2014.07.25(Fri):育児
4月から長男(もうすぐ6歳)がスイミングに通っています。同じ保育園のお友達2人と、なかなか楽しそう。
で。
当然のことながら一緒に通いたい次男(4歳なりたて)。
4月の時点ではまだ3歳だったので、長男と同じクラスには入れなかった彼。先日4歳になり、やっと体験教室に行く事が出来ました。
初日は年齢別、2日目は泳力別にクラス編成されて受講。なんですが。
とことんマイペースな次男。
どう見ても先生の話を聞いてない。周りの子が動いて、初めて「おっ。なにやら動くのだな」という感じで「よっこらせ」と立ち上がる……。列に並んでいる間も、あっちへフラフラこっちへフラフラ。私の方見て満面の笑みで手を振ってる。
うん。楽しそうだし、母ちゃんも手を振り返すんだけどね。前見て前。がんがん順番抜かされてるから。
そんなこんなで授業の終わり頃に、
すべり台を滑って水に入る→そのまま先生の元まで泳ぐ→プールから上がってすべり台にまた並ぶ という内容をやっていたんですが、泳ぎ終えてプールから上がった次男。左右を見てすこーし迷った末に……
隣のクラスの列に並んだorz
なんでわざわざ遠い方の列に並びに行く。息子よ。
隣は、少し泳ぎの上手な子たちのクラス。最後尾にフツーに並んでいた次男に先生が気づかず、そのままプールサイドに誘導されてバタ足始めちゃったよ……。
どうしようと慌てる夫と私。するとすかさず長男が近くにいた先生に「せんせー! (次男)が隣に入った!」
何の事かと首をかしげる先生に事情を説明すると「えっ。そりゃいかん」と急いで中に入り、元のクラスに連れ戻していただきました^^;
その後は最後まで外れることなく、体験教室は何とか無事に終了。
あとで先生からコメントいただきました。
「ちょっとぼーっとしてるところがありましたけど、これから団体行動に慣れると思いますよ」
保育園生活4年目にして、いまだ団体行動に慣れず……。
本人はかなり楽しかったようなので、まあいいか。
楽しみだね。スイミング。
で。
当然のことながら一緒に通いたい次男(4歳なりたて)。
4月の時点ではまだ3歳だったので、長男と同じクラスには入れなかった彼。先日4歳になり、やっと体験教室に行く事が出来ました。
初日は年齢別、2日目は泳力別にクラス編成されて受講。なんですが。
とことんマイペースな次男。
どう見ても先生の話を聞いてない。周りの子が動いて、初めて「おっ。なにやら動くのだな」という感じで「よっこらせ」と立ち上がる……。列に並んでいる間も、あっちへフラフラこっちへフラフラ。私の方見て満面の笑みで手を振ってる。
うん。楽しそうだし、母ちゃんも手を振り返すんだけどね。前見て前。がんがん順番抜かされてるから。
そんなこんなで授業の終わり頃に、
すべり台を滑って水に入る→そのまま先生の元まで泳ぐ→プールから上がってすべり台にまた並ぶ という内容をやっていたんですが、泳ぎ終えてプールから上がった次男。左右を見てすこーし迷った末に……
隣のクラスの列に並んだorz
なんでわざわざ遠い方の列に並びに行く。息子よ。
隣は、少し泳ぎの上手な子たちのクラス。最後尾にフツーに並んでいた次男に先生が気づかず、そのままプールサイドに誘導されてバタ足始めちゃったよ……。
どうしようと慌てる夫と私。するとすかさず長男が近くにいた先生に「せんせー! (次男)が隣に入った!」
何の事かと首をかしげる先生に事情を説明すると「えっ。そりゃいかん」と急いで中に入り、元のクラスに連れ戻していただきました^^;
その後は最後まで外れることなく、体験教室は何とか無事に終了。
あとで先生からコメントいただきました。
「ちょっとぼーっとしてるところがありましたけど、これから団体行動に慣れると思いますよ」
保育園生活4年目にして、いまだ団体行動に慣れず……。
本人はかなり楽しかったようなので、まあいいか。
楽しみだね。スイミング。
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2014.07.11(Fri):黄昏人
第四章 四話
ゆらゆらと揺れ動く水の幕に、ゼフィオンは身構えた。
「貴様……水を使う力も……」
「ふふふ。“盾”だけじゃありません。水も使えるんですよ、私」
幕は二手に分かれ、リーヌの左右に控えた。いつでもゼフィオンに襲いかかるようにしているのか、刃のごとく鋭利な形になっている。
「なぜ……そんな大きな力を持っている? よほどの魔力がなければ、そこまで自然を操ることはできない。元は人間であった黄昏人に、そんな能力はないはずだ」
ゼフィオンの疑問に、リーヌは静かに微笑を浮かべた。
「普通の人間ならば、そうでしょう。ですが、私は元々“魔術師”でしたから」
「魔術師? ――なるほど、下地はあったというわけか」
「はい」
水の刃は、不気味に揺らめいてゼフィオンを威嚇する。ゼフィオンは手元に武器がない事を苦々しく思いながら、足元にあった太い木の枝を手探りで取った。接近戦で三対一となると、不利であるのは間違いない。しかも、そのうち二つは生物ではない。水の変化した化物なのだ。
「来い!!」
できるだけ敵を河から離して戦うべきだと判断した彼は、その場から更に数歩退き、大声を上げて挑発する。リーヌの表情がピクリと引きつると、指示を与えるべく両手をさっと振った。瞬時に、両脇に控えていた水の刃がゼフィオンめがけて飛んでくる。
「うおぉぉぉッ!」
気合とともに、水の刃の一つを真横に薙ぎ払った。ざっと飛沫が散り、化物は真っ二つに裂かれる。確かな手応えを感じてゼフィオンは動きを止めた。が、次の瞬間。
「ぐっ!」
飛び散った水飛沫が無数の小さな刃となり、彼の体を切り裂いていた。手足や腹部に鋭い痛みが走る。
「うふふ。痛いでしょう?研ぎ澄まされた水は、鉄すら斬るんですよ。どうです、もっと味わいますか?それとも肯いてくれますか?私と一緒にいれば、これ以上痛い思いはしなくて済みますけれど」
「黙れ! 何があろうと、貴様と一緒になどいるものか!!」
叫ぶなり、またも水の刃が体を裂いていく。今度は飛沫ではない。通常の長剣以上はあろうかという長さの水刃が、両側から彼の頬と腿に赤い筋を引いた。先程よりも数段激しい痛みが体を貫く。
「さあ、どうします? おとなしく私と共にいてくださいますか?」
「断る!」
「強情なんですね。もっと苦痛を受けないと、分からないのかしら」
いまや立場は完全に逆転していた。リーヌは見下すような視線をゼフィオンに投げつけてくる。それは、絶対に自分が勝つという自信に満ちた目だった。
ゼフィオンは、油断なく化物たちの動きを見ながら、何とかして打ち破る方法を考える。
彼は、黄昏人としては異端ともいえる混血である。そのため、他の黄昏人よりも魔力は強く、純血の下級魔族たち程度の魔力はあるつもりだった。だが、その力を持ってしてもリーヌの水を操る力には叶わないかもしれない。
(どうする……)
助けを求めようにも、冥界とは一切連絡が取れない。死神たちも、所構わず人間界に現れたりはできないのだ。媒体となる存在――すなわち魔族の血を持つ黄昏人や死にゆこうとする魂、あるいは魔法陣など――がない限り、こちらへの道は閉ざされている。“盾”の魔力で気配を消されてしまっているゼフィオンに、冥界とつながる術はなかった。
「化物め……」
ゼフィオンのつぶやきに、リーヌは可笑しそうに笑った。
「あなたにそんな事を言う資格なんて、ないと思いますけれど」
再び手を上げる。二本の水の刃は、飼いならされた猟犬のようだ。俊敏に反応し、さっとその姿を崩して再び幕の姿となる。
「さあ、戻りましょう。料理が冷めてしまいますよ」
