無理だけど、せめてアスレシアにだけでも協力してやることにするわ」
そして、口の中で呪文をつぶやく。ほどなくして黒猫が溶け出すように姿を現した。アベリアルの前に出ると、若い女性の姿となる。
「お呼びですか。アベリアル様」
「お前に命令があるの。ネイヴァ」
アベリアルが手で小さな印を組むと、空中に一振りの剣が現れた。それをネイヴァに指し示す。
「この剣を、あのアスレシアという女に渡してきて頂戴」
「これを? ――魔力の剣ではありませんか」
ネイヴァは少し驚いた表情になったが、主の真剣な顔つきを見て、それ以上は口を開かなかった。
「その剣なら、あの娘でも少しはサニト・ベイと戦えるはずよ。いい? くれぐれも悪戯はしないようにね」
「かしこまりました」
幾分不満そうに、ネイヴァは肯いた。
(剣の腕は相当だというし、後は何とか自分一人で解決なさいな)
アベリアルは、脳裏に描いた女剣士の姿に話しかけた。
2014.06.18(Wed):黄昏人
第三章 一話
轟々と音を立てる渓流。
その傍らで、小さな焚き火を起こす二人の旅人の姿があった。
一人は、黒みを帯びた褐色の長い髪と青灰色の瞳の女。もう一人は、漆黒の髪と瞳を持った長身の男。言うまでもなく、女剣士アスレシアと黒狼の射手ゼフィオンである。
聖都カスラムを後にした二人は、今進路を南東にとる。
目指すのは水都ジャルブ。聖都を出た彼女たちは、その後すぐに冥府の伯爵コズウェイルから連絡を受け、目的の少年の気配がジャルブの近郊にある事を知ったのだが……。
「近郊というのは、どういう事だ」
焚き火を荒っぽくかき回して、アスレシアは言った。火の粉が怒ったように舞い上がる。
「どういう……と言われても困る。言葉のとおりジャルブ近辺に奴はいる、ということだろう」
「街の中じゃないのか」
「そうだろうな。……俺に聞かれても、これ以上は答えようがない」
ゼフィオンも困っているのがよく分かり、アスレシアは、それ以上追求するのをやめた。
冥府の貴族たちは死神と呼ばれ、大いなる魔力を持つ。人間の所在を知るのも易々とやってのける。だが、その人間というのが問題だった。彼らがはっきりと知ることができるのは、死が近づいた人間、もしくは死んだ人間なのだ。健康な人間の所在となると、途端にその力は弱くなる。時に健康な人間の元を訪れ、契約を取り交わすこともあるが、それとて人間が描いた魔法陣と儀式によって呼ばれるからこそ、正確に位置をつかむ事ができるのである。
(結局は、私たちが地道に追っていかねばならないというわけか。まったく、死神などと大げさな名乗りをする割には……)
コズウェイルを主とするゼフィオンの手前、露骨に非難はできず、心の中で文句を言う。本当のところを言えば、アスレシア自身もコズウェイルの手下(てか)というべき存在であるのだが、彼女自身はそれを認めていない。
「近郊といっても広いからな。少しずつ探すか……。明日にでも、もう一度コズウェイル様に訊いてみよう。もう少し場所が絞れているかもしれぬ」
何とも頼りないことだな、とアスレシアはもう一度心の中で文句を言うと、小さく肯いてマントに身を包んだ。もう眠るとの意思表示だ。ゼフィオンはすぐに彼女の意思を汲み取り、己もマントをかき寄せた。
赤い炎が二人の顔を照らす。アスレシアは、静かに目を閉じた。
どれくらい眠ったのか。
アスレシアは目を開けた。
周囲を見回す。――まだ、夜は明けていない。それほど時間は経っていないようだった。焚き火を挟んで向かい側にいたゼフィオンが、音もなく立ち上がると、長弓に手を伸ばした。
激流の響きが周囲の物音をかき消す。だが、只ならぬ気配が近づいてくるのは明らかだった。アスレシアも剣を抜く。
「上か!」
上流の岩場に影が走った。ゼフィオンが素早く矢をつがえ、弦を引き絞る。
岩の合間を這うように、影が二つ下りてきた。アスレシアとゼフィオンは、眼光鋭くその動きを見極めようとする。
「……女だな」
ゼフィオンがつぶやくと弓を下ろした。その行動にアスレシアは眉をひそめた。
「女だからといって油断をするな。私のような女かもしれないぞ」
「女だから弓を下ろしたのではない」
ゼフィオンは弓を傍らに置き、腰の剣を抜いた。相手が何者かも分からぬうちに矢を放つわけには行かない。接近戦の構えである。
「追われている」
「なに」
アスレシアは、再び目を転じた。二つの影は、もつれ合うようにして岩場を下りてくる。その後方から、さらに複数の影がやってくるのが見えた。
「助けて!!」
女の悲鳴が、水音の中切れ切れに聞こえた。岩を下りきった影は、真っ直ぐに焚き火を目指して駆けてくる。どうやら、遠くからこの焚き火を目標にしていたようだ。
二人とも若い女だった。焚き火の元まで来ると、それぞれアスレシアとゼフォンに抱きついてきた。
「あいつらに追われているの! 助けて!!」
アスレシアの身体に両腕を巻きつけ、一人が叫んだ。黄白色の肌に黒い髪。その顔立ちから見て、東方の生まれであるらしい。一方、ゼフィオンの後ろにいる方はというと、この辺りでもよく見られる、ごく平凡な白い肌と栗色の髪をした華奢な女だった。
二人は、女の指差す先に目をやった。追手たちも迷うことなくこちらに歩いてくる。程なく、その姿が火の明かりに映し出された。
「……なんだ。貴様ら」
ゼフィオンが戸惑いながら言った。その反応も無理はない。恐らく、それは、彼が初めて目にするものなのだ。――白色の貫頭衣と胸には奇妙な蛇の紋章。そして、顔には覆面。各々、剣や短弓を手にしている。
見るからに怪しい姿である。だが、アスレシアはそのような姿を見たことがあった。まったく同じというわけではないが、失われし故国ガルバラインに騎士として仕えていた頃、彼女はこういう姿の者たちを見、そして斬ったことがある。
(邪教崇拝か……。厄介だな)
漂ってくる香のような匂いに眉をしかめた。
追手たちは、焚き火の手前でピタリと立ち止まる。中から一人の小柄な男が前に進み出てきた。
「その女を渡してもらおう。大切な生贄だ」
女たちは怯え、二人の背後で身を縮める。背中に彼女たちの恐怖の震えが伝わってきた。
「あいにく、嫌がり怯えている者を素直に渡すほど、悪人にはなれない」
「ふ……。神を冒涜する痴れ者め」
アスレシアの返答を十分予期していたのだろう。小柄な男は、さして感情を爆発させる風でもなく淡々と言った。
「仕方あるまい。力ずくで渡してもらう」
男が手を振ると、狂信者たちは無言のまま一斉に斬りかかってきた。アスレシアとゼフィオンは、女たちを背に庇いつつ剣を振るう。
またたく間に数人を切り伏せる。まったく剣術の基礎もできていない烏合の衆ばかりであったので、あっさりと片がつくと思われた。小柄な男は、次々と倒れて行く部下を見て焦りを感じたようだ。手にしていた杖を激しく打ち鳴らし、叫んだ。
「ええい! 何をしている!! デル=タルス様がお怒りになるぞ!!」
それは、部下たちを鼓舞しようとして出た言葉だったのだろう。だが、それに鋭い反応を見せたのは、狂信者たちではなく――。
「なっ……!」
アスレシアは凍りついた。
デル=タルスという奇妙な名を耳にすると同時に、思い出したくもない顔が彼女の頭の中で嗤ったのだ。それは、カスラムの仕事案内所の時と、まったく同じ感覚だった。
思わず動きが止まり、意識が周囲の敵から逸れた。ほんのわずかの時間とはいえ、完全に無防備になる。ハッと我に返った途端。
背に焼けるような痛みが走った。
振り返った彼女は、矢が己の背に突き立っているのを認めた。抜こうと腕を回したが、立て続けに二本の矢が食い込む。
「う……」
耐え切れず苦痛の呻きを上げて、アスレシアは膝をついた。背後に座り込んでいた女が悲鳴を上げて彼女にしがみつくと、大丈夫かと問うてくる。
「大……丈夫だ……。それよりも、ゼフィオンの元へ……」
痛みを堪えて声を振り絞ると、彼の状況を見ようと顔を上げる。
ゼフィオンは、激流の淵で、女を庇いつつ複数の狂信者を相手に懸命に剣を振るっていた。アスレシアは、何とか彼の元へ女を行かせようと口を開きかけた。
だが、その瞬間である。
信じがたいことが起きた。
不意に、ゼフィオンの後ろにいた女が動くのが見えた。女の手が彼のマントに伸ばされる。そして、あろうことか後方に力一杯引っ張ったのだ。
あまりに突然の出来事に、アスレシアは何が起こったのか理解できなかった。痛みでかすむ視界の中で、ゼフィオンは大きくバランスを崩し……。
「ゼフィオン!!」
アスレシアの叫びも虚しく、ゼフィオンの姿は彼女の視界からふつりと消えた。ややあって、大きな水音が響く。
「馬鹿め! 夜にこの流れに落ちては助かるまい!」
呆然とするアスレシアの横で、小柄な男が高らかに笑った。
「残念だったな、女。連れ合いは、お前を残していってしまったぞ」
アスレシアは、肩で大きく息をつきながら男を睨みつけた。背後で槍が交差してガッチリと彼女を地面に張りつけた。
「勇ましく美しい女よ。お前は、生贄に相応しい。……ちょうど一人いなくなったことだ。お前をデル=タルス様に捧げるとしよう」
小柄な男は、陶酔した様子で言った。またもサニト・ベイの顔と嗤いが頭を支配して、アスレシアの背筋が冷たくなる。それは、先程よりも明らかに鮮明で強いものだった。
(デル=タルス……)
その邪神の裏側にサニト・ベイの影がある。アスレシアは確信した。
「連れて行け」
身体を縄で縛られ、屈強な男に担がれる。黒髪の女も同じように囚われの身となった。
アスレシアは不安と動揺を振り払うように目を閉じた。哀れな黒髪の女の泣き声を残し、白い衣の奇怪な集団は、森を去った。
その傍らで、小さな焚き火を起こす二人の旅人の姿があった。
一人は、黒みを帯びた褐色の長い髪と青灰色の瞳の女。もう一人は、漆黒の髪と瞳を持った長身の男。言うまでもなく、女剣士アスレシアと黒狼の射手ゼフィオンである。
聖都カスラムを後にした二人は、今進路を南東にとる。
目指すのは水都ジャルブ。聖都を出た彼女たちは、その後すぐに冥府の伯爵コズウェイルから連絡を受け、目的の少年の気配がジャルブの近郊にある事を知ったのだが……。
「近郊というのは、どういう事だ」
焚き火を荒っぽくかき回して、アスレシアは言った。火の粉が怒ったように舞い上がる。
「どういう……と言われても困る。言葉のとおりジャルブ近辺に奴はいる、ということだろう」
「街の中じゃないのか」
「そうだろうな。……俺に聞かれても、これ以上は答えようがない」
ゼフィオンも困っているのがよく分かり、アスレシアは、それ以上追求するのをやめた。
冥府の貴族たちは死神と呼ばれ、大いなる魔力を持つ。人間の所在を知るのも易々とやってのける。だが、その人間というのが問題だった。彼らがはっきりと知ることができるのは、死が近づいた人間、もしくは死んだ人間なのだ。健康な人間の所在となると、途端にその力は弱くなる。時に健康な人間の元を訪れ、契約を取り交わすこともあるが、それとて人間が描いた魔法陣と儀式によって呼ばれるからこそ、正確に位置をつかむ事ができるのである。
(結局は、私たちが地道に追っていかねばならないというわけか。まったく、死神などと大げさな名乗りをする割には……)
コズウェイルを主とするゼフィオンの手前、露骨に非難はできず、心の中で文句を言う。本当のところを言えば、アスレシア自身もコズウェイルの手下(てか)というべき存在であるのだが、彼女自身はそれを認めていない。
「近郊といっても広いからな。少しずつ探すか……。明日にでも、もう一度コズウェイル様に訊いてみよう。もう少し場所が絞れているかもしれぬ」
何とも頼りないことだな、とアスレシアはもう一度心の中で文句を言うと、小さく肯いてマントに身を包んだ。もう眠るとの意思表示だ。ゼフィオンはすぐに彼女の意思を汲み取り、己もマントをかき寄せた。
赤い炎が二人の顔を照らす。アスレシアは、静かに目を閉じた。
どれくらい眠ったのか。
アスレシアは目を開けた。
周囲を見回す。――まだ、夜は明けていない。それほど時間は経っていないようだった。焚き火を挟んで向かい側にいたゼフィオンが、音もなく立ち上がると、長弓に手を伸ばした。
激流の響きが周囲の物音をかき消す。だが、只ならぬ気配が近づいてくるのは明らかだった。アスレシアも剣を抜く。
「上か!」
上流の岩場に影が走った。ゼフィオンが素早く矢をつがえ、弦を引き絞る。
岩の合間を這うように、影が二つ下りてきた。アスレシアとゼフィオンは、眼光鋭くその動きを見極めようとする。
「……女だな」
ゼフィオンがつぶやくと弓を下ろした。その行動にアスレシアは眉をひそめた。
「女だからといって油断をするな。私のような女かもしれないぞ」
「女だから弓を下ろしたのではない」
ゼフィオンは弓を傍らに置き、腰の剣を抜いた。相手が何者かも分からぬうちに矢を放つわけには行かない。接近戦の構えである。
「追われている」
「なに」
アスレシアは、再び目を転じた。二つの影は、もつれ合うようにして岩場を下りてくる。その後方から、さらに複数の影がやってくるのが見えた。
「助けて!!」
女の悲鳴が、水音の中切れ切れに聞こえた。岩を下りきった影は、真っ直ぐに焚き火を目指して駆けてくる。どうやら、遠くからこの焚き火を目標にしていたようだ。
二人とも若い女だった。焚き火の元まで来ると、それぞれアスレシアとゼフォンに抱きついてきた。
「あいつらに追われているの! 助けて!!」
アスレシアの身体に両腕を巻きつけ、一人が叫んだ。黄白色の肌に黒い髪。その顔立ちから見て、東方の生まれであるらしい。一方、ゼフィオンの後ろにいる方はというと、この辺りでもよく見られる、ごく平凡な白い肌と栗色の髪をした華奢な女だった。
二人は、女の指差す先に目をやった。追手たちも迷うことなくこちらに歩いてくる。程なく、その姿が火の明かりに映し出された。
「……なんだ。貴様ら」
ゼフィオンが戸惑いながら言った。その反応も無理はない。恐らく、それは、彼が初めて目にするものなのだ。――白色の貫頭衣と胸には奇妙な蛇の紋章。そして、顔には覆面。各々、剣や短弓を手にしている。
見るからに怪しい姿である。だが、アスレシアはそのような姿を見たことがあった。まったく同じというわけではないが、失われし故国ガルバラインに騎士として仕えていた頃、彼女はこういう姿の者たちを見、そして斬ったことがある。
(邪教崇拝か……。厄介だな)
漂ってくる香のような匂いに眉をしかめた。
追手たちは、焚き火の手前でピタリと立ち止まる。中から一人の小柄な男が前に進み出てきた。
「その女を渡してもらおう。大切な生贄だ」
女たちは怯え、二人の背後で身を縮める。背中に彼女たちの恐怖の震えが伝わってきた。
「あいにく、嫌がり怯えている者を素直に渡すほど、悪人にはなれない」
「ふ……。神を冒涜する痴れ者め」
アスレシアの返答を十分予期していたのだろう。小柄な男は、さして感情を爆発させる風でもなく淡々と言った。
「仕方あるまい。力ずくで渡してもらう」
男が手を振ると、狂信者たちは無言のまま一斉に斬りかかってきた。アスレシアとゼフィオンは、女たちを背に庇いつつ剣を振るう。
またたく間に数人を切り伏せる。まったく剣術の基礎もできていない烏合の衆ばかりであったので、あっさりと片がつくと思われた。小柄な男は、次々と倒れて行く部下を見て焦りを感じたようだ。手にしていた杖を激しく打ち鳴らし、叫んだ。
「ええい! 何をしている!! デル=タルス様がお怒りになるぞ!!」
それは、部下たちを鼓舞しようとして出た言葉だったのだろう。だが、それに鋭い反応を見せたのは、狂信者たちではなく――。
「なっ……!」
アスレシアは凍りついた。
デル=タルスという奇妙な名を耳にすると同時に、思い出したくもない顔が彼女の頭の中で嗤ったのだ。それは、カスラムの仕事案内所の時と、まったく同じ感覚だった。
思わず動きが止まり、意識が周囲の敵から逸れた。ほんのわずかの時間とはいえ、完全に無防備になる。ハッと我に返った途端。
背に焼けるような痛みが走った。
振り返った彼女は、矢が己の背に突き立っているのを認めた。抜こうと腕を回したが、立て続けに二本の矢が食い込む。
「う……」
耐え切れず苦痛の呻きを上げて、アスレシアは膝をついた。背後に座り込んでいた女が悲鳴を上げて彼女にしがみつくと、大丈夫かと問うてくる。
「大……丈夫だ……。それよりも、ゼフィオンの元へ……」
痛みを堪えて声を振り絞ると、彼の状況を見ようと顔を上げる。
ゼフィオンは、激流の淵で、女を庇いつつ複数の狂信者を相手に懸命に剣を振るっていた。アスレシアは、何とか彼の元へ女を行かせようと口を開きかけた。
だが、その瞬間である。
信じがたいことが起きた。
不意に、ゼフィオンの後ろにいた女が動くのが見えた。女の手が彼のマントに伸ばされる。そして、あろうことか後方に力一杯引っ張ったのだ。
あまりに突然の出来事に、アスレシアは何が起こったのか理解できなかった。痛みでかすむ視界の中で、ゼフィオンは大きくバランスを崩し……。
「ゼフィオン!!」
アスレシアの叫びも虚しく、ゼフィオンの姿は彼女の視界からふつりと消えた。ややあって、大きな水音が響く。
「馬鹿め! 夜にこの流れに落ちては助かるまい!」
呆然とするアスレシアの横で、小柄な男が高らかに笑った。
「残念だったな、女。連れ合いは、お前を残していってしまったぞ」
アスレシアは、肩で大きく息をつきながら男を睨みつけた。背後で槍が交差してガッチリと彼女を地面に張りつけた。
「勇ましく美しい女よ。お前は、生贄に相応しい。……ちょうど一人いなくなったことだ。お前をデル=タルス様に捧げるとしよう」
小柄な男は、陶酔した様子で言った。またもサニト・ベイの顔と嗤いが頭を支配して、アスレシアの背筋が冷たくなる。それは、先程よりも明らかに鮮明で強いものだった。
(デル=タルス……)
その邪神の裏側にサニト・ベイの影がある。アスレシアは確信した。
「連れて行け」
身体を縄で縛られ、屈強な男に担がれる。黒髪の女も同じように囚われの身となった。
アスレシアは不安と動揺を振り払うように目を閉じた。哀れな黒髪の女の泣き声を残し、白い衣の奇怪な集団は、森を去った。
2014.06.07(Sat):小説
ブログ改装いたしました。
まずは「黄昏人」第2章までをUPしてみました。
カテゴリに「黄昏人」がありますので、そちらで表示して読んでいただけたら良いかと思います。
設定をどうにも使いこなす事ができず、読みづらいところも多々あるかと思いますが、何卒ご容赦ください。
「こうした方が良い!」などのご意見があれば、ばんばんお寄せくださいませ。
まずは「黄昏人」第2章までをUPしてみました。
カテゴリに「黄昏人」がありますので、そちらで表示して読んでいただけたら良いかと思います。
設定をどうにも使いこなす事ができず、読みづらいところも多々あるかと思いますが、何卒ご容赦ください。
「こうした方が良い!」などのご意見があれば、ばんばんお寄せくださいませ。
2014.06.06(Fri):黄昏人
第二章 四話
漆黒のマントと銀色の髪が、アスレシアの前に立ちはだかった。
「コズウェイル……」
「グォゥ」
狼となったゼフィオンが、戸惑ったように唸る。その姿にちらりとコズウェイルは目をやると、
「魔族の負の感情をここまで引き出すとは、たいした力だな。サニト・ベイ」
「これはこれは」
サニト・ベイは、おどけたように一礼してみせた。
「誰かと思えば、冥界の死神コズウェイル殿ではありませんか。本日は、いかなるご用件で?」
挑発的なその態度にコズウェイルは顔をしかめ、アスレシアに言った。
「こいつは身代わり人形だ。魔石は一時的に離れた空間をつなぐ。やつはそこからこいつを投げ入れたのだ。これを斬ったところで、サニト・ベイ本人は全く傷つかぬ」
「……卑怯な」
「あいにく、お前たちとは、少しばかりここが違うものでね」
人差し指で、自分のこめかみをつつく。なぜ、こうもひとつひとつの動作で人を挑発するのか。アスレシアは歯噛みした。
「魔石や身代わり人形を作る力など、どのようにして手に入れた。アベリアルは、ごく基本的な力しか与えなかったようだが」
コズウェイルが問う。サニト・ベイは、待ってましたとばかりに胸を張って、得意気な表情になった。
「僕の中で力を育てたのさ。実際、魔力なんて精神一つでどうにでもなるんだから」
「……なるほど」
コズウェイルの顔が険しくなる。
「確かに、お前は悪魔としての資質を十二分に備えているようだ。アベリアルが私の邪魔をしてまで欲しがるのも無理はない」
「誉めていただいて光栄だよ。でも、僕の魂は誰にも渡すつもりはない。たとえ何十年先でもね」
「アベリアルをも欺くつもりで、力を借りたというわけか」
「どうだろうね。その辺りは想像にお任せしよう」
ふわり、とサニト・ベイは空中に浮いた。アスレシアたちを見下ろして、嗤う。
「さあ、挨拶はこの辺で終わりにしよう。また、“鬼ごっこ”の続きを始めようじゃないか」
「なんだと……」
サニト・ベイはくすくすと喉の奥で嗤う。なまじ整った顔をしているだけに、そうした笑いを浮かべると、一層他人を見下した表情になる。
「僕は楽しくて仕方がないんだ。大陸中を舞台にした鬼ごっこなんて、わくわくするだろう?」
「ふざけた事を!」
アスレシアは、再び剣を持つ手に力を込めた。無駄だとは分かっていても、一度は斬りつけなければ治まらない。
「僕の居場所は、死神殿がある程度突き止めてくれるだろう。早く僕を捕らえてみるがいい。ま、僕もそう簡単に捕まるつもりはないからね。いろいろと手は打たせてもらうけれど」
「おのれぇッ!!」
アスレシアの渾身の一撃がサニト・ベイを襲った。軽い手応えと共に、木製の人形が真っ二つに割られて地面に落ちた。勢い余った剣は、そのまま隣にあった彫像を砕く。
「ははは……。予想通りの反応を見せてくれてありがとう、アスレシア。じゃあ、僕はこの辺で失礼するよ。今日は君たちの顔を見るだけのつもりだったからね。それに、伯爵殿もあまり長い時間こちらの世界にいると、まずいだろうから」
サニト・ベイの姿はもう見えなくなり、声だけが廊下に響いた。
ぐにゃりと空気が歪み、再び静寂が訪れる。もはや、肖像画の瞳は、光ってなどいなかった。何事もなかったように、陰気な静寂があるだけだ。
「……申し訳ございません」
サニト・ベイが消えたとたん、ゼフィオンは姿を戻し、荒い息をついた。コズウェイルは、少し笑ってみせただけだった。
「奴は、今どこにいるんだ?伯爵」
アスレシアは、足元に散った彫像の破片を荒々しく踏みつけ、問うた。
「さあな。今はまだ分からぬ」
コズウェイルは、そっけなく言い放つ。アスレシアは詰め寄った。
「なぜ分からない。仮にも高位の魔族だろう。一人の人間の居場所など、すぐにでも分かるんじゃないのか」
「サニト・ベイは、魔力を使って予想以上に強力な結界を張っている。健康な人間である上に結界を張られては、そう簡単に居場所を突き止めることができぬのだ。それと、もう一つ……」
コズウェイルは眉をしかめ、自分の手を見つめた。
「純血の魔族は、人間界に長時間いられない。どんどん魔力が失われていくのだ。だから、お前たち黄昏人に頼るのだよ。お前たちは人間の血を持っているから、魔力を失う危険はない」
「………」
「とにかく」
大きくため息をつくと、コズウェイルはマントを撥ね上げた。
「奴の現在の居場所を知るには、一度戻らねばならぬ。今は非常に強い気を感じたので急いで来てみたが、案の定身代わりだったしな……。分かり次第ペンドラゴンを遣るから、それまでにここの主の始末をつけておくがいい」