まるで子供に言い聞かせるような口調で告げると、リーヌは上げた手をゆっくりと下ろした。水は忠実に彼女の指示に従い、ゼフィオンの顔へと覆いかぶさってくる。とっさに腕で顔を庇ったが、水の幕は、あっという間に彼の頭部全体を包み込んだ。
「う……ぁ……っ」
息ができない。
鼻と口から大量に水が入り込んできた。吐き出そうとするが、すっぽりと水に覆われているため、咳き込む事すらできず、もがく。空気を求めれば求めるほど、代わりに水が浸入してくる。鼻の奥と喉がカッと熱くなった。あの激流に呑まれても感じなかったはずの、 水に対する恐怖が沸き起こる。
ガクリと膝をついたゼフィオンを見て、リーヌは満足そうに肯くと小さく指を鳴らした。水がすぐさまゼフィオンの頭部から引いていく。
激しく咳き込み、水を吐き出しながら、ゼフィオンは地に突っ伏した。
「あまり手を煩わせないでくださいね」
じゃり、と石を踏む音が目の前で響いた。苦しさに閉じていた目を開くと、鼻先にリーヌの細い足があった。
「これから私たちは、仲良くやっていかなければならないんですから」
「断ると……言っている」
苦しい息を抑え込み、ゼフィオンは即座に拒んだ。よもやこの期に及んで拒まれるとは思っていなかったのか、リーヌの顔が露骨に強張る。
「いい加減にしてください!あなたが私に逆らえないのは、十分に分かったでしょう!」
ゼフィオンは地面に倒れたまま、肩で大きく息をつく。リーヌは屈みこむと、彼の苦しげな顔を覗き込んできた。翳りのある淡い茶色の瞳と漆黒の瞳が、静かに火花を散らす。
「――お前は」
長い沈黙を破ったのはゼフィオンだった。荒い息の合間を縫って、搾り出すように彼は言った。
「黄昏人になって、不幸だと思うか」
「え?」
「人でなくなったのは、不幸以外でないと考えているのか」
唐突な質問に、リーヌは戸惑って視線を逸らした。だが、無視できなかったのか震える声で答えた。
「当然……でしょう。こんな運命を受け入れるなんて……私にはできません」
「せめて、まだ幸か不幸か決めるべきではないとは、考えられないか」
「……馬鹿なことを言わないでください。そんなこと、思えるわけがないでしょう」
「そうか」
ゼフィオンは、ようやく息を落ち着かせ、上体を起こした。水を従えた哀れな黄昏人を見つめる。その目には、先程までの憤怒に代わり悲哀が満ちていた。
「お前は……アスレシアとは違うな」
訝しげにリーヌは顔を上げた。
「アスレシア?」
ゼフィオンは肯く。
「あの時、俺と一緒にいた女だ。あいつも黄昏人だ。お前とまったく同じで、元は人間だった。ある事情から死に直面したところを、我が主が血を与えたんだ。あいつも、まだ完全には今の自分を受け入れてはいない。だが、あいつは……お前と違って逃げようとはしていない」
リーヌはそれ以上聞きたくないといわんばかりに激しくかぶりを振ると、両手で耳を塞いだ。
「馬鹿なこと言わないで! あなたは私から逃れるために、そんな出鱈目を!」
「信じないなら、それでいい」
ゼフィオンは、強引にリーヌの言葉を斬り捨てた。
「ただ俺が感じた事を言っただけだからな。信じるも信じないもお前の勝手だ」
「………」
リーヌの肩が小さく震えた。彼女の背後に控える水の幕も、ゆらりと大きく揺れる。
「黄昏人が嫌だと言うくせに、その力を使う。その矛盾に、お前自身気づいているのだろう。……哀れな女だな」
ゼフィオンは立ち上がると、服の埃を払った。ぶるりと頭を振って水を飛ばす。リーヌはぐったりと座り込んだまま、動こうとはしなかった。
「俺は行くぞ。世話になったことに対してだけ礼を言う。だが、それ以外に関しては、お前を許すつもりはない。二度と顔は見せるな。次に顔を見せたら容赦はしない」
ゼフィオンは、ほんの少しリーヌの反応を待った。だが、彼女が何の動きも示さないと見て取ると背を向けた。
「どうしても行くんですか?」
足を踏み出したその背に、か細い声がかかる。ゼフィオンは足を止めた。
「ああ」
「あの女性の元へ戻るんですか?」
わずかに振り返り、目の端で彼女を捉えた。リーヌは、力ずくでも彼を留め置こうという気持ちはすっかり失せてしまったようだった。ただ力なくうつむいている。
「……大切な人なんですね。それは……おなじ黄昏人だから?」
ゼフィオンは、唇の端に笑いを浮かべる。
「違うな。そういう問題ではない。あいつは、俺にとって……」
その先の言葉を呑み込んだ。図らずも答えを導き出してしまったことに気づき、微笑を深める。知ってしまった己の心は、もうたばかる事が出来ないではないか。
蒼空を仰ぐと、再び歩き出す。
翌日。
今までの空白が嘘のように、ゼフィオンの頭上で大鴉と黒猫が笑った。
「貴様……水を使う力も……」
「ふふふ。“盾”だけじゃありません。水も使えるんですよ、私」
幕は二手に分かれ、リーヌの左右に控えた。いつでもゼフィオンに襲いかかるようにしているのか、刃のごとく鋭利な形になっている。
「なぜ……そんな大きな力を持っている? よほどの魔力がなければ、そこまで自然を操ることはできない。元は人間であった黄昏人に、そんな能力はないはずだ」
ゼフィオンの疑問に、リーヌは静かに微笑を浮かべた。
「普通の人間ならば、そうでしょう。ですが、私は元々“魔術師”でしたから」
「魔術師? ――なるほど、下地はあったというわけか」
「はい」
水の刃は、不気味に揺らめいてゼフィオンを威嚇する。ゼフィオンは手元に武器がない事を苦々しく思いながら、足元にあった太い木の枝を手探りで取った。接近戦で三対一となると、不利であるのは間違いない。しかも、そのうち二つは生物ではない。水の変化した化物なのだ。
「来い!!」
できるだけ敵を河から離して戦うべきだと判断した彼は、その場から更に数歩退き、大声を上げて挑発する。リーヌの表情がピクリと引きつると、指示を与えるべく両手をさっと振った。瞬時に、両脇に控えていた水の刃がゼフィオンめがけて飛んでくる。
「うおぉぉぉッ!」
気合とともに、水の刃の一つを真横に薙ぎ払った。ざっと飛沫が散り、化物は真っ二つに裂かれる。確かな手応えを感じてゼフィオンは動きを止めた。が、次の瞬間。
「ぐっ!」
飛び散った水飛沫が無数の小さな刃となり、彼の体を切り裂いていた。手足や腹部に鋭い痛みが走る。
「うふふ。痛いでしょう?研ぎ澄まされた水は、鉄すら斬るんですよ。どうです、もっと味わいますか?それとも肯いてくれますか?私と一緒にいれば、これ以上痛い思いはしなくて済みますけれど」
「黙れ! 何があろうと、貴様と一緒になどいるものか!!」
叫ぶなり、またも水の刃が体を裂いていく。今度は飛沫ではない。通常の長剣以上はあろうかという長さの水刃が、両側から彼の頬と腿に赤い筋を引いた。先程よりも数段激しい痛みが体を貫く。
「さあ、どうします? おとなしく私と共にいてくださいますか?」
「断る!」
「強情なんですね。もっと苦痛を受けないと、分からないのかしら」
いまや立場は完全に逆転していた。リーヌは見下すような視線をゼフィオンに投げつけてくる。それは、絶対に自分が勝つという自信に満ちた目だった。
ゼフィオンは、油断なく化物たちの動きを見ながら、何とかして打ち破る方法を考える。
彼は、黄昏人としては異端ともいえる混血である。そのため、他の黄昏人よりも魔力は強く、純血の下級魔族たち程度の魔力はあるつもりだった。だが、その力を持ってしてもリーヌの水を操る力には叶わないかもしれない。
(どうする……)
助けを求めようにも、冥界とは一切連絡が取れない。死神たちも、所構わず人間界に現れたりはできないのだ。媒体となる存在――すなわち魔族の血を持つ黄昏人や死にゆこうとする魂、あるいは魔法陣など――がない限り、こちらへの道は閉ざされている。“盾”の魔力で気配を消されてしまっているゼフィオンに、冥界とつながる術はなかった。