その言葉に、アスレシアはようやくジルベールの事を思い出した。
「あの男もなかなかの悪人だな。魂が落ちてきた折には、名乗りを上げてみる事にしよう」
コズウェイルは冗談めかして言うと、ふいと姿を消した。
残されたアスレシアとゼフィオンは、顔を見合わせる。そして、同時に踵を返すとジルベールの部屋に駆け込んだ。
「ジルベール殿」
ノックもせずに扉を開ける。そこには、あのおぞましい化物の姿はなく、代わりに一人の太った中年男が立っていた。侍女に手伝わせて衣服を身につけている最中のその男は、どことなく先のあの化物の面影を残している。
「元に戻ったのか」
ゼフィオンの言葉に、ジルベールは渋い顔でうなずいた。
「いつ戻った?」
「つい先程だ。派手な音が廊下から聞こえて、その途端、嘘のように元に戻った」
恐らく、身代わり人形をアスレシアが斬ったときだ。一瞬だけサニト・ベイの魔力が緩み、その弾みで解けたのだろう。
「そうか……。まあ、元に戻ってよかった」
ゼフィオンがにやりと笑った。その顔をみて、アスレシアも思い出す。そうだ。これで一応依頼は果たしたのだから、報酬を貰えるはずだ。
だが、ジルベールは渋面を崩さぬまま二人を上目遣いで睨むと、二人の心を見透かしたように、きっぱりと言った。
「悪いが、報酬は出せんぞ」
「なんだと!?」
ゼフィオンは身を乗り出して叫ぶ。
「あれがお前たちの力であったという証拠がない。証拠がないのに払えるものか」
「馬鹿な!あれは、どう考えても俺たちの力だ!たった今、そこの廊下で……」
「儂は見ておらんからな」
「こっ……こいつ……」
ゼフィオンは怒りで拳を振るわせる。アスレシアは、声を低めて囁いた。
「この男、初めから報酬を払う気などなかったのだろう」
ジルベールの狡猾そうな顔を眺める。商売で成功して私兵まで持つようになるには、これくらいの悪どい性格でなければ無理なのかもしれない。仕事案内所で、ジルベールに関わるのは止めておけと言った男の言葉を、今更ながら思い出した。
「報酬は払わん。いや、それよりも廊下の彫像を壊したろう。弁償してもらわなければいかんな」
アスレシアは呆れて言葉も出なかった。だが、このままおとなしく引き下がるつもりもない。何しろ、路銀は底をつきかけているのだ。
ゼフィオンと目を見交わす。考えている事は同じだ。
ジルベールが、机の上にあった鈴を振った。部屋の奥にあった小さな扉が開いて、十数人の私兵たちが飛び込んでくる。ずっと潜んでいたようである。用意のいいことだ、とアスレシアは内心嘲笑った。
「こいつらを縛って牢に入れろ」
ジルベールの命令に、私兵たちが一斉に襲いかかって来た。
アスレシアとゼフィオンは、同時にため息をつくと、素手で私兵たちを迎え撃った。馬鹿馬鹿しくて、剣を抜く気にもなれなかったのだ。
次々と兵士を殴り飛ばし、蹴り上げる。先のサニト・ベイとのやり取りで、二人ともおおいに怒りが溜まっていた。その怒りの矛先を容赦なく私兵たちに叩きつけていく。
ものの数分も経たぬうち、部屋には静寂が戻った。
二人は、顔面に二つの拳を受けて気を失ったジルベールの巨体に、並んで腰を下ろしていた。
周囲には同じように兵士たちがぐったりと倒れている。
「……そういえば」
座り心地が悪いな、と内心思いながら、アスレシアは言った。
「お前はずっと人間界にいるが、純血の魔族ではなかったのか」
「ああ、お前には言ってなかったな」
ゼフィオンは笑う。
「俺も黄昏人だ。お前とは、少々毛色が違うがな。……俺の母親は、人間なんだ」
「混血(ハーフ)か」
ゼフィオンは小さく肯く。そして、ポツリポツリと区切るように話した。
「……黄昏人が幸か不幸か、それは分からない。生まれたときから黄昏人だった俺でも、答えは出ない。お前が黄昏人となり、サニト・ベイを追うことになったのが幸か不幸か。それは、お前の行動と心一つで決まっていくものだ、と思う」
(そうか。それで……)
今できる事をしたほうが良い。そう言い切ったときのゼフィオンの表情を思い返した。
「――何がおかしい?」
言われて、アスレシアは自分が微笑んでいる事に気づいた。
「いや、別に。少し……嬉しいだけだ。こんな近くに黄昏人がいるとは思わなかったから」
彼女の言葉に、ゼフィオンも微笑んで肩をすくめる。
「とりあえず、今できることをするか」
「そうだな」
二人は視線を落とした。
まずは、当分困らぬだけの報酬を手に入れることにしよう。
その後のことは、それからだ。
「コズウェイル……」
「グォゥ」
狼となったゼフィオンが、戸惑ったように唸る。その姿にちらりとコズウェイルは目をやると、
「魔族の負の感情をここまで引き出すとは、たいした力だな。サニト・ベイ」
「これはこれは」
サニト・ベイは、おどけたように一礼してみせた。
「誰かと思えば、冥界の死神コズウェイル殿ではありませんか。本日は、いかなるご用件で?」
挑発的なその態度にコズウェイルは顔をしかめ、アスレシアに言った。
「こいつは身代わり人形だ。魔石は一時的に離れた空間をつなぐ。やつはそこからこいつを投げ入れたのだ。これを斬ったところで、サニト・ベイ本人は全く傷つかぬ」
「……卑怯な」
「あいにく、お前たちとは、少しばかりここが違うものでね」
人差し指で、自分のこめかみをつつく。なぜ、こうもひとつひとつの動作で人を挑発するのか。アスレシアは歯噛みした。
「魔石や身代わり人形を作る力など、どのようにして手に入れた。アベリアルは、ごく基本的な力しか与えなかったようだが」
コズウェイルが問う。サニト・ベイは、待ってましたとばかりに胸を張って、得意気な表情になった。
「僕の中で力を育てたのさ。実際、魔力なんて精神一つでどうにでもなるんだから」
「……なるほど」
コズウェイルの顔が険しくなる。
「確かに、お前は悪魔としての資質を十二分に備えているようだ。アベリアルが私の邪魔をしてまで欲しがるのも無理はない」
「誉めていただいて光栄だよ。でも、僕の魂は誰にも渡すつもりはない。たとえ何十年先でもね」
「アベリアルをも欺くつもりで、力を借りたというわけか」
「どうだろうね。その辺りは想像にお任せしよう」
ふわり、とサニト・ベイは空中に浮いた。アスレシアたちを見下ろして、嗤う。
「さあ、挨拶はこの辺で終わりにしよう。また、“鬼ごっこ”の続きを始めようじゃないか」
「なんだと……」
サニト・ベイはくすくすと喉の奥で嗤う。なまじ整った顔をしているだけに、そうした笑いを浮かべると、一層他人を見下した表情になる。
「僕は楽しくて仕方がないんだ。大陸中を舞台にした鬼ごっこなんて、わくわくするだろう?」
「ふざけた事を!」
アスレシアは、再び剣を持つ手に力を込めた。無駄だとは分かっていても、一度は斬りつけなければ治まらない。
「僕の居場所は、死神殿がある程度突き止めてくれるだろう。早く僕を捕らえてみるがいい。ま、僕もそう簡単に捕まるつもりはないからね。いろいろと手は打たせてもらうけれど」
「おのれぇッ!!」
アスレシアの渾身の一撃がサニト・ベイを襲った。軽い手応えと共に、木製の人形が真っ二つに割られて地面に落ちた。勢い余った剣は、そのまま隣にあった彫像を砕く。
「ははは……。予想通りの反応を見せてくれてありがとう、アスレシア。じゃあ、僕はこの辺で失礼するよ。今日は君たちの顔を見るだけのつもりだったからね。それに、伯爵殿もあまり長い時間こちらの世界にいると、まずいだろうから」
サニト・ベイの姿はもう見えなくなり、声だけが廊下に響いた。
ぐにゃりと空気が歪み、再び静寂が訪れる。もはや、肖像画の瞳は、光ってなどいなかった。何事もなかったように、陰気な静寂があるだけだ。
「……申し訳ございません」
サニト・ベイが消えたとたん、ゼフィオンは姿を戻し、荒い息をついた。コズウェイルは、少し笑ってみせただけだった。
「奴は、今どこにいるんだ?伯爵」
アスレシアは、足元に散った彫像の破片を荒々しく踏みつけ、問うた。
「さあな。今はまだ分からぬ」
コズウェイルは、そっけなく言い放つ。アスレシアは詰め寄った。
「なぜ分からない。仮にも高位の魔族だろう。一人の人間の居場所など、すぐにでも分かるんじゃないのか」
「サニト・ベイは、魔力を使って予想以上に強力な結界を張っている。健康な人間である上に結界を張られては、そう簡単に居場所を突き止めることができぬのだ。それと、もう一つ……」
コズウェイルは眉をしかめ、自分の手を見つめた。
「純血の魔族は、人間界に長時間いられない。どんどん魔力が失われていくのだ。だから、お前たち黄昏人に頼るのだよ。お前たちは人間の血を持っているから、魔力を失う危険はない」
「………」
「とにかく」
大きくため息をつくと、コズウェイルはマントを撥ね上げた。
「奴の現在の居場所を知るには、一度戻らねばならぬ。今は非常に強い気を感じたので急いで来てみたが、案の定身代わりだったしな……。分かり次第ペンドラゴンを遣るから、それまでにここの主の始末をつけておくがいい」
その言葉に、アスレシアはようやくジルベールの事を思い出した。
「あの男もなかなかの悪人だな。魂が落ちてきた折には、名乗りを上げてみる事にしよう」
コズウェイルは冗談めかして言うと、ふいと姿を消した。
残されたアスレシアとゼフィオンは、顔を見合わせる。そして、同時に踵を返すとジルベールの部屋に駆け込んだ。
「ジルベール殿」
ノックもせずに扉を開ける。そこには、あのおぞましい化物の姿はなく、代わりに一人の太った中年男が立っていた。侍女に手伝わせて衣服を身につけている最中のその男は、どことなく先のあの化物の面影を残している。
「元に戻ったのか」
ゼフィオンの言葉に、ジルベールは渋い顔でうなずいた。
「いつ戻った?」
「つい先程だ。派手な音が廊下から聞こえて、その途端、嘘のように元に戻った」
恐らく、身代わり人形をアスレシアが斬ったときだ。一瞬だけサニト・ベイの魔力が緩み、その弾みで解けたのだろう。
「そうか……。まあ、元に戻ってよかった」
ゼフィオンがにやりと笑った。その顔をみて、アスレシアも思い出す。そうだ。これで一応依頼は果たしたのだから、報酬を貰えるはずだ。
だが、ジルベールは渋面を崩さぬまま二人を上目遣いで睨むと、二人の心を見透かしたように、きっぱりと言った。
「悪いが、報酬は出せんぞ」
「なんだと!?」
ゼフィオンは身を乗り出して叫ぶ。
「あれがお前たちの力であったという証拠がない。証拠がないのに払えるものか」
「馬鹿な!あれは、どう考えても俺たちの力だ!たった今、そこの廊下で……」
「儂は見ておらんからな」
「こっ……こいつ……」
ゼフィオンは怒りで拳を振るわせる。アスレシアは、声を低めて囁いた。
「この男、初めから報酬を払う気などなかったのだろう」
ジルベールの狡猾そうな顔を眺める。商売で成功して私兵まで持つようになるには、これくらいの悪どい性格でなければ無理なのかもしれない。仕事案内所で、ジルベールに関わるのは止めておけと言った男の言葉を、今更ながら思い出した。
「報酬は払わん。いや、それよりも廊下の彫像を壊したろう。弁償してもらわなければいかんな」
アスレシアは呆れて言葉も出なかった。だが、このままおとなしく引き下がるつもりもない。何しろ、路銀は底をつきかけているのだ。
ゼフィオンと目を見交わす。考えている事は同じだ。
ジルベールが、机の上にあった鈴を振った。部屋の奥にあった小さな扉が開いて、十数人の私兵たちが飛び込んでくる。ずっと潜んでいたようである。用意のいいことだ、とアスレシアは内心嘲笑った。
「こいつらを縛って牢に入れろ」
ジルベールの命令に、私兵たちが一斉に襲いかかって来た。
アスレシアとゼフィオンは、同時にため息をつくと、素手で私兵たちを迎え撃った。馬鹿馬鹿しくて、剣を抜く気にもなれなかったのだ。
次々と兵士を殴り飛ばし、蹴り上げる。先のサニト・ベイとのやり取りで、二人ともおおいに怒りが溜まっていた。その怒りの矛先を容赦なく私兵たちに叩きつけていく。
ものの数分も経たぬうち、部屋には静寂が戻った。
二人は、顔面に二つの拳を受けて気を失ったジルベールの巨体に、並んで腰を下ろしていた。
周囲には同じように兵士たちがぐったりと倒れている。
「……そういえば」
座り心地が悪いな、と内心思いながら、アスレシアは言った。
「お前はずっと人間界にいるが、純血の魔族ではなかったのか」
「ああ、お前には言ってなかったな」
ゼフィオンは笑う。
「俺も黄昏人だ。お前とは、少々毛色が違うがな。……俺の母親は、人間なんだ」
「混血(ハーフ)か」
ゼフィオンは小さく肯く。そして、ポツリポツリと区切るように話した。
「……黄昏人が幸か不幸か、それは分からない。生まれたときから黄昏人だった俺でも、答えは出ない。お前が黄昏人となり、サニト・ベイを追うことになったのが幸か不幸か。それは、お前の行動と心一つで決まっていくものだ、と思う」
(そうか。それで……)
今できる事をしたほうが良い。そう言い切ったときのゼフィオンの表情を思い返した。
「――何がおかしい?」
言われて、アスレシアは自分が微笑んでいる事に気づいた。
「いや、別に。少し……嬉しいだけだ。こんな近くに黄昏人がいるとは思わなかったから」
彼女の言葉に、ゼフィオンも微笑んで肩をすくめる。
「とりあえず、今できることをするか」
「そうだな」
二人は視線を落とした。
まずは、当分困らぬだけの報酬を手に入れることにしよう。
その後のことは、それからだ。
2014.06.06(Fri):黄昏人
第二章 三話
「どこから探す?」
とりあえず宿に戻った二人は、サニト・ベイの行方について相談をすることにした。
聖都カスラムは、かなり大規模な街である。それを隅々まで調べるのは、不可能に等しい。
「もしかしたら、もうこの街から出ているのではないか」
ゼフィオンが、床に広げたカスラム市街の地図を睨み、眉をひそめる。
「ひとつところに留まっているような性格ではあるまい」
だが、アスレシアは小さく首を振った。
「たしかに、奴はずっと腰を据えるような男じゃない。しかし、それ以上に他人の不幸を見ようとする悪癖がある」
「ということは」
アスレシアは肯くと、一点を指差した。
「この街にいると思う。――恐らく、ジルベールの周辺に」
地図上でもひときわ目を引くジルベールの広大な屋敷。
「では、俺たちがジルベールと会っていたときも、奴はいたというのか?」
信じられぬとゼフィオンの表情が語る。アスレシアは少し目を閉じ、ジルベールの屋敷の様子を思い返した。
数え切れぬほどの彫像や絵画、薄暗い廊下。少年が潜む場所は、いくらでもある。
「きっと、どこからか私たちを見ていたはずだ」
アスレシアは言い切った。だが、ゼフィオンは納得いかぬ表情を崩そうとはしない。
「しかし、あの屋敷に人の気配は全くなかったぞ。俺もお前も人間よりは敏感なはずなのに、気づかぬ事があるか」
ほんの一瞬、アスレシアの顔に翳りが走った。しかし、彼女はあえて何も言わなかった。
「もう一度、ジルベールの屋敷に行って調べてみた方がいいだろうな。何しろ、あいつはもう……普通の人間ではないのだから」
アスレシアのつぶやきに、ゼフィオンは長くため息をつくと、大げさに首を振った。
「まったく……厄介な事をしてくれたものだ。冥界の伯爵ともあろう方が」
魔力というものがどれほどまでに大きな力を持つものか、アスレシアには分からない。しかし、今までの常識や予測が全く通用しなくなったというのは、紛れもない事実である。
「皮肉なものだな」
唇を歪め、アスレシアは笑った。
「何がだ」
「私は、あいつのせいで人ではなくなった。だが、そのおかげであいつの後を追える。人でなくなったあいつと……戦うことができる」
「………」
「それが……幸か不幸かはわからないがな」
アスレシアは過去の記憶を探り当てるように、そっと左胸に手を置いた。
黄昏人。
それは、昼と夜の間、すなわち人間と魔族の間に属する者。ゆえに彼らは黄昏人と呼ばれる。相容れぬ二つの種族の血を一つの体内に持つ存在。言い方を変えれば、それはどちらにも属する事ができぬ存在となる。
己が半人半魔となったことが、幸なのか不幸なのか。それは、常に彼女の心に巣食っているものだ。ともすれば呑み込まれそうになる、底の見えぬ闇。
自嘲気味に乾いた笑いを落とし、アスレシアは立ち上がった。ゼフィオンは、何と答えたものか少し迷った後、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「それは、先になれば分かる事だ。今、答えを求めても仕方がない。……とにかく、今できることをした方が良いだろう」
「ああ」
アスレシアは、まず、今の自分に何ができるかと自問してみた。
(簡単な事だ)
ジルベールの屋敷に行き、サニト・ベイの手掛かりを探す事。それしかない。
二人は、剣を手にすると静かに部屋を後にした。
ジルベールの屋敷に足を踏み入れると、門には先程彼らを案内した私兵が立っていた。二人の姿を見ると、ちょっと驚いた顔でどうしたのかと訊ねてくる。
詳しい事情を話しても、この男たちには分かるまい。アスレシアは、もう一度確認したい事があると、ありきたりな返事をして男たちをやり過ごし、屋敷の中へ入った。
薄暗い廊下に立つ。もの言わぬ彫像と絵画の中の人物たちが、睨みつけてくるような錯覚に陥る。
「隠れていたとすれば、この辺りか」
ゼフィオンが手近な彫像の頭を叩いた。何とも安物くさく軽い音に苦笑する。
ひとつひとつ確かめながら、アスレシアとゼフィオンは廊下をゆっくりと歩いていった。
古の賢者、伝説の王、得体の知れぬ魔獣……。アスレシアにとっては、何の興味も沸かぬ代物だ。彼女でさえそうなのだから、冥界の住人であるゼフィオンなど、何をか言わんやである。乱暴に叩いたり、無遠慮に手を触れたりしていた。
「子供一人が隠れるには、もってこいだろうが……」
いまだ納得がいかぬ、とゼフィオンの口調は語っていた。その言い方に、アスレシアはふと思い当たる。どうやら、彼は少なからず自尊心を傷つけられているらしい。いくら魔力を与えられたとはいえ、人間の子供に出し抜かれたと認めるのが嫌なのだ。アスレシアは、悪い事をしたなと内心思いながら言った。
「サニト・ベイを子供扱いすると、痛い目を見る。……奴は、普通の人間などは到底及ばない知識と考えを持っているから」
「まあ、常人でない事は、十分承知しているさ」
なにしろ、コズウェイル様を欺いたのだ、と、ゼフィオンは自分に言い聞かせるようにひとりごちた。
ちょうど、廊下の真ん中辺りに差しかかる。
アスレシアは、何気なく壁の絵画に近づいた。燭台と燭台の間にあるせいなのか、その絵画だけ他のものに比べ灯が届いておらず、暗い印象を受けた。
「……?」
それは、何の変哲もない貴婦人の肖像画だ。技法も色使いも、さして目に留まるものはない。なぜ、これが飾られているのか。アスレシアは首を傾げて絵の前に立つ。そろりと手を伸ばして触れようとした。――刹那。
「触るな!!」
ゼフィオンが大声で叫び、彼女の腕を強く引いた。何事かと問う間もなく、ゼフィオンに抱かれるようにして絵画から引き剥がされる。
「な……」
密着したゼフィオンの身体の奥から、低い唸り声が響いてきた。もう一つの姿になろうとしているのだと悟り、慌てて彼を見上げた。
「……やはり、お前のいったとおりだったな。サニト・ベイはいたぞ」
「ゼフィオン!待て、ここで姿を変えては……」
「分かっている。だが、抑えきれぬ。くそ……。吐き気がする。この気配に身体が勝手に反応してしまいそうだ」
アスレシアは、絵画を見た。そして、思わず息を呑む。
――禍々しい光が、絵の中で微笑を湛える貴婦人の目から発せられていた。それは、血のように赤く、見るものを射すくめるような光。
「何だ……これは」
「魔石だ」
フーッフーッと喉を鳴らしながら、ゼフィオンは答えた。額に脂汗が浮かび、懸命に抗っているのが分かる。
「魔石……」
「恐らく、これを使って奴は俺たちの行動を見ていた……。いや、今も見ている。そうだろう?呪われた王子」
ゼフィオンの呼びかけに、光は一瞬鋭く瞬いた。それから、ぐにゃりと空気が歪む。
「………!!」
虚空の中から白い腕が現れた。つづいて、金色の美しい髪、鳶色の瞳。少女かと見まがうような、整った美しい顔。
「殿下……」
無意識のうちにかつての呼称を口にしてしまった事に気づき、アスレシアは慌てて口を閉ざした。
朱色の形の良い唇がニタリと笑う。ずるり、と生まれ落ちるように身体が現れ、絵画の前に立った。
「思ったとおり、餌を撒いたらすぐに飛びついてきてくれた。――久しぶりだね、アスレシア。あの日以来かな」
少年と青年の間にある若々しい声。アスレシアは、反射的にゼフィオンの身体から飛び離れ、剣を引き抜いた。
「貴様……!」
「ふふふ。すぐに剣を抜くのは、半魔になっても変わらないようだね」
アスレシアの顔が怒りに歪む。
「貴様は、半魔になって性格の悪さに磨きがかかったな」
「失礼だなあ。……僕は半魔なんかじゃない。れっきとした人間さ。お前と一緒にしないでくれ」
ああ言えばこう言う。口の立つのは昔からだ。アスレシアは、会話を打ち切る事にした。これ以上話しても不快感が増していくだけだ。
「とにかく。あの時の恨みは晴らさせてもらう!」
剣を構える。同時に、傍らにいたゼフィオンが鋭い咆哮を上げ、黒狼の姿となった。
二人は、目の前に立つ少年に襲いかからんとした。
その時だった。
「ゼフィオン。アスレシア。無駄だ」
一つの声と共に、黒い影がゆらりと姿を現した。
とりあえず宿に戻った二人は、サニト・ベイの行方について相談をすることにした。
聖都カスラムは、かなり大規模な街である。それを隅々まで調べるのは、不可能に等しい。
「もしかしたら、もうこの街から出ているのではないか」
ゼフィオンが、床に広げたカスラム市街の地図を睨み、眉をひそめる。
「ひとつところに留まっているような性格ではあるまい」
だが、アスレシアは小さく首を振った。
「たしかに、奴はずっと腰を据えるような男じゃない。しかし、それ以上に他人の不幸を見ようとする悪癖がある」
「ということは」
アスレシアは肯くと、一点を指差した。
「この街にいると思う。――恐らく、ジルベールの周辺に」
地図上でもひときわ目を引くジルベールの広大な屋敷。
「では、俺たちがジルベールと会っていたときも、奴はいたというのか?」
信じられぬとゼフィオンの表情が語る。アスレシアは少し目を閉じ、ジルベールの屋敷の様子を思い返した。
数え切れぬほどの彫像や絵画、薄暗い廊下。少年が潜む場所は、いくらでもある。
「きっと、どこからか私たちを見ていたはずだ」
アスレシアは言い切った。だが、ゼフィオンは納得いかぬ表情を崩そうとはしない。
「しかし、あの屋敷に人の気配は全くなかったぞ。俺もお前も人間よりは敏感なはずなのに、気づかぬ事があるか」
ほんの一瞬、アスレシアの顔に翳りが走った。しかし、彼女はあえて何も言わなかった。
「もう一度、ジルベールの屋敷に行って調べてみた方がいいだろうな。何しろ、あいつはもう……普通の人間ではないのだから」
アスレシアのつぶやきに、ゼフィオンは長くため息をつくと、大げさに首を振った。
「まったく……厄介な事をしてくれたものだ。冥界の伯爵ともあろう方が」
魔力というものがどれほどまでに大きな力を持つものか、アスレシアには分からない。しかし、今までの常識や予測が全く通用しなくなったというのは、紛れもない事実である。