「化物め……」
ゼフィオンのつぶやきに、リーヌは可笑しそうに笑った。
「あなたにそんな事を言う資格なんて、ないと思いますけれど」
再び手を上げる。二本の水の刃は、飼いならされた猟犬のようだ。俊敏に反応し、さっとその姿を崩して再び幕の姿となる。
「さあ、戻りましょう。料理が冷めてしまいますよ」
まるで子供に言い聞かせるような口調で告げると、リーヌは上げた手をゆっくりと下ろした。水は忠実に彼女の指示に従い、ゼフィオンの顔へと覆いかぶさってくる。とっさに腕で顔を庇ったが、水の幕は、あっという間に彼の頭部全体を包み込んだ。
「う……ぁ……っ」
息ができない。
鼻と口から大量に水が入り込んできた。吐き出そうとするが、すっぽりと水に覆われているため、咳き込む事すらできず、もがく。空気を求めれば求めるほど、代わりに水が浸入してくる。鼻の奥と喉がカッと熱くなった。あの激流に呑まれても感じなかったはずの、 水に対する恐怖が沸き起こる。
ガクリと膝をついたゼフィオンを見て、リーヌは満足そうに肯くと小さく指を鳴らした。水がすぐさまゼフィオンの頭部から引いていく。
激しく咳き込み、水を吐き出しながら、ゼフィオンは地に突っ伏した。
「あまり手を煩わせないでくださいね」
じゃり、と石を踏む音が目の前で響いた。苦しさに閉じていた目を開くと、鼻先にリーヌの細い足があった。
「これから私たちは、仲良くやっていかなければならないんですから」
「断ると……言っている」
苦しい息を抑え込み、ゼフィオンは即座に拒んだ。よもやこの期に及んで拒まれるとは思っていなかったのか、リーヌの顔が露骨に強張る。
「いい加減にしてください!あなたが私に逆らえないのは、十分に分かったでしょう!」
ゼフィオンは地面に倒れたまま、肩で大きく息をつく。リーヌは屈みこむと、彼の苦しげな顔を覗き込んできた。翳りのある淡い茶色の瞳と漆黒の瞳が、静かに火花を散らす。
「――お前は」
長い沈黙を破ったのはゼフィオンだった。荒い息の合間を縫って、搾り出すように彼は言った。
「黄昏人になって、不幸だと思うか」
「え?」
「人でなくなったのは、不幸以外でないと考えているのか」
唐突な質問に、リーヌは戸惑って視線を逸らした。だが、無視できなかったのか震える声で答えた。
「当然……でしょう。こんな運命を受け入れるなんて……私にはできません」
「せめて、まだ幸か不幸か決めるべきではないとは、考えられないか」
「……馬鹿なことを言わないでください。そんなこと、思えるわけがないでしょう」
「そうか」
ゼフィオンは、ようやく息を落ち着かせ、上体を起こした。水を従えた哀れな黄昏人を見つめる。その目には、先程までの憤怒に代わり悲哀が満ちていた。
「お前は……アスレシアとは違うな」
訝しげにリーヌは顔を上げた。
「アスレシア?」
ゼフィオンは肯く。
「あの時、俺と一緒にいた女だ。あいつも黄昏人だ。お前とまったく同じで、元は人間だった。ある事情から死に直面したところを、我が主が血を与えたんだ。あいつも、まだ完全には今の自分を受け入れてはいない。だが、あいつは……お前と違って逃げようとはしていない」
リーヌはそれ以上聞きたくないといわんばかりに激しくかぶりを振ると、両手で耳を塞いだ。
「馬鹿なこと言わないで! あなたは私から逃れるために、そんな出鱈目を!」
「信じないなら、それでいい」
ゼフィオンは、強引にリーヌの言葉を斬り捨てた。
「ただ俺が感じた事を言っただけだからな。信じるも信じないもお前の勝手だ」
「………」
リーヌの肩が小さく震えた。彼女の背後に控える水の幕も、ゆらりと大きく揺れる。
「黄昏人が嫌だと言うくせに、その力を使う。その矛盾に、お前自身気づいているのだろう。……哀れな女だな」
ゼフィオンは立ち上がると、服の埃を払った。ぶるりと頭を振って水を飛ばす。リーヌはぐったりと座り込んだまま、動こうとはしなかった。
「俺は行くぞ。世話になったことに対してだけ礼を言う。だが、それ以外に関しては、お前を許すつもりはない。二度と顔は見せるな。次に顔を見せたら容赦はしない」
ゼフィオンは、ほんの少しリーヌの反応を待った。だが、彼女が何の動きも示さないと見て取ると背を向けた。
「どうしても行くんですか?」
足を踏み出したその背に、か細い声がかかる。ゼフィオンは足を止めた。
「ああ」
「あの女性の元へ戻るんですか?」
わずかに振り返り、目の端で彼女を捉えた。リーヌは、力ずくでも彼を留め置こうという気持ちはすっかり失せてしまったようだった。ただ力なくうつむいている。
「……大切な人なんですね。それは……おなじ黄昏人だから?」
ゼフィオンは、唇の端に笑いを浮かべる。
「違うな。そういう問題ではない。あいつは、俺にとって……」
その先の言葉を呑み込んだ。図らずも答えを導き出してしまったことに気づき、微笑を深める。知ってしまった己の心は、もうたばかる事が出来ないではないか。
蒼空を仰ぐと、再び歩き出す。
翌日。
今までの空白が嘘のように、ゼフィオンの頭上で大鴉と黒猫が笑った。
2014.07.11(Fri):黄昏人
第四章 三話
ぼんやりとゼフィオンは川面を眺めていた。
あの激流と同じ流れとは到底思えないほど、水は穏やかに流れている。
(ずいぶん下流まで流されたのだな)
彼が黄昏人の女――名をリーヌといった――と過ごしてから、数日が経っていた。
体の痛みもかなり引いた。とはいえ、剣を振り回すとまだまだ痛みはしたが。
「弓を手に入れないといけないな……」
足元に落ちていた細い枝を拾い上げ、軽くしならせる。愛用の長弓は、あの流れの中で折れて行方が分からなくなってしまった。彼は剣士ではなく、あくまでも射手である。弓と矢がなければ十分に力を発揮できぬのだ。
「そろそろ、何とかしなければならないようだ」
ゼフィオンはつぶやくと、枝を荒っぽく川へと投げ込んだ。
この数日、コズウェイルはおろかペンドラゴンもネイヴァも彼の前には現れていなかった。そのため、アスレシアの様子もサニト・ベイの動きも皆目分からない。こんな事は、今までになかった。
(やはり、あいつか)
当初、何となく感じていた疑惑は、いまや完全に確信へと変わっていた。おのれが外部とまったく連絡が取れなくなっているのは、恐らくリーヌが原因だ。
「ゼフィオン、ここにいたんですね」
不意に声をかけられた。ちょうど彼女のことを考えていたところであったので、ドキリとする。
「何だ。俺を探していたのか」
「はい。食事の用意ができたので、呼びに来ました」
リーヌはゼフィオンの側にやってくると、静かに微笑んだ。だが、ゼフィオンはその笑顔にこたえる気にはなれない。重くため息をつく。
「リーヌ」
「はい」
まるで妻のように寄り添ってくる彼女から少し身を引き、ゼフィオンは言った。
「俺は、これ以上ここにいるわけにはいかない。明日にでもここを発とうと思う」
「………」
リーヌの瞳がゼフィオンを捉えた。と、その顔がみるみるうちに歪む。栗色の髪を激しく揺らしてかぶりを振り、彼女は両手を揉み絞るようにして叫んだ。
「嫌です。行っては駄目です。……行かないでください!」
「リーヌ、しかし……」
「お願いです! 行かないで!! 私の側から離れないで!」
あまりに激しい拒絶に、ゼフィオンは戸惑いを隠せなかった。同時に、強い警戒心が沸き起こってくる。明らかに普通の反応ではない。
「いったい、お前は何がしたいんだ? 俺を川に落としたかと思えば、こうして手厚く手当てをしてくれる。そして、俺が去るのをそれほどまでに拒む。お前は……お前の目的は、いったい何だ?」
リーヌは、しゃくりあげながら両の拳を力一杯握りしめた。涙で濡れたその眼が、少しずつ暗い輝きを帯び始めたことに、ゼフィオンは気づく。
(ついに本性を現したか……?)