「皮肉なものだな」
唇を歪め、アスレシアは笑った。
「何がだ」
「私は、あいつのせいで人ではなくなった。だが、そのおかげであいつの後を追える。人でなくなったあいつと……戦うことができる」
「………」
「それが……幸か不幸かはわからないがな」
アスレシアは過去の記憶を探り当てるように、そっと左胸に手を置いた。
黄昏人。
それは、昼と夜の間、すなわち人間と魔族の間に属する者。ゆえに彼らは黄昏人と呼ばれる。相容れぬ二つの種族の血を一つの体内に持つ存在。言い方を変えれば、それはどちらにも属する事ができぬ存在となる。
己が半人半魔となったことが、幸なのか不幸なのか。それは、常に彼女の心に巣食っているものだ。ともすれば呑み込まれそうになる、底の見えぬ闇。
自嘲気味に乾いた笑いを落とし、アスレシアは立ち上がった。ゼフィオンは、何と答えたものか少し迷った後、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「それは、先になれば分かる事だ。今、答えを求めても仕方がない。……とにかく、今できることをした方が良いだろう」
「ああ」
アスレシアは、まず、今の自分に何ができるかと自問してみた。
(簡単な事だ)
ジルベールの屋敷に行き、サニト・ベイの手掛かりを探す事。それしかない。
二人は、剣を手にすると静かに部屋を後にした。
ジルベールの屋敷に足を踏み入れると、門には先程彼らを案内した私兵が立っていた。二人の姿を見ると、ちょっと驚いた顔でどうしたのかと訊ねてくる。
詳しい事情を話しても、この男たちには分かるまい。アスレシアは、もう一度確認したい事があると、ありきたりな返事をして男たちをやり過ごし、屋敷の中へ入った。
薄暗い廊下に立つ。もの言わぬ彫像と絵画の中の人物たちが、睨みつけてくるような錯覚に陥る。
「隠れていたとすれば、この辺りか」
ゼフィオンが手近な彫像の頭を叩いた。何とも安物くさく軽い音に苦笑する。
ひとつひとつ確かめながら、アスレシアとゼフィオンは廊下をゆっくりと歩いていった。
古の賢者、伝説の王、得体の知れぬ魔獣……。アスレシアにとっては、何の興味も沸かぬ代物だ。彼女でさえそうなのだから、冥界の住人であるゼフィオンなど、何をか言わんやである。乱暴に叩いたり、無遠慮に手を触れたりしていた。
「子供一人が隠れるには、もってこいだろうが……」
いまだ納得がいかぬ、とゼフィオンの口調は語っていた。その言い方に、アスレシアはふと思い当たる。どうやら、彼は少なからず自尊心を傷つけられているらしい。いくら魔力を与えられたとはいえ、人間の子供に出し抜かれたと認めるのが嫌なのだ。アスレシアは、悪い事をしたなと内心思いながら言った。
「サニト・ベイを子供扱いすると、痛い目を見る。……奴は、普通の人間などは到底及ばない知識と考えを持っているから」
「まあ、常人でない事は、十分承知しているさ」
なにしろ、コズウェイル様を欺いたのだ、と、ゼフィオンは自分に言い聞かせるようにひとりごちた。
ちょうど、廊下の真ん中辺りに差しかかる。
アスレシアは、何気なく壁の絵画に近づいた。燭台と燭台の間にあるせいなのか、その絵画だけ他のものに比べ灯が届いておらず、暗い印象を受けた。
「……?」
それは、何の変哲もない貴婦人の肖像画だ。技法も色使いも、さして目に留まるものはない。なぜ、これが飾られているのか。アスレシアは首を傾げて絵の前に立つ。そろりと手を伸ばして触れようとした。――刹那。
「触るな!!」
ゼフィオンが大声で叫び、彼女の腕を強く引いた。何事かと問う間もなく、ゼフィオンに抱かれるようにして絵画から引き剥がされる。
「な……」
密着したゼフィオンの身体の奥から、低い唸り声が響いてきた。もう一つの姿になろうとしているのだと悟り、慌てて彼を見上げた。
「……やはり、お前のいったとおりだったな。サニト・ベイはいたぞ」
「ゼフィオン!待て、ここで姿を変えては……」
「分かっている。だが、抑えきれぬ。くそ……。吐き気がする。この気配に身体が勝手に反応してしまいそうだ」
アスレシアは、絵画を見た。そして、思わず息を呑む。
――禍々しい光が、絵の中で微笑を湛える貴婦人の目から発せられていた。それは、血のように赤く、見るものを射すくめるような光。
「何だ……これは」
「魔石だ」
フーッフーッと喉を鳴らしながら、ゼフィオンは答えた。額に脂汗が浮かび、懸命に抗っているのが分かる。
「魔石……」
「恐らく、これを使って奴は俺たちの行動を見ていた……。いや、今も見ている。そうだろう?呪われた王子」
ゼフィオンの呼びかけに、光は一瞬鋭く瞬いた。それから、ぐにゃりと空気が歪む。
「………!!」
虚空の中から白い腕が現れた。つづいて、金色の美しい髪、鳶色の瞳。少女かと見まがうような、整った美しい顔。
「殿下……」
無意識のうちにかつての呼称を口にしてしまった事に気づき、アスレシアは慌てて口を閉ざした。
朱色の形の良い唇がニタリと笑う。ずるり、と生まれ落ちるように身体が現れ、絵画の前に立った。
「思ったとおり、餌を撒いたらすぐに飛びついてきてくれた。――久しぶりだね、アスレシア。あの日以来かな」
少年と青年の間にある若々しい声。アスレシアは、反射的にゼフィオンの身体から飛び離れ、剣を引き抜いた。
「貴様……!」
「ふふふ。すぐに剣を抜くのは、半魔になっても変わらないようだね」
アスレシアの顔が怒りに歪む。
「貴様は、半魔になって性格の悪さに磨きがかかったな」
「失礼だなあ。……僕は半魔なんかじゃない。れっきとした人間さ。お前と一緒にしないでくれ」
ああ言えばこう言う。口の立つのは昔からだ。アスレシアは、会話を打ち切る事にした。これ以上話しても不快感が増していくだけだ。
「とにかく。あの時の恨みは晴らさせてもらう!」
剣を構える。同時に、傍らにいたゼフィオンが鋭い咆哮を上げ、黒狼の姿となった。
二人は、目の前に立つ少年に襲いかからんとした。
その時だった。
「ゼフィオン。アスレシア。無駄だ」
一つの声と共に、黒い影がゆらりと姿を現した。
2014.06.06(Fri):黄昏人
第二章 二話
アスレシアは、うんざりした視線を左右に走らせた。
ジルベール邸の長い廊下。ずらりと並んだ絵画や彫刻が、派手な金細工の燭台に灯されたろうそくの火を受けていた。
どうにも統一感のない田舎じみた調度品を見れば、ジルベールの人となりが窺い知れるというものだ。
「しょせんは、成り上がりの商人というところか」
身も蓋もない感想を述べる。もちろん男たちには聞こえないように、だが。
男たちに先導され、アスレシアとゼフィオンは、ひとつの扉の前に立った。
「ジルベール様。連れてまいりました」
男が言う。ややあって、答(いら)えがあった。
「――入れ」
扉が開く。
正面に、巨大な揺り椅子があった。こちらに背を向けているので、座っている人物の姿は見えぬ。
キィ、キィと不気味な音を立て、揺り椅子はゆっくりと揺れ続けていた。
「入れ」
今一度、ジルベールは言う。男たちは、急かすようにアスレシアとゼフィオンを中に押し入れると、あっさりと扉を閉めてしまった。どうやら、彼らにとって、人でなくなった主というものは、恐怖の対象以外の何者でもないらしい。
若干の同情を覚えながら、アスレシアは、ジルベールの様子を窺う。
ゆらり。
ひときわ大きく椅子が揺れたかと思うと、窓辺に人影が立っていた。
「お前たちが、依頼を受けたのか」
もったいぶるような仕草で、人影はアスレシアたちの方を向いた。
「………」
「ふふ。声も出ぬか」
自嘲めいた笑いを漏らすジルベール。その、姿は。
ぬめぬめと光る赤黒い鱗に覆われた、魚とも爬虫類とも取れる、おぞましい化物。
どの生物と例えるのがもっとも適当だろう。魚か、蛙か、それとも蜥蜴か。顔の両側に大きく離れた目。鼻梁はほとんどなく、小さな穴だけの鼻。裂けるような大きな口。その頭部には、わずかに栗色の髪があり、それが、彼が元来人間であることを物語っていて、なおのこと奇怪な印象を与えている。
「逃げたくば逃げるがいい。このような姿の者など、二度と見たくはないだろうからな」
ペタリ、ペタリと足音を響かせ、ジルベールはアスレシアの前に立った。間近に見ると、さらにおぞましさは増す。背と手首、足首には、尖った巨大なヒレがついていた。その為、衣服を着ることができぬらしく、わずかに腰周りに布を巻きつけているだけだった。
生臭い、何とも言えぬ臭いが鼻をつく。だが、アスレシアは、正面に立ったジルベールを臆することなく見据えて言った。
「依頼の内容を」
ゼフィオンもさして心の動きも見せず、彼を見ている。その二人の様子に、ジルベールは少し驚いたように目をしばたたかせた。
「……恐ろしくないのか。儂の姿が」
「事前に少しは聞いていた。あなたが人ではなくなったと」
「………」
ジルベールは、思ってもみなかった彼らの反応に、少し戸惑いを見せていたが。
「よかろう」
小さくため息をついた。
「十日ほど前のことだ。朝目覚めると、突然こんな姿になっていた。何も予兆などなかった。前日の夜、私は……その……酒を飲み、いつもの通り眠ったのだ。それが、いきなりこんな事になって……。何とかしてこの姿を元に戻し、元凶を探し出して断ってくれ。それが依頼内容だ。期限は設けない。が、できるだけ早く。報酬は、後に働きによって決めさせてもらう」
さして、予想を裏切らぬ依頼内容だった。だが、アスレシアは納得できぬ。
(サニト・ベイは無関係なのか……?いや、そんなはずはない)
これは、勘などという生易しいものではない。確信だ。サニト・ベイが関わっていないはずはない。
まだ何か隠していることがあるのではないか。アスレシアは、ジルベールに訊ねようと口を開きかけた。と、それよりもわずかに早く。
「ジルベール殿。くだらぬ自尊心は、捨てたほうが良いな。でなければ、本当に元に戻る機会を失うと思うぞ」
ゼフィオンが言った。ジルベールは、見た目にもはっきりと分かるほどに狼狽する。
「少年が関わっているはずだ。……その姿になる前にな」
アスレシアは理解できず、ゼフィオンを見た。彼の横顔には、侮蔑の表情が露骨に浮かんでいる。
「む……」
ジルベールは呻くと、視線を逃れるように二人に背を向けた。
「他人の趣味を、とやかく言うつもりはない。俺たちは、ただ事実を知りたいだけだ。前日の夜、あなたの傍らには少年が一人いたのだろう?」
「………」
そこまで聞いて、アスレシアはようやく理解した。なるほど、この男はそういう性癖があるというわけか。
(たしかに、あいつの外見ならば、誘われても不思議じゃないな)
サニト・ベイの整った顔立ちを思い浮かべた。いわゆる美少年といって良い。そんな少年が一人で街を歩いていれば、男色家たちの目に留まらぬわけがない。
ジルベールは、羞恥心に顔を歪めながら、聞き取れぬほどの声で、ポツリポツリと話し始めた。
「そうだ。……私は、あの夜一人の少年を家に連れ帰った。そして、部屋に入ってまず酒を飲んだ。……その直後、意識を失ってしまい、気づけば朝になっていたのだ。このような姿に成り果ててな」
「その少年は?もういなかったのか」
アスレシアの問いに、ジルベールは首を振った。
「傍らにいた。……私を嘲るように見下ろし、言ったのだ。“僕に手を出そうなんて、大それた事をしようとするからだよ”と。それから……出て行った。私に唾を吐きかけて」
怒りのためか、ジルベールの背ビレが小刻みに震える。
アスレシアは、自分の鼓動が音を立てて早くなるのを感じた。ひときわ強く彼女の心にサニト・ベイの嘲笑が浮かぶ。
――間違いない。
歓喜と怒り、そして恐怖。いくつもの感情が複雑に混じり合い、一気に膨れ上がる。アスレシアは、とっさにそれを受け止めきれず、思わず拳を握りしめた。