さりげなく距離を取り、彼女の動きに神経を集中した。リーヌは折れそうに華奢なその体を震わせると、吐き出すように一言。
「――行かせない」
背筋が冷たくなるほどの低く迫力のこもった声。ゼフィオンは反射的に身構える。だが、女にはそんな行動はまったく目に入っていないようだった。暗い瞳をますます翳らせ、うわごとのように声を投げ続けてきた。
「あなたが行ってしまえば、またニスラに見つかるんです。私があの悪魔から逃れる方法は、あなたと一緒にいることだけ……」
「それは……」
どういう事なのか。言いかけて、ゼフィオンはふと思い出した。以前、何かの書物で読んだ事がある。人間から黄昏人になった者の中には、彼のような混血の黄昏人や純血の魔族にはない特殊な魔力を身につける者がいる。自然の精霊と会話を交わせる“幻話”、周囲の人間や物を介して特定の人間の所在を感じる“探索”などがそうだ。ちなみに、アスレシアが度々サニト・ベイの気配を感じるのは、彼女が“探索”の魔力を得たためである。
そんな魔力の中に、極めて珍しい“盾”というものがある。これは、他の黄昏人の力を利用して自分の気配を一切消す魔力で、盾にしたものだけでなく、された者の気配をも消してしまうという特徴がある。つまり、相手の魔力に自分の魔力をぶつけて相殺してしまうのだ。稀有な力のため、ゼフィオンは未だかつてその魔力の保有者を見たことはなかった。
「“盾”か」
「そうです」
言葉を交わしながらも、リーヌはじりじりと近づいてきた。ゼフィオンは後方に下がろうとしたが、運の悪いことにすぐ後ろに大木があった。地表に出た木の根に足をとられてバランスを崩し、相手から一瞬目を離す。
(ちっ……)
大木にもたれかかるようにして、何とか態勢を整えると顔を上げる。途端に息を呑んだ。――すぐ目の前にリーヌの暗い瞳があったのだ。
ゼフィオンは、射すくめられたように怯んだ。漂う狂気に、全身が総毛立った。
真っ赤に充血した瞳を彼に注ぎ、リーヌはポツリポツリと話し始める。
「私にこの力があると教えてくれたのは、ニスラ本人でした。まさか私が逃げ出すなんて思ってもいなかったのでしょうね……。いい気味だわ」
「お前は、ニスラ様の手から逃れるために、俺を利用したんだな」
「ええ……。正確には利用している、ですけれど。この先も、私たちはずっと一緒です。ずっと、ずっと、私が平凡な人間としてその生を終えるまで、あなたは私の傍らに……」
「ふざけるな!!」
ゼフィオンは、リーヌの言葉を断ち切り、叫んだ。
「俺は、貴様の人生を守るために存在しているわけではないぞ!」
怒りに任せて腕を伸ばし、リーヌの胸ぐらを掴んだ。相手が女性であるという事も、どこかに消し飛んでいた。リーヌの顔が驚愕に歪む。
「やめて下さい!」
弱々しく抗うリーヌに、ゼフィオンは忌々しげに舌打ちをして手を離した。華奢な体躯が、そのままドサリと地面に落ちる。リーヌは激しく咳き込みながら、怒りに満ちた目を彼に向けた。
「ひどい……。女に向かって暴力を振るうなんて……」
「あいにく俺は紳士ではないからな」
これ以上ないほどの冷たい視線で、ゼフィオンはリーヌを見下ろした。
「それに、貴様はこの俺を騙して利用しようとした。己の行動を棚に上げて、男だの女だの見当違いなことを言うな」
リーヌは、キュッと唇を噛む。
「最低……。やっぱり悪魔ですね」
「そんなことは、初めから分かっていただろう」
ゼフィオンは吐き捨てた。見た目は人間とは変わらぬが、人間の常識を押しつけられても迷惑なだけだ。自分は人間ではない。魔族として生きている。
「他人を騙しておいて被害者面をする女よりは、よほどましだ」
「………」
リーヌは、ふらつきながら立ち上がった。そして、数歩ほど下がると、川を背にして彼と向き合う。
「行かせない」
また、同じ事を言う。まるで呪文であるかのように、低くささやくように。
「あなたを行かせない。たとえ、私を傷つけようと、私を憎もうと……。私は、あなたを手放すわけにはいかない」
「無駄だ。俺は行く。今すぐにな」
「行かせない!」
不意に。
ゼフィオンの視界が大きく揺れた。――いや、揺れたように見えたのだ。
「……!?」
眼前のリーヌの姿が一変していた。
「なっ……」
言葉が続かない。
髪を乱して立つリーヌの背後に、巨大な幕があった。彼女の背を包むように広がる、水の幕が。
「馬鹿な……川の水が……!」
リーヌを守るように水は揺れる。その出現があまりにも突然であったので、ゼフィオンの目には景色が揺れたように見えたのだ。水は、生物のごとくゆらゆらと空中で踊る。通常の川の水というよりは、粘着質のあるゼリーのような感じがした。
リーヌの唇がゆっくりとつり上がった。狂気の微笑。ゼフィオンは戦慄した。そして、その時になってようやく理解したのだ。
共に激流に呑まれた彼女が、なぜ怪我の一つも負っていなかったのかを。
あの激流と同じ流れとは到底思えないほど、水は穏やかに流れている。
(ずいぶん下流まで流されたのだな)
彼が黄昏人の女――名をリーヌといった――と過ごしてから、数日が経っていた。
体の痛みもかなり引いた。とはいえ、剣を振り回すとまだまだ痛みはしたが。
「弓を手に入れないといけないな……」
足元に落ちていた細い枝を拾い上げ、軽くしならせる。愛用の長弓は、あの流れの中で折れて行方が分からなくなってしまった。彼は剣士ではなく、あくまでも射手である。弓と矢がなければ十分に力を発揮できぬのだ。
「そろそろ、何とかしなければならないようだ」
ゼフィオンはつぶやくと、枝を荒っぽく川へと投げ込んだ。
この数日、コズウェイルはおろかペンドラゴンもネイヴァも彼の前には現れていなかった。そのため、アスレシアの様子もサニト・ベイの動きも皆目分からない。こんな事は、今までになかった。
(やはり、あいつか)
当初、何となく感じていた疑惑は、いまや完全に確信へと変わっていた。おのれが外部とまったく連絡が取れなくなっているのは、恐らくリーヌが原因だ。
「ゼフィオン、ここにいたんですね」
不意に声をかけられた。ちょうど彼女のことを考えていたところであったので、ドキリとする。
「何だ。俺を探していたのか」
「はい。食事の用意ができたので、呼びに来ました」
リーヌはゼフィオンの側にやってくると、静かに微笑んだ。だが、ゼフィオンはその笑顔にこたえる気にはなれない。重くため息をつく。
「リーヌ」
「はい」
まるで妻のように寄り添ってくる彼女から少し身を引き、ゼフィオンは言った。
「俺は、これ以上ここにいるわけにはいかない。明日にでもここを発とうと思う」
「………」
リーヌの瞳がゼフィオンを捉えた。と、その顔がみるみるうちに歪む。栗色の髪を激しく揺らしてかぶりを振り、彼女は両手を揉み絞るようにして叫んだ。
「嫌です。行っては駄目です。……行かないでください!」
「リーヌ、しかし……」
「お願いです! 行かないで!! 私の側から離れないで!」
あまりに激しい拒絶に、ゼフィオンは戸惑いを隠せなかった。同時に、強い警戒心が沸き起こってくる。明らかに普通の反応ではない。
「いったい、お前は何がしたいんだ? 俺を川に落としたかと思えば、こうして手厚く手当てをしてくれる。そして、俺が去るのをそれほどまでに拒む。お前は……お前の目的は、いったい何だ?」
リーヌは、しゃくりあげながら両の拳を力一杯握りしめた。涙で濡れたその眼が、少しずつ暗い輝きを帯び始めたことに、ゼフィオンは気づく。
(ついに本性を現したか……?)