視界の端でゼフィオンが、小さく肩をすくめるのが分かった。心の内を見透かされたような気がして、アスレシアは唇を噛んでうつむく。
「――ジルベール殿」
ゼフィオンが口を開いた。
「その少年の行方は分からぬのだな?」
「皆目見当がつかん」
「分かった。我々がそいつを探し出して、何とかしよう」
「本当か」
ジルベールは、喉から奇妙な呻き声を上げる。それは、この半魚の化物が持つ喜びの声らしかった。
「私のこの姿は治るのか」
「いずれはな。もう少し我慢しろ」
ゼフィオンは、アスレシアの肩に手を置くと、ジルベールに背を向けた。
「行くぞ」
「あ、ああ……」
動揺を抑えられぬまま、アスレシアはゼフィオンに続く。
二人は、ジルベールの部屋を後にした。
扉を閉めたとたん、ゼフィオンはため息混じりに言った。
「ずいぶん動揺していたな。サニト・ベイに近づくのが、そんなに恐ろしいか」
「馬鹿を言うな!」
アスレシアは、反射的に声を荒げた。図らずも、その言葉が肯定を表してしまっていることに気づかない。
「恐れなどするものか! ただ……」
「ただ?」
「今まで漠然としていたあいつの影が、いきなり形をとって目の前に現れたから……」
アスレシアは口を閉ざし、ゼフィオンを睨み据えた。
ゼフィオンは、ふと表情を緩めると、アスレシアの頭を二、三度軽く叩く。
「動揺するのは、最初で最後だぞ」
「――分かっている。子供扱いするな」
アスレシアは、荒っぽくゼフィオンの手を振り払った。
ゼフィオンは、優しく笑うと歩き出す。
その背中をじっと見つめていたアスレシアだったが、言いかけた言葉を呑み下すと、足早に後を追った。
ジルベール邸の長い廊下。ずらりと並んだ絵画や彫刻が、派手な金細工の燭台に灯されたろうそくの火を受けていた。
どうにも統一感のない田舎じみた調度品を見れば、ジルベールの人となりが窺い知れるというものだ。
「しょせんは、成り上がりの商人というところか」
身も蓋もない感想を述べる。もちろん男たちには聞こえないように、だが。
男たちに先導され、アスレシアとゼフィオンは、ひとつの扉の前に立った。
「ジルベール様。連れてまいりました」
男が言う。ややあって、答(いら)えがあった。
「――入れ」
扉が開く。
正面に、巨大な揺り椅子があった。こちらに背を向けているので、座っている人物の姿は見えぬ。
キィ、キィと不気味な音を立て、揺り椅子はゆっくりと揺れ続けていた。
「入れ」
今一度、ジルベールは言う。男たちは、急かすようにアスレシアとゼフィオンを中に押し入れると、あっさりと扉を閉めてしまった。どうやら、彼らにとって、人でなくなった主というものは、恐怖の対象以外の何者でもないらしい。
若干の同情を覚えながら、アスレシアは、ジルベールの様子を窺う。
ゆらり。
ひときわ大きく椅子が揺れたかと思うと、窓辺に人影が立っていた。
「お前たちが、依頼を受けたのか」
もったいぶるような仕草で、人影はアスレシアたちの方を向いた。
「………」
「ふふ。声も出ぬか」
自嘲めいた笑いを漏らすジルベール。その、姿は。
ぬめぬめと光る赤黒い鱗に覆われた、魚とも爬虫類とも取れる、おぞましい化物。
どの生物と例えるのがもっとも適当だろう。魚か、蛙か、それとも蜥蜴か。顔の両側に大きく離れた目。鼻梁はほとんどなく、小さな穴だけの鼻。裂けるような大きな口。その頭部には、わずかに栗色の髪があり、それが、彼が元来人間であることを物語っていて、なおのこと奇怪な印象を与えている。
「逃げたくば逃げるがいい。このような姿の者など、二度と見たくはないだろうからな」
ペタリ、ペタリと足音を響かせ、ジルベールはアスレシアの前に立った。間近に見ると、さらにおぞましさは増す。背と手首、足首には、尖った巨大なヒレがついていた。その為、衣服を着ることができぬらしく、わずかに腰周りに布を巻きつけているだけだった。
生臭い、何とも言えぬ臭いが鼻をつく。だが、アスレシアは、正面に立ったジルベールを臆することなく見据えて言った。
「依頼の内容を」
ゼフィオンもさして心の動きも見せず、彼を見ている。その二人の様子に、ジルベールは少し驚いたように目をしばたたかせた。
「……恐ろしくないのか。儂の姿が」
「事前に少しは聞いていた。あなたが人ではなくなったと」
「………」
ジルベールは、思ってもみなかった彼らの反応に、少し戸惑いを見せていたが。
「よかろう」
小さくため息をついた。
「十日ほど前のことだ。朝目覚めると、突然こんな姿になっていた。何も予兆などなかった。前日の夜、私は……その……酒を飲み、いつもの通り眠ったのだ。それが、いきなりこんな事になって……。何とかしてこの姿を元に戻し、元凶を探し出して断ってくれ。それが依頼内容だ。期限は設けない。が、できるだけ早く。報酬は、後に働きによって決めさせてもらう」
さして、予想を裏切らぬ依頼内容だった。だが、アスレシアは納得できぬ。
(サニト・ベイは無関係なのか……?いや、そんなはずはない)
これは、勘などという生易しいものではない。確信だ。サニト・ベイが関わっていないはずはない。
まだ何か隠していることがあるのではないか。アスレシアは、ジルベールに訊ねようと口を開きかけた。と、それよりもわずかに早く。
「ジルベール殿。くだらぬ自尊心は、捨てたほうが良いな。でなければ、本当に元に戻る機会を失うと思うぞ」
ゼフィオンが言った。ジルベールは、見た目にもはっきりと分かるほどに狼狽する。
「少年が関わっているはずだ。……その姿になる前にな」
アスレシアは理解できず、ゼフィオンを見た。彼の横顔には、侮蔑の表情が露骨に浮かんでいる。
「む……」
ジルベールは呻くと、視線を逃れるように二人に背を向けた。
「他人の趣味を、とやかく言うつもりはない。俺たちは、ただ事実を知りたいだけだ。前日の夜、あなたの傍らには少年が一人いたのだろう?」
「………」
そこまで聞いて、アスレシアはようやく理解した。なるほど、この男はそういう性癖があるというわけか。
(たしかに、あいつの外見ならば、誘われても不思議じゃないな)
サニト・ベイの整った顔立ちを思い浮かべた。いわゆる美少年といって良い。そんな少年が一人で街を歩いていれば、男色家たちの目に留まらぬわけがない。
ジルベールは、羞恥心に顔を歪めながら、聞き取れぬほどの声で、ポツリポツリと話し始めた。
「そうだ。……私は、あの夜一人の少年を家に連れ帰った。そして、部屋に入ってまず酒を飲んだ。……その直後、意識を失ってしまい、気づけば朝になっていたのだ。このような姿に成り果ててな」
「その少年は?もういなかったのか」
アスレシアの問いに、ジルベールは首を振った。
「傍らにいた。……私を嘲るように見下ろし、言ったのだ。“僕に手を出そうなんて、大それた事をしようとするからだよ”と。それから……出て行った。私に唾を吐きかけて」
怒りのためか、ジルベールの背ビレが小刻みに震える。
アスレシアは、自分の鼓動が音を立てて早くなるのを感じた。ひときわ強く彼女の心にサニト・ベイの嘲笑が浮かぶ。
――間違いない。
歓喜と怒り、そして恐怖。いくつもの感情が複雑に混じり合い、一気に膨れ上がる。アスレシアは、とっさにそれを受け止めきれず、思わず拳を握りしめた。
視界の端でゼフィオンが、小さく肩をすくめるのが分かった。心の内を見透かされたような気がして、アスレシアは唇を噛んでうつむく。
「――ジルベール殿」
ゼフィオンが口を開いた。
「その少年の行方は分からぬのだな?」
「皆目見当がつかん」
「分かった。我々がそいつを探し出して、何とかしよう」
「本当か」
ジルベールは、喉から奇妙な呻き声を上げる。それは、この半魚の化物が持つ喜びの声らしかった。
「私のこの姿は治るのか」
「いずれはな。もう少し我慢しろ」
ゼフィオンは、アスレシアの肩に手を置くと、ジルベールに背を向けた。
「行くぞ」
「あ、ああ……」
動揺を抑えられぬまま、アスレシアはゼフィオンに続く。
二人は、ジルベールの部屋を後にした。
扉を閉めたとたん、ゼフィオンはため息混じりに言った。
「ずいぶん動揺していたな。サニト・ベイに近づくのが、そんなに恐ろしいか」
「馬鹿を言うな!」
アスレシアは、反射的に声を荒げた。図らずも、その言葉が肯定を表してしまっていることに気づかない。
「恐れなどするものか! ただ……」
「ただ?」
「今まで漠然としていたあいつの影が、いきなり形をとって目の前に現れたから……」
アスレシアは口を閉ざし、ゼフィオンを睨み据えた。
ゼフィオンは、ふと表情を緩めると、アスレシアの頭を二、三度軽く叩く。
「動揺するのは、最初で最後だぞ」
「――分かっている。子供扱いするな」
アスレシアは、荒っぽくゼフィオンの手を振り払った。
ゼフィオンは、優しく笑うと歩き出す。
その背中をじっと見つめていたアスレシアだったが、言いかけた言葉を呑み下すと、足早に後を追った。
2014.06.06(Fri):黄昏人
第二章 一話
人混みの中に、アスレシアとゼフィオンは立っていた。
聖都カスラムの街外れにある、傭兵や旅の騎士たちの仕事案内所である。
先の村で、山犬事件のために食料や水、報酬を受け損ねた彼らの資金は、ずいぶんと心許ないものとなっていたのだ。早急に手を打たねばならないと考え、街に入って宿を確保すると、すぐにここへやって来たのだった。
「適当な仕事を探して、稼ぐしかないか……」
アスレシアは、目の前に乱雑に貼り付けられた紙を、一枚一枚じっくりと吟味しながら言った。
壁には、様々な依頼が貼り出されている。隊商の護衛やモンスターの駆除などが一般的だが、中には子守や隣町への届け物などというものもあった。
「害獣かモンスターの駆除あたりが妥当だろうな」
傍らでゼフィオンが言う。報酬はけして高くないが、特別に危険というわけでもない。多少なりとも腕に覚えのある者であれば、まず間違いなく金を手にできる。
「そう……だな」
一通り目を通して、アスレシアも肯いた。
「手早く済ませられそうな……」
言いかけたときだ。
人混みでごった返す案内所の入り口付近がざわつく。人垣がさっと割れたかと思うと、そこには二人の男が立っていた。二人とも、胸に天秤と硬貨を組み合わせた紋章を縫い取った、黒い衣服をつけている。周囲のざわめきは、この紋章に向けられたものだった。
「仕事を依頼したいのだが」
大股に係の者の前に行き、二人の男は言った。
「ど……どのようなご依頼で?」
係りの男が、明らかに怯えた表情で応対する。その反応に、アスレシアは、近くにいた男を捕まえて問うた。
「――あれは?」
男は一瞬面倒くさそうに眉をひそめ、小声で答える。
「ジルベールの私兵さ。この街で一番力を持ってる大富豪だよ」
「大富豪……」
貴族でも騎士でもないのに私用の軍隊を持っている人物というのは、たいてい評判が芳しくない。ジルベールという人物も、どうやらその類のようだ、とアスレシアは密かに思った。
「どのようなご依頼で?」
係りの男が繰り返す。だが、二人の男は少し目を見交わすと、小さく首を横に振った。依頼を請けた者にしか話さぬということだ。
「この中で、誰か依頼を請ける者はいないか。腕が立つ意外に条件はない」
一人の男が、ぐるりと人垣を見ながら声を張り上げた。しかし、周囲は騒ぐばかりで、誰も手を上げようとはしない。
「これだけ人数がいるのに、誰も名乗りを上げぬとは……。呆れた腰抜けどもだな」
「報酬は十分に出す。働きによっては、一生食うに困らぬ額だ」
しかし、それでもなお、名乗り出る者はいない。どうやら、ジルベールなる人物は、よほど嫌われているか、恐れられているようだ。
アスレシアは、険しい面持ちで考え込んでいたが、しばらくしてゼフィオンに低く声をかけた。