さりげなく距離を取り、彼女の動きに神経を集中した。リーヌは折れそうに華奢なその体を震わせると、吐き出すように一言。
「――行かせない」
背筋が冷たくなるほどの低く迫力のこもった声。ゼフィオンは反射的に身構える。だが、女にはそんな行動はまったく目に入っていないようだった。暗い瞳をますます翳らせ、うわごとのように声を投げ続けてきた。
「あなたが行ってしまえば、またニスラに見つかるんです。私があの悪魔から逃れる方法は、あなたと一緒にいることだけ……」
「それは……」
どういう事なのか。言いかけて、ゼフィオンはふと思い出した。以前、何かの書物で読んだ事がある。人間から黄昏人になった者の中には、彼のような混血の黄昏人や純血の魔族にはない特殊な魔力を身につける者がいる。自然の精霊と会話を交わせる“幻話”、周囲の人間や物を介して特定の人間の所在を感じる“探索”などがそうだ。ちなみに、アスレシアが度々サニト・ベイの気配を感じるのは、彼女が“探索”の魔力を得たためである。
そんな魔力の中に、極めて珍しい“盾”というものがある。これは、他の黄昏人の力を利用して自分の気配を一切消す魔力で、盾にしたものだけでなく、された者の気配をも消してしまうという特徴がある。つまり、相手の魔力に自分の魔力をぶつけて相殺してしまうのだ。稀有な力のため、ゼフィオンは未だかつてその魔力の保有者を見たことはなかった。
「“盾”か」
「そうです」
言葉を交わしながらも、リーヌはじりじりと近づいてきた。ゼフィオンは後方に下がろうとしたが、運の悪いことにすぐ後ろに大木があった。地表に出た木の根に足をとられてバランスを崩し、相手から一瞬目を離す。
(ちっ……)
大木にもたれかかるようにして、何とか態勢を整えると顔を上げる。途端に息を呑んだ。――すぐ目の前にリーヌの暗い瞳があったのだ。
ゼフィオンは、射すくめられたように怯んだ。漂う狂気に、全身が総毛立った。
真っ赤に充血した瞳を彼に注ぎ、リーヌはポツリポツリと話し始める。
「私にこの力があると教えてくれたのは、ニスラ本人でした。まさか私が逃げ出すなんて思ってもいなかったのでしょうね……。いい気味だわ」
「お前は、ニスラ様の手から逃れるために、俺を利用したんだな」
「ええ……。正確には利用している、ですけれど。この先も、私たちはずっと一緒です。ずっと、ずっと、私が平凡な人間としてその生を終えるまで、あなたは私の傍らに……」
「ふざけるな!!」
ゼフィオンは、リーヌの言葉を断ち切り、叫んだ。
「俺は、貴様の人生を守るために存在しているわけではないぞ!」
怒りに任せて腕を伸ばし、リーヌの胸ぐらを掴んだ。相手が女性であるという事も、どこかに消し飛んでいた。リーヌの顔が驚愕に歪む。
「やめて下さい!」
弱々しく抗うリーヌに、ゼフィオンは忌々しげに舌打ちをして手を離した。華奢な体躯が、そのままドサリと地面に落ちる。リーヌは激しく咳き込みながら、怒りに満ちた目を彼に向けた。
「ひどい……。女に向かって暴力を振るうなんて……」
「あいにく俺は紳士ではないからな」
これ以上ないほどの冷たい視線で、ゼフィオンはリーヌを見下ろした。
「それに、貴様はこの俺を騙して利用しようとした。己の行動を棚に上げて、男だの女だの見当違いなことを言うな」
リーヌは、キュッと唇を噛む。
「最低……。やっぱり悪魔ですね」
「そんなことは、初めから分かっていただろう」
ゼフィオンは吐き捨てた。見た目は人間とは変わらぬが、人間の常識を押しつけられても迷惑なだけだ。自分は人間ではない。魔族として生きている。
「他人を騙しておいて被害者面をする女よりは、よほどましだ」
「………」
リーヌは、ふらつきながら立ち上がった。そして、数歩ほど下がると、川を背にして彼と向き合う。
「行かせない」
また、同じ事を言う。まるで呪文であるかのように、低くささやくように。
「あなたを行かせない。たとえ、私を傷つけようと、私を憎もうと……。私は、あなたを手放すわけにはいかない」
「無駄だ。俺は行く。今すぐにな」
「行かせない!」
不意に。
ゼフィオンの視界が大きく揺れた。――いや、揺れたように見えたのだ。
「……!?」
眼前のリーヌの姿が一変していた。
「なっ……」
言葉が続かない。
髪を乱して立つリーヌの背後に、巨大な幕があった。彼女の背を包むように広がる、水の幕が。
「馬鹿な……川の水が……!」
リーヌを守るように水は揺れる。その出現があまりにも突然であったので、ゼフィオンの目には景色が揺れたように見えたのだ。水は、生物のごとくゆらゆらと空中で踊る。通常の川の水というよりは、粘着質のあるゼリーのような感じがした。
リーヌの唇がゆっくりとつり上がった。狂気の微笑。ゼフィオンは戦慄した。そして、その時になってようやく理解したのだ。
共に激流に呑まれた彼女が、なぜ怪我の一つも負っていなかったのかを。
2014.07.11(Fri):黄昏人
第四章 二話
起き上がろうとした身体に、鈍い痛みが走る。ゼフィオンは息を呑んだ。
「……っ!」
女が優しく彼の身体を押しとどめ、再び寝台へと寝かせた。荒い息をつき、周りを見回す。粗末な納屋のようだ。干草を利用して作られた簡素なベッドの上に寝かされていた。
「お前は……」
言いながら、ゼフィオンは川辺での出来事を思い出した。間違いない。目の前にいるこの女が、彼を激流へと引きずり込んだのだ。
言葉を切り、じっと女を観察する。
どこにでもいる平凡で善良そうな女だ。何の特徴もない。
「なぜ、あんな事をした?」
できるだけ声を静めて、女に問いかけた。ゼフィオンの汗を拭おうとしていた女の手が、ピタリと止まる。
「………」
「お前の意思か? 誰かに指図されたのか?」
女は、唇を噛んでうつむく。その様子に、ゼフィオンは眉をひそめた。
(サニト・ベイの指示や暗示ではなさそうだな……)
もしも他人の意思で取った行動なら、言い訳の一つでも口にするだろう。だが、女にはまったくその気配はない。むしろ自分を責めているようにも見える。
「理由があるのだろう。なぜ言えない?」
やはり口を開こうとはしない。ゼフィオンは、辛抱強く待った。やがて、女は答える代わりに腕を差し出すと、ゆっくりと袖を捲った。
ゼフィオンの目が吸い寄せられる。
女の白く細い腕。その肘の下あたりに、くっきりと黒い痣のようなものがあった。反射的に力一杯女の腕をつかむ。女は痛みに顔をしかめたが、声は出さず、じっと彼の顔を見つめていた。
「お前も黄昏人か……」
ゼフィオンは、驚きを露わにして女の顔を見た。
黄昏人は、身体のどこかに痣を持つ。ゼフィオンのように生まれながらの者も、アスレシアのように元は人間であった者も、それは同じだ。その痣は刻印と呼ばれ、魔王の紋章である鋭利な翼の形をしているのである。
女の腕にあるのは、紛れもなく黄昏人の刻印だった。
「こんなところで同類と会うとはな……」
女は同意を示して小さく肯くと、ゼフィオンの手を振り払い刻印を服の下へと隠した。ゼフィオンは、信じられぬ面持ちで女を見つめる。
「冥界でもない上に魂を前にしているわけでもない。こんな状況で異なる主を持つ黄昏人と会うとは思わなかった」
「私は、自分以外の黄昏人と出会ったのは、初めてです」
女が初めて口を開いた。その言葉に、ゼフィオンはふと自分の脇腹に目を落とす。彼の刻印は、左の脇腹にあるのだ。
「なるほど。服を切られたので見えたのか」
あの白衣の狂信者たちと闘っているうちに、服を裂かれていたようだ。刻印が顔を覗かせていた。
「俺が黄昏人だったから、川へ引きずり込んだのか」
「はい」
「何のために?」
「………」
重い沈黙が流れる。女に答える意思がないと判断したゼフィオンは、すぐに質問を変えた。
「おまえの主は誰なんだ?」
「……ニスラ」
聞くなりゼフィオンの表情が険しくなる。それは、冥界の魔族なら誰もが見せるであろう反応だった。死神に仕える魔族たちが、最も聞きたくない名であったのだ。
ニスラは、冥界の死神の一人である。爵位は子爵。つまり、コズウェイルやアベリアルよりも下級の貴族になる。だが、地位は低くても、ニスラの持つ魂の豊富さは他の追随を許さない。欲の権化のような歪んだ性格のこの貴族は、魂を手に入れるためならば、同じ魔族を騙し傷つけることも厭わないのだ。かつて、コズウェイルもほぼ手中にしかけていた上質の魂を、あっさりと横合いから奪われた事がある。その折には、ゼフィオンの先輩に当たる魔族が二人、命を落としている。
貪欲、卑劣、酷薄。この三つの言葉が、ニスラを表すのに最も適切な単語なのである。
「ニスラ様の家臣が、なぜあんな邪教集団の生贄などになっていたのだ?」
何となくその理由を感じ取ったが、ゼフィオンはあえて訊ねた。
「……逃げる途中だったのです」
「逃げる?」
女はうなずくと、堰を切ったように話し始めた。
「はい。私は、逃げていたのです。ニスラの手から。……私は、死神の下僕になどなりたくありません。私は人間です。人として生きたいのです。それなのに、ニスラは人間の魂を手に入れるために私を利用しようとするのです。命を助けてやったのだから、自分に仕えるのが義務だと言って……」
(同じだな)
ゼフィオンは、アスレシアの気丈な顔を思い浮かべ、心の中でつぶやいた。
アスレシアも本来死ぬはずであったところを、コズウェイルの血をうけて黄昏人となった。この女も何らかの事情があってニスラに命を助けられ、黄昏人となったのだろう。
(元は人であったのだから、人間として生きたいと思うのも当然か)
アスレシアも未だ人間としての意識の方が強いし、コズウェイルの配下であるとは認めていない。それは、この女と同じ反応だ。
ゼフィオンは、ぼんやりと視点の定まらぬ眼で女の顔を眺めた。眼に映っているのは女の顔だが、彼が見ていたのは、似ても似つかないアスレシアの顔だ。
それを察したのか、それとも単に反応の鈍い彼に失望したのか。女は口を閉ざすと辛そうに目を逸らして立ち上がった。
「とにかく今はゆっくりと休んでください。滝に落ちた時に、岩で打って怪我をしているようです」
「ああ……。そうだろうな」
体中に響く鈍痛に改めて顔をしかめながら、ゼフィオンはうなずいた。軽い打撲ならば、もう治っているはずだ。骨にひびでも入っているかもしれない。
「焦っても仕方がない……か」
ふと、ひとりごちた。アスレシアのことが気にかかる。不安な気持ちは、そう易々と拭いきれるものではない。だが、考えてみたところで自分は何もできぬのだ。溜息と共に焦りを押し出そうとする。
「お連れの、あの女性の事を考えているのですか?」
ゼフィオンを見下ろして、女が問いかけてきた。その視線に言いようのない居心地の悪さを感じ、彼は身体を小さく揺らした。
「……ああ。まあ、な」
「恋人、なのですか?」
何気なく発せられたその問いに、ゼフィオンは自分でも驚くほど動揺した。
「………」
一瞬、空に目を泳がせた後、どうしてよいか分からず女に背を向けた。大きな動作は体中に鈍痛を走らせたが、顔には出さずに我慢する。
「いや……違う。恋人ではない」
動揺を鎮められぬまま、とりあえず事実だけを答える。女がどんな顔で自分を見ているのか振り向きたい気もしたが、何となくできなかった。
「……大切な人なのですね」
女が確認するように言った。
「………」
肯定はしない。だが、否定もしない。
女が立ち上がる気配がした。一瞬、身を硬くして構えたゼフィオンの背に、女は小さく笑い、安心してくださいと言い置いて出て行った。木の扉の軋む音を残し、小屋の中に静寂が訪れる。
(恋人ではないのだが……)
一人残されたゼフィオンは、壁を見つめたまま自問した。
(俺は、アスレシアの事を、どう思っているのだろう)
嫌いではない。むしろ好意を抱いているといって良い。だが、それが恋愛感情なのかと考えると、肯いて良いものか分からなかった。
彼女を助けると同時に監視するのが、コズウェイルから授かった彼の使命だ。そこに特定の感情はないと、この三ヶ月ほどの間、彼はずっとそう信じてきた。
しかし。
いざそんな質問をされてみると、なぜか答えは出てこなかった。その事が余計に動揺を招く。
ゼフィオンは、しばし身じろぎもせずに自分の中の感情を噛みしめていた。が、やがて思い切ったように寝返りを打つと、小さく頭を振った。
(今は、そんな事に捉われている場合ではない。……もう少し動けるようになれば、ペンドラゴンを呼ぼう)
そして、早くアスレシアの元に戻るのだ。二人でサニト・ベイを追う。それが自分の取るべき行動なのだから。迷いも躊躇も必要はない。
ゼフィオンは目を閉じた。
ゆっくりと睡魔が彼をとらえる。
身体の芯に不快なくすぶりを抱いたまま、ゼフィオンは悪夢の中へと帰っていった。
「……っ!」
女が優しく彼の身体を押しとどめ、再び寝台へと寝かせた。荒い息をつき、周りを見回す。粗末な納屋のようだ。干草を利用して作られた簡素なベッドの上に寝かされていた。
「お前は……」
言いながら、ゼフィオンは川辺での出来事を思い出した。間違いない。目の前にいるこの女が、彼を激流へと引きずり込んだのだ。
言葉を切り、じっと女を観察する。
どこにでもいる平凡で善良そうな女だ。何の特徴もない。
「なぜ、あんな事をした?」
できるだけ声を静めて、女に問いかけた。ゼフィオンの汗を拭おうとしていた女の手が、ピタリと止まる。
「………」
「お前の意思か? 誰かに指図されたのか?」
女は、唇を噛んでうつむく。その様子に、ゼフィオンは眉をひそめた。