「ゼフィオン……。請けよう」
「本気か?」
「ああ……」
アスレシアの瞳が、暗い輝きを帯びる。
「この依頼……。やつが絡んでいるようだ」
「なに……。わかるのか」
ゼフィオンの顔つきが変わる。アスレシアは、かすかに唇を歪め、笑った。
「認めたくはないがな」
ゼフィオンは「そうか」と口中でつぶやくと、明らかに苛立っている様子の二人の男に目をやった。
「誰もいないのか!ジルベール様の恩恵を、貴様らも受けているはずだ!!」
一人が声を荒げる。ゼフィオンが、その前に進み出た。
「俺たちが引き受けよう」
その言葉に、周囲が大きくどよめいた。先程、ジルベールの名を教えてくれた男が、アスレシアの袖口を軽く引っ張ってくる。
「お、おい。悪い事は言わねえ。ジルベールと関わるのは、やめておけ」
男が本気で忠告を与えている事を見て取り、アスレシアは軽く微笑んだ。だが、そんなものに従うつもりは毛頭ない。
「忠告は感謝しよう」
そっけない返事とともに男の手を払うと、ゼフィオンの隣に立つ。男たちは、値踏みするように二人を観察してきた。
「腕に自信はあるのか」
「なければ、名乗り出ぬ」
ゼフィオンの返答に、男たちは薄く笑った。
「そっちの女もか」
「俺以上に剣の腕はたつ。弓ならば、俺は誰にも負けぬが」
「ほう……」
「何なら、試してもいいぞ」
男たちは、小声でほんの少し会話を交わす。だが、他に誰も引き受ける者はいないのだ。選択の余地などあろうはずもない。形だけの相談だ。
「――いいだろう。一緒に来い」
一人が顎をしゃくってみせた。再び人垣が割れ、男たちを通す。アスレシアとゼフィオンは、後に続いて外へと出た。
風が足元を舞っていく。
男たちは、無言のままどんどん歩き出す。大通りは人で賑わっていたが、みな、男たちの黒ずくめの姿を見ると慌てて避けるので、声を張り上げたり、手で人を押しのけたりする必要もなく、すんなりと歩いていく事ができた。
「仕事の内容を聞かせてもらおう」
大通りを抜け、閑静な住宅街に入って、アスレシアは男たちに声をかけた。一人がチラリと彼女を振り返る。
「……来れば分かる」
「準備や心構えがいる。ほんの少しでもいい。情報が欲しいんだ」
アスレシアは、食い下がった。あいつの影がちらつくのだ。――サニト・ベイ。先程から、ひっきりなしに少年の嗤いが目に浮かぶ。
(必ずやつが関わっている。少しでも情報を入れておかなければ)
アスレシアの只ならぬ雰囲気に気圧されたのか、男の一人が渋々口を開いた。
「ジルベール様のお姿が、人ではなくなってしまったのだ」
「……どういうことだ?」
アスレシアは、怪訝な表情になる。
「俺たちにも分からん。何が起こったのか、なぜこんな事になったのか……。とにかく、見れば分かる。俺たちが言えるのは、そこまでだ」
男たち二人は、渋面を作って顔を見合わせた。その横顔に、恐怖が見え隠れしている。
「魔力、だな。サニト・ベイの仕業に違いない」
男たちに注意を払いつつ、ゼフィオンがささやいた。アスレシアは、眉間に深いしわを刻みつける。
「しかし、やつは、ただの人間だ。悪魔のような性格だが、魔力は持っていないはず……」
それなのに、なぜ魔力が絡んでくるのか。知らぬ間に、サニト・ベイは魔力を身につけたのだろうか?もしも、そうだとしたら、考えられる事は唯一つ。
「……あの女伯爵か?」
アスレシアのつぶやきに、ゼフィオンも肯いた。
「何かと首を突っ込んできているとは、コズウェイル様から聞いている……。あの子供に必要以上の力を貸し与えているのかもしれん」
「余計な事を……」
ただでさえ危険極まりない人物なのに、魔力などという物騒なものを与えるなど、どうかしている。アスレシアは、小さく呪詛を吐き捨てた。
「とにかく、そのジルベールの様子を見てみなければ、何とも言えないな。心構えができるだけでも良しとしよう」
「そうだな」
二人は軽くため息をつくと、男たちの後を追った。
――市場の喧騒が、怯えたように二人の背後から遠ざかった。
聖都カスラムの街外れにある、傭兵や旅の騎士たちの仕事案内所である。
先の村で、山犬事件のために食料や水、報酬を受け損ねた彼らの資金は、ずいぶんと心許ないものとなっていたのだ。早急に手を打たねばならないと考え、街に入って宿を確保すると、すぐにここへやって来たのだった。
「適当な仕事を探して、稼ぐしかないか……」
アスレシアは、目の前に乱雑に貼り付けられた紙を、一枚一枚じっくりと吟味しながら言った。
壁には、様々な依頼が貼り出されている。隊商の護衛やモンスターの駆除などが一般的だが、中には子守や隣町への届け物などというものもあった。
「害獣かモンスターの駆除あたりが妥当だろうな」
傍らでゼフィオンが言う。報酬はけして高くないが、特別に危険というわけでもない。多少なりとも腕に覚えのある者であれば、まず間違いなく金を手にできる。
「そう……だな」
一通り目を通して、アスレシアも肯いた。
「手早く済ませられそうな……」
言いかけたときだ。
人混みでごった返す案内所の入り口付近がざわつく。人垣がさっと割れたかと思うと、そこには二人の男が立っていた。二人とも、胸に天秤と硬貨を組み合わせた紋章を縫い取った、黒い衣服をつけている。周囲のざわめきは、この紋章に向けられたものだった。
「仕事を依頼したいのだが」
大股に係の者の前に行き、二人の男は言った。
「ど……どのようなご依頼で?」
係りの男が、明らかに怯えた表情で応対する。その反応に、アスレシアは、近くにいた男を捕まえて問うた。
「――あれは?」
男は一瞬面倒くさそうに眉をひそめ、小声で答える。
「ジルベールの私兵さ。この街で一番力を持ってる大富豪だよ」
「大富豪……」
貴族でも騎士でもないのに私用の軍隊を持っている人物というのは、たいてい評判が芳しくない。ジルベールという人物も、どうやらその類のようだ、とアスレシアは密かに思った。
「どのようなご依頼で?」
係りの男が繰り返す。だが、二人の男は少し目を見交わすと、小さく首を横に振った。依頼を請けた者にしか話さぬということだ。
「この中で、誰か依頼を請ける者はいないか。腕が立つ意外に条件はない」
一人の男が、ぐるりと人垣を見ながら声を張り上げた。しかし、周囲は騒ぐばかりで、誰も手を上げようとはしない。
「これだけ人数がいるのに、誰も名乗りを上げぬとは……。呆れた腰抜けどもだな」
「報酬は十分に出す。働きによっては、一生食うに困らぬ額だ」
しかし、それでもなお、名乗り出る者はいない。どうやら、ジルベールなる人物は、よほど嫌われているか、恐れられているようだ。
アスレシアは、険しい面持ちで考え込んでいたが、しばらくしてゼフィオンに低く声をかけた。
「ゼフィオン……。請けよう」
「本気か?」
「ああ……」
アスレシアの瞳が、暗い輝きを帯びる。
「この依頼……。やつが絡んでいるようだ」
「なに……。わかるのか」
ゼフィオンの顔つきが変わる。アスレシアは、かすかに唇を歪め、笑った。
「認めたくはないがな」
ゼフィオンは「そうか」と口中でつぶやくと、明らかに苛立っている様子の二人の男に目をやった。
「誰もいないのか!ジルベール様の恩恵を、貴様らも受けているはずだ!!」
一人が声を荒げる。ゼフィオンが、その前に進み出た。
「俺たちが引き受けよう」
その言葉に、周囲が大きくどよめいた。先程、ジルベールの名を教えてくれた男が、アスレシアの袖口を軽く引っ張ってくる。
「お、おい。悪い事は言わねえ。ジルベールと関わるのは、やめておけ」
男が本気で忠告を与えている事を見て取り、アスレシアは軽く微笑んだ。だが、そんなものに従うつもりは毛頭ない。
「忠告は感謝しよう」
そっけない返事とともに男の手を払うと、ゼフィオンの隣に立つ。男たちは、値踏みするように二人を観察してきた。
「腕に自信はあるのか」
「なければ、名乗り出ぬ」
ゼフィオンの返答に、男たちは薄く笑った。
「そっちの女もか」
「俺以上に剣の腕はたつ。弓ならば、俺は誰にも負けぬが」
「ほう……」
「何なら、試してもいいぞ」
男たちは、小声でほんの少し会話を交わす。だが、他に誰も引き受ける者はいないのだ。選択の余地などあろうはずもない。形だけの相談だ。
「――いいだろう。一緒に来い」
一人が顎をしゃくってみせた。再び人垣が割れ、男たちを通す。アスレシアとゼフィオンは、後に続いて外へと出た。
風が足元を舞っていく。
男たちは、無言のままどんどん歩き出す。大通りは人で賑わっていたが、みな、男たちの黒ずくめの姿を見ると慌てて避けるので、声を張り上げたり、手で人を押しのけたりする必要もなく、すんなりと歩いていく事ができた。
「仕事の内容を聞かせてもらおう」
大通りを抜け、閑静な住宅街に入って、アスレシアは男たちに声をかけた。一人がチラリと彼女を振り返る。
「……来れば分かる」
「準備や心構えがいる。ほんの少しでもいい。情報が欲しいんだ」
アスレシアは、食い下がった。あいつの影がちらつくのだ。――サニト・ベイ。先程から、ひっきりなしに少年の嗤いが目に浮かぶ。
(必ずやつが関わっている。少しでも情報を入れておかなければ)
アスレシアの只ならぬ雰囲気に気圧されたのか、男の一人が渋々口を開いた。
「ジルベール様のお姿が、人ではなくなってしまったのだ」
「……どういうことだ?」
アスレシアは、怪訝な表情になる。
「俺たちにも分からん。何が起こったのか、なぜこんな事になったのか……。とにかく、見れば分かる。俺たちが言えるのは、そこまでだ」
男たち二人は、渋面を作って顔を見合わせた。その横顔に、恐怖が見え隠れしている。
「魔力、だな。サニト・ベイの仕業に違いない」
男たちに注意を払いつつ、ゼフィオンがささやいた。アスレシアは、眉間に深いしわを刻みつける。
「しかし、やつは、ただの人間だ。悪魔のような性格だが、魔力は持っていないはず……」
それなのに、なぜ魔力が絡んでくるのか。知らぬ間に、サニト・ベイは魔力を身につけたのだろうか?もしも、そうだとしたら、考えられる事は唯一つ。
「……あの女伯爵か?」
アスレシアのつぶやきに、ゼフィオンも肯いた。
「何かと首を突っ込んできているとは、コズウェイル様から聞いている……。あの子供に必要以上の力を貸し与えているのかもしれん」
「余計な事を……」
ただでさえ危険極まりない人物なのに、魔力などという物騒なものを与えるなど、どうかしている。アスレシアは、小さく呪詛を吐き捨てた。
「とにかく、そのジルベールの様子を見てみなければ、何とも言えないな。心構えができるだけでも良しとしよう」
「そうだな」
二人は軽くため息をつくと、男たちの後を追った。
――市場の喧騒が、怯えたように二人の背後から遠ざかった。
2014.06.06(Fri):黄昏人
第一章 四話
血の臭いが鼻をつく。
農夫たちが絶叫を上げ、山犬たちの餌食となっていく中、アスレシアとゼフィオンは頭上を睨みつけ立ち尽くしていた。
枝の上から、黒い服をまとった若い女が二人を見下ろす。吊り上った明るい黄金色の瞳が、妖しく光った。
「貴様……一体何のつもりだ!」
アスレシアの怒声に、女は耳に障る甲高い声で笑った。
「ネイヴァ。アベリアル様の指示なのか?」
ゼフィオンが鼻にしわを寄せ、呻く。
「まさか。我が主はそんな指示はしないわ。これは、私のお楽しみ」
「人を殺す楽しみか」
「ふふ……。違うよ。私は山犬を助けてあげただけ。ゼフィオン、あんたが同類を殺そうとしていたからね」
同類という言葉に、ゼフィオンの穏やかな表情が消え、すさまじい怒りが浮かび上がってきた。
「山犬などと一緒にするな」
「一緒よ。山犬も――狼も」
「黙れ!!」
ゼフィオンの喉から、不意に低い唸り声が漏れた。それは、明らかに人間のものではない声。