(サニト・ベイの指示や暗示ではなさそうだな……)
もしも他人の意思で取った行動なら、言い訳の一つでも口にするだろう。だが、女にはまったくその気配はない。むしろ自分を責めているようにも見える。
「理由があるのだろう。なぜ言えない?」
やはり口を開こうとはしない。ゼフィオンは、辛抱強く待った。やがて、女は答える代わりに腕を差し出すと、ゆっくりと袖を捲った。
ゼフィオンの目が吸い寄せられる。
女の白く細い腕。その肘の下あたりに、くっきりと黒い痣のようなものがあった。反射的に力一杯女の腕をつかむ。女は痛みに顔をしかめたが、声は出さず、じっと彼の顔を見つめていた。
「お前も黄昏人か……」
ゼフィオンは、驚きを露わにして女の顔を見た。
黄昏人は、身体のどこかに痣を持つ。ゼフィオンのように生まれながらの者も、アスレシアのように元は人間であった者も、それは同じだ。その痣は刻印と呼ばれ、魔王の紋章である鋭利な翼の形をしているのである。
女の腕にあるのは、紛れもなく黄昏人の刻印だった。
「こんなところで同類と会うとはな……」
女は同意を示して小さく肯くと、ゼフィオンの手を振り払い刻印を服の下へと隠した。ゼフィオンは、信じられぬ面持ちで女を見つめる。
「冥界でもない上に魂を前にしているわけでもない。こんな状況で異なる主を持つ黄昏人と会うとは思わなかった」
「私は、自分以外の黄昏人と出会ったのは、初めてです」
女が初めて口を開いた。その言葉に、ゼフィオンはふと自分の脇腹に目を落とす。彼の刻印は、左の脇腹にあるのだ。
「なるほど。服を切られたので見えたのか」
あの白衣の狂信者たちと闘っているうちに、服を裂かれていたようだ。刻印が顔を覗かせていた。
「俺が黄昏人だったから、川へ引きずり込んだのか」
「はい」
「何のために?」
「………」
重い沈黙が流れる。女に答える意思がないと判断したゼフィオンは、すぐに質問を変えた。
「おまえの主は誰なんだ?」
「……ニスラ」
聞くなりゼフィオンの表情が険しくなる。それは、冥界の魔族なら誰もが見せるであろう反応だった。死神に仕える魔族たちが、最も聞きたくない名であったのだ。
ニスラは、冥界の死神の一人である。爵位は子爵。つまり、コズウェイルやアベリアルよりも下級の貴族になる。だが、地位は低くても、ニスラの持つ魂の豊富さは他の追随を許さない。欲の権化のような歪んだ性格のこの貴族は、魂を手に入れるためならば、同じ魔族を騙し傷つけることも厭わないのだ。かつて、コズウェイルもほぼ手中にしかけていた上質の魂を、あっさりと横合いから奪われた事がある。その折には、ゼフィオンの先輩に当たる魔族が二人、命を落としている。
貪欲、卑劣、酷薄。この三つの言葉が、ニスラを表すのに最も適切な単語なのである。
「ニスラ様の家臣が、なぜあんな邪教集団の生贄などになっていたのだ?」
何となくその理由を感じ取ったが、ゼフィオンはあえて訊ねた。
「……逃げる途中だったのです」
「逃げる?」
女はうなずくと、堰を切ったように話し始めた。
「はい。私は、逃げていたのです。ニスラの手から。……私は、死神の下僕になどなりたくありません。私は人間です。人として生きたいのです。それなのに、ニスラは人間の魂を手に入れるために私を利用しようとするのです。命を助けてやったのだから、自分に仕えるのが義務だと言って……」
(同じだな)
ゼフィオンは、アスレシアの気丈な顔を思い浮かべ、心の中でつぶやいた。
アスレシアも本来死ぬはずであったところを、コズウェイルの血をうけて黄昏人となった。この女も何らかの事情があってニスラに命を助けられ、黄昏人となったのだろう。
(元は人であったのだから、人間として生きたいと思うのも当然か)
アスレシアも未だ人間としての意識の方が強いし、コズウェイルの配下であるとは認めていない。それは、この女と同じ反応だ。
ゼフィオンは、ぼんやりと視点の定まらぬ眼で女の顔を眺めた。眼に映っているのは女の顔だが、彼が見ていたのは、似ても似つかないアスレシアの顔だ。
それを察したのか、それとも単に反応の鈍い彼に失望したのか。女は口を閉ざすと辛そうに目を逸らして立ち上がった。
「とにかく今はゆっくりと休んでください。滝に落ちた時に、岩で打って怪我をしているようです」
「ああ……。そうだろうな」
体中に響く鈍痛に改めて顔をしかめながら、ゼフィオンはうなずいた。軽い打撲ならば、もう治っているはずだ。骨にひびでも入っているかもしれない。
「焦っても仕方がない……か」
ふと、ひとりごちた。アスレシアのことが気にかかる。不安な気持ちは、そう易々と拭いきれるものではない。だが、考えてみたところで自分は何もできぬのだ。溜息と共に焦りを押し出そうとする。
「お連れの、あの女性の事を考えているのですか?」
ゼフィオンを見下ろして、女が問いかけてきた。その視線に言いようのない居心地の悪さを感じ、彼は身体を小さく揺らした。
「……ああ。まあ、な」
「恋人、なのですか?」
何気なく発せられたその問いに、ゼフィオンは自分でも驚くほど動揺した。
「………」
一瞬、空に目を泳がせた後、どうしてよいか分からず女に背を向けた。大きな動作は体中に鈍痛を走らせたが、顔には出さずに我慢する。
「いや……違う。恋人ではない」
動揺を鎮められぬまま、とりあえず事実だけを答える。女がどんな顔で自分を見ているのか振り向きたい気もしたが、何となくできなかった。
「……大切な人なのですね」
女が確認するように言った。
「………」
肯定はしない。だが、否定もしない。
女が立ち上がる気配がした。一瞬、身を硬くして構えたゼフィオンの背に、女は小さく笑い、安心してくださいと言い置いて出て行った。木の扉の軋む音を残し、小屋の中に静寂が訪れる。
(恋人ではないのだが……)
一人残されたゼフィオンは、壁を見つめたまま自問した。
(俺は、アスレシアの事を、どう思っているのだろう)
嫌いではない。むしろ好意を抱いているといって良い。だが、それが恋愛感情なのかと考えると、肯いて良いものか分からなかった。
彼女を助けると同時に監視するのが、コズウェイルから授かった彼の使命だ。そこに特定の感情はないと、この三ヶ月ほどの間、彼はずっとそう信じてきた。
しかし。
いざそんな質問をされてみると、なぜか答えは出てこなかった。その事が余計に動揺を招く。
ゼフィオンは、しばし身じろぎもせずに自分の中の感情を噛みしめていた。が、やがて思い切ったように寝返りを打つと、小さく頭を振った。
(今は、そんな事に捉われている場合ではない。……もう少し動けるようになれば、ペンドラゴンを呼ぼう)
そして、早くアスレシアの元に戻るのだ。二人でサニト・ベイを追う。それが自分の取るべき行動なのだから。迷いも躊躇も必要はない。