ザア……と風が巻き起こる。
アスレシアは、飛んでくる枝葉を腕で防ぎながら、苦々しげに心の中でひとりごちた。
(またか……。ネイヴァと会うと冷静さを欠くんだから。この男は……)
風が治まる。ゼフィオンの姿は消え失せていた。代わって彼がいた場所に現れたのは――巨大な黒狼。
「ガァァッ!」
狼は一声吠えると、大地を蹴った。驚くべき跳躍力で、木の上のネイヴァに襲いかかる。が、彼女は軽々とそれをかわすと、挑発するように舌を出した。
「ふふふ。あんたにあたしは倒せないよ。図体がでかいだけの鈍い狼。そこの農夫に狩られちゃえば?」
ネイヴァの言葉に、アスレシアはハッとして振り返った。
そこには、蒼ざめた顔のリッジの姿。
(しまった……)
迂闊だった。山犬と闘っているものとばかり思っていたので、まったく注意を払っていなかった。
「ひ……」
リッジは声にならぬ悲鳴を上げる。
「ば……化物だ……」
「違う!」
「お、俺たちを騙したんだな! 女!! お前も化物なんだろう!」
「待て! 誤解だ。私たちは、化物などでは……」
「うるせえ!!」
リッジは、手にしていた槍を構えた。
「俺はやられねえ! やられるもんか!」
リッジの槍がアスレシアに突き出された。
「くそう! みんな死んじまったじゃねえか! お前らのせいだ! お前らが俺たちを罠にはめて……!!」
「違うと言っているだろう!」
リッジは半狂乱になってアスレシアを攻撃してきた。槍を剣で弾き返しながら、彼女は何とかして説得しようと試みる。だが、リッジは全く聞き入れそうになかった。
「ガアッ」
ゼフィオンが吠える。彼が言わんとしている事を悟り、アスレシアは素早く制した。
「だめだ! 殺すな!」
この農夫に罪はないのだ。誤解を受けて刃を向けられたからといって、簡単に殺すわけにはいかぬ。
「頼むから、私の話を聞いてくれ!」
人間、捨て身になったときの攻撃は、凄まじいものがある。アスレシアは、少しずつではあったがリッジに押されかけていた。
「……っ!!」
右腕に鋭い痛みが走った。槍の穂先が、彼女の二の腕をかすめ、切り裂いたのだ。
鮮血が散る。
「ガオオオゥッ」
「やめろ! ゼフィオン……!」
黒い疾風が農夫を襲った。
突き出された槍が、アスレシアの首元でピタリと止まる。
恐怖に見開かれた瞳が、彼女を捉える。
ゴボリ。
喉がぱっくりと口を開け、奇妙な音と共に血が溢れた。リッジは何かを言おうと口を動かす。そのたびに喉がひくひくと痙攣し、血が押し出されてきた。
「ゼ……フィオン……」
アスレシアは喘いだ。
「殺すなと……。だめだと言っただろう!」
また、命を奪ってしまった。罪もない人間を。何も知らぬ純朴な民を。心の苦痛に顔が歪む。
「グゥ……」
口を真っ赤に染め、ゼフィオンは申し訳なさそうに彼女を見る。怒りで逆立っていた首筋の毛が治まったかと思うと、狼はゆらりと輪郭を崩し、人間の姿に戻った。
「すまない……。お前が傷つけられたのを見て、怒りが先行してしまった……」
「なぜ?」
アスレシアは、息絶えたリッジの傍らに、そっと膝をついた。
「なぜ、罪もない人をそんなに簡単に殺せるんだ? 話し合えば、誤解を解けば、この農夫は死なずに済んだのに」
「………」
「人間の命など、お前たちには何の価値もないものなのか」
「そうではない。アスレシア、俺は……」
言いかけたゼフィオンを、女の声が遮った。
「そうよ」
二人は同時に顔を上げる。嘲りの色を浮かべ、ネイヴァは二人を見下ろしていた。
「くだらない人間の命など、あたしたちにとってはゴミと同じ。少しでも上質のものなら、主のために欲しいけれどね。アスレシア。あんた、いい加減に自分が何なのか認めなよ。いつまでも人間のつもりで人間の味方してるんじゃないよ。黄昏人」
「……!」
アスレシアは、ギッとネイヴァを睨みつけた。ネイヴァは肩をすくめると、ひょいと一回転して黒猫の姿になる。
「ニャオゥ」
後に引く不快な鳴き声を残し、黒猫はざっと木の陰に消えた。
「追うか?」
ゼフィオンが問う。だが、アスレシアは寂しげな笑いを浮かべ、弱々しく首を振っただけだった。
「いや、いい……」
「気にするな。あの女の口の悪さは、いつもの事だ」
「ああ……。でも、真実を言っている」
アスレシアは、自分の右腕に視線を落とした。
つい先程受けたはずの裂傷。
だが。
わずかな痕跡を残し、傷は消えていた。絵の具を塗ったように、赤い血がこびりついているだけだ。
(人間……ではない)
心でどれだけ否定しても、彼女の身体は嘘をつかない。
「カア」
不意に間抜けな声が落ちてきた。見上げれば、先程までネイヴァがいた枝の上に、巨大な鴉の姿があった。
「ペンドラゴン」
ゼフィオンに呼ばれ、大鴉はふいと人の姿に戻る。
「大丈夫か」
「心にもないことを……。何の用だ」
アスレシアの冷たい一言に、ペンドラゴンはにやりと笑う。
「たった今、我が主から連絡があってね。カスラムに例の子供の気配が現れたらしいぜ」
「カスラム…」
二人は、顔を見合わせる。それは、ここより北にある聖都。
「……行こう。ゼフィオン」
右腕の血を無造作に拭うと、アスレシアはつぶやいた。
「これ以上、ここにはいたくない」
「ああ……」
無残に転がる農夫と山犬たちの姿に背を向ける。
明日になれば、村人たちによって発見され、埋葬されるだろう。自分たちがするよりも、その方がいい。
彼らは北を目指し、陰鬱な森を後にした。
農夫たちが絶叫を上げ、山犬たちの餌食となっていく中、アスレシアとゼフィオンは頭上を睨みつけ立ち尽くしていた。
枝の上から、黒い服をまとった若い女が二人を見下ろす。吊り上った明るい黄金色の瞳が、妖しく光った。
「貴様……一体何のつもりだ!」
アスレシアの怒声に、女は耳に障る甲高い声で笑った。
「ネイヴァ。アベリアル様の指示なのか?」
ゼフィオンが鼻にしわを寄せ、呻く。
「まさか。我が主はそんな指示はしないわ。これは、私のお楽しみ」
「人を殺す楽しみか」
「ふふ……。違うよ。私は山犬を助けてあげただけ。ゼフィオン、あんたが同類を殺そうとしていたからね」
同類という言葉に、ゼフィオンの穏やかな表情が消え、すさまじい怒りが浮かび上がってきた。
「山犬などと一緒にするな」
「一緒よ。山犬も――狼も」
「黙れ!!」
ゼフィオンの喉から、不意に低い唸り声が漏れた。それは、明らかに人間のものではない声。
ザア……と風が巻き起こる。
アスレシアは、飛んでくる枝葉を腕で防ぎながら、苦々しげに心の中でひとりごちた。
(またか……。ネイヴァと会うと冷静さを欠くんだから。この男は……)
風が治まる。ゼフィオンの姿は消え失せていた。代わって彼がいた場所に現れたのは――巨大な黒狼。
「ガァァッ!」
狼は一声吠えると、大地を蹴った。驚くべき跳躍力で、木の上のネイヴァに襲いかかる。が、彼女は軽々とそれをかわすと、挑発するように舌を出した。
「ふふふ。あんたにあたしは倒せないよ。図体がでかいだけの鈍い狼。そこの農夫に狩られちゃえば?」
ネイヴァの言葉に、アスレシアはハッとして振り返った。
そこには、蒼ざめた顔のリッジの姿。
(しまった……)
迂闊だった。山犬と闘っているものとばかり思っていたので、まったく注意を払っていなかった。
「ひ……」
リッジは声にならぬ悲鳴を上げる。
「ば……化物だ……」
「違う!」
「お、俺たちを騙したんだな! 女!! お前も化物なんだろう!」
「待て! 誤解だ。私たちは、化物などでは……」
「うるせえ!!」
リッジは、手にしていた槍を構えた。
「俺はやられねえ! やられるもんか!」
リッジの槍がアスレシアに突き出された。
「くそう! みんな死んじまったじゃねえか! お前らのせいだ! お前らが俺たちを罠にはめて……!!」
「違うと言っているだろう!」
リッジは半狂乱になってアスレシアを攻撃してきた。槍を剣で弾き返しながら、彼女は何とかして説得しようと試みる。だが、リッジは全く聞き入れそうになかった。
「ガアッ」
ゼフィオンが吠える。彼が言わんとしている事を悟り、アスレシアは素早く制した。
「だめだ! 殺すな!」
この農夫に罪はないのだ。誤解を受けて刃を向けられたからといって、簡単に殺すわけにはいかぬ。
「頼むから、私の話を聞いてくれ!」
人間、捨て身になったときの攻撃は、凄まじいものがある。アスレシアは、少しずつではあったがリッジに押されかけていた。
「……っ!!」
右腕に鋭い痛みが走った。槍の穂先が、彼女の二の腕をかすめ、切り裂いたのだ。
鮮血が散る。
「ガオオオゥッ」
「やめろ! ゼフィオン……!」
黒い疾風が農夫を襲った。
突き出された槍が、アスレシアの首元でピタリと止まる。
恐怖に見開かれた瞳が、彼女を捉える。
ゴボリ。
喉がぱっくりと口を開け、奇妙な音と共に血が溢れた。リッジは何かを言おうと口を動かす。そのたびに喉がひくひくと痙攣し、血が押し出されてきた。
「ゼ……フィオン……」
アスレシアは喘いだ。
「殺すなと……。だめだと言っただろう!」
また、命を奪ってしまった。罪もない人間を。何も知らぬ純朴な民を。心の苦痛に顔が歪む。
「グゥ……」
口を真っ赤に染め、ゼフィオンは申し訳なさそうに彼女を見る。怒りで逆立っていた首筋の毛が治まったかと思うと、狼はゆらりと輪郭を崩し、人間の姿に戻った。
「すまない……。お前が傷つけられたのを見て、怒りが先行してしまった……」
「なぜ?」
アスレシアは、息絶えたリッジの傍らに、そっと膝をついた。
「なぜ、罪もない人をそんなに簡単に殺せるんだ? 話し合えば、誤解を解けば、この農夫は死なずに済んだのに」
「………」
「人間の命など、お前たちには何の価値もないものなのか」
「そうではない。アスレシア、俺は……」
言いかけたゼフィオンを、女の声が遮った。
「そうよ」
二人は同時に顔を上げる。嘲りの色を浮かべ、ネイヴァは二人を見下ろしていた。
「くだらない人間の命など、あたしたちにとってはゴミと同じ。少しでも上質のものなら、主のために欲しいけれどね。アスレシア。あんた、いい加減に自分が何なのか認めなよ。いつまでも人間のつもりで人間の味方してるんじゃないよ。黄昏人」
「……!」
アスレシアは、ギッとネイヴァを睨みつけた。ネイヴァは肩をすくめると、ひょいと一回転して黒猫の姿になる。
「ニャオゥ」
後に引く不快な鳴き声を残し、黒猫はざっと木の陰に消えた。
「追うか?」
ゼフィオンが問う。だが、アスレシアは寂しげな笑いを浮かべ、弱々しく首を振っただけだった。
「いや、いい……」
「気にするな。あの女の口の悪さは、いつもの事だ」
「ああ……。でも、真実を言っている」
アスレシアは、自分の右腕に視線を落とした。
つい先程受けたはずの裂傷。
だが。
わずかな痕跡を残し、傷は消えていた。絵の具を塗ったように、赤い血がこびりついているだけだ。
(人間……ではない)
心でどれだけ否定しても、彼女の身体は嘘をつかない。
「カア」
不意に間抜けな声が落ちてきた。見上げれば、先程までネイヴァがいた枝の上に、巨大な鴉の姿があった。
「ペンドラゴン」
ゼフィオンに呼ばれ、大鴉はふいと人の姿に戻る。
「大丈夫か」
「心にもないことを……。何の用だ」
アスレシアの冷たい一言に、ペンドラゴンはにやりと笑う。
「たった今、我が主から連絡があってね。カスラムに例の子供の気配が現れたらしいぜ」
「カスラム…」
二人は、顔を見合わせる。それは、ここより北にある聖都。
「……行こう。ゼフィオン」
右腕の血を無造作に拭うと、アスレシアはつぶやいた。
「これ以上、ここにはいたくない」
「ああ……」
無残に転がる農夫と山犬たちの姿に背を向ける。
明日になれば、村人たちによって発見され、埋葬されるだろう。自分たちがするよりも、その方がいい。
彼らは北を目指し、陰鬱な森を後にした。