ゼフィオンは目を閉じた。
ゆっくりと睡魔が彼をとらえる。
身体の芯に不快なくすぶりを抱いたまま、ゼフィオンは悪夢の中へと帰っていった。
2014.07.11(Fri):黄昏人
第四章 一話
また、だ。
いつも自分を見つめてくる多くの視線。好意的なものは一つもない。すべての視線は、冷たく蔑みを持って彼を見下ろしている。遠くから。
痛いほどの視線を背中で受け止めながら、いつものように独りぼっちで家路を急ぐ。
青い空を見上げ、小さな肩でため息をついた。
母から聞いた、ここではない世界の話を思い出す。
そこは、一年を通して夜なのだという。空には太陽と月ではなく、二つの月が交代で昇り、時を告げる。住むものは皆不思議な力を持ち、様々な姿形をしているそうだ。
行ってみたい、といつも思っている。そこが自分にとってどういう場所なのかは分からなかった。だが、心のどこかで自分がいるべき場所はそこだと考えている。
「そうだ。俺がいるのは、ここじゃないんだ」
思わず口に出して言った。そのとたん、すぐ後ろでクスクスと忍び笑いが聞こえた。――それも、複数の。
「よう、ゼフィオン。でかい独り言だなあ」
一番聞きたくなかった声だ。恐る恐る振り返った。
いじめっ子のボルスとその子分たちだ。
ボルスは学校で一番身体が大きく、威張っている少年だった。ゼフィオンは、小柄なうえに性格もどちらかといえば内向的であったので、彼の恰好の餌食だった。帰りに荷物を持たされたり、お弁当を食べられたりするのは茶飯事で、時々それでは物足りなくなるのか、こうして帰り道に彼の後をつけてくる。そして、いつも決まって言うのだ。
「せっかくだから、ウサギ狩りをして遊ぼうぜ」と。
今もやはりボルスは言った。ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべて。
「ウサギ狩りには、ウサギがいなくちゃ話にならないからな」
「……俺はウサギじゃないよ」
精一杯勇気を振り絞って、ゼフィオンは言った。だが、ボルスはあっさりと笑い飛ばすと、肩から下げていたゼフィオンの鞄を掴む。
「偉そうな事言ってんじゃねえよ。せっかく俺たちが遊んでやろうって言ってるのに、断るってのか?」
「でも……」
ボルスに鞄を思い切り引っ張られ、勢いあまって地面に身体ごと投げ出された。ドサリと膝をついたゼフィオンに、容赦ないボルスの声が降りかかる。
「ようし。今日の獲物の黒ウサギを見つけたぜ!」
それが、合図なのだ。聞くなり、ゼフィオンは大慌てで逃げ出した。ぼんやりしていたら、彼らの“獲物”として袋叩きにされてしまう。彼が唯一痛い思いをしなくてすむには、彼らから逃げ切って家に入るしかないのである。
「十数える間だけ待ってやる!」
ボルスの大声を小さな背中で聞き、ゼフィオンは懸命に走った。
村へ続く街道から逸れ、森の中へと入り込む。木々の合間を抜け、草をかき分け、がむしゃらに走る。
すぐに心臓が破裂しそうになり、顔も耳も熱くなった。喉がカラカラに渇いて、痛い。それでも走るのはやめない。自分の鼓動だけが耳を打つ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ!
脳内で叫ぶ本能の声に盲目的に従い、本物の追われるウサギのようにゼフィオンは森の中を駆け抜けていく。
(もう嫌だ!)
心の中で叫んだ。
なぜ、いつも自分ばかり苛められるのか。自分が何をしたというのか。
(こんな世界はもう嫌だ!)
村の中でも、母とゼフィオンは冷たい視線に晒されている。買い物に行っても、いつもひそひそと噂され、指を差される。それが決して良い感情のものではない事を、ゼフィオンは幼い頃から敏感に感じ取っていた。
理由は何なのか分からない。ただ、彼の母が時折変わったことを言うのが一因だ、というのは学校で耳にした事があった。
(変わってなんかいない。俺も母さんも普通なんだ。みんなと同じなんだ!)
母は本当のことを言っているだけだと、ゼフィオンは固く信じている。なぜなら、母が話す異世界の話は、あまりにも現実味があって真に迫っているからだ。本当に見たことがあるのではないかと思うぐらいに。
「こっちだ! いたぞ!!」
ボルスの声だ。ゼフィオンは振り返った。まさしく獲物を見つけた猟犬そのものだ。目を輝かせ、ボルスはゼフィオンとの距離を縮めてくる。
また、いつものように殴られ、蹴られ、ボロボロになるのか。そう思ったら、悔しくて情けなくて涙が出てきた。
(嫌だ。もう嫌だ。みんな死んでしまえ!)
足がもつれて転んだ。ボルスがあっという間に追いつくと、勝ち誇った表情で彼を見下ろした。
「すばしこいウサギだな」
子分たちもぞろぞろやってきて、ゼフィオンを取り囲む。いつもの事だ。
ゼフィオンは両手を握りしめた。鼓動は一向に治まる気配を見せず、耳鳴りも激しく続いている。喉が焼けるように熱い。走ってきたからだけではない。怒り、悔しさ、悲しさ、恨み。あらゆる負の感情がゼフィオンの小さな身体に満ちていた。
「お前ら……許さない」
ほとんど無意識のうちに口に出していた。それを聞きとがめたボルスが、せせら笑う。
「へえ。お前に何ができるって言うんだよ。ウサギのくせに!」
ボルスの強烈な蹴りを腹に受け、ゼフィオンは身体を折った。瞬間。
どくん。
体中の血管が、大きく波打った。
(え……?)
何だ。これは。
ゼフィオンは息を呑んだ。こんなものは、今まで感じた事がなかった。体中の血が逆流していくような、不思議な感覚。
「う……」
熱い。喉が熱い。体中が熱い。燃えてしまう……!!
ゼフィオンは、喉を押さえて突っ伏した。息ができない。何とか声を出して助けを求めようとした。だが、その口から洩れたのは。
「グゥゥ」
あろうことか恐ろしい獣の声。
自分でも愕然とした。頭の中が完全に白紙になる。
何だ、この声は? こんなものが自分の声なのか? これでは、まるで……。
不意に、目の前がぼんやりと薄暗くなった。かすんだ視界の向こうで、ボルスたちが恐怖の叫び声を上げた。自身がどうなっているのか。ゼフィオンにはまったく理解できなかった。ただ本能の赴くままに、ゆらりと立ち上がる。――4本の足で。
「ガアァァァッ!」
体内に蓄積されたすべての負の感情を吐き出すかのように、ゼフィオンは咆哮した。覚醒。まさに今の自分だろう。
大地を蹴ると、逃げ惑うボルスに追いつき、その太った首に力一杯牙を立てた。血が口中に溢れる。それを迷うことなく飲み下す。血の香りと味が咽喉を滑り落ちる感触に、歓喜の震えを抑えることができなかった。
ゼフィオンは知った。
おのれが人ではないことを。
母と自分が、村で迫害を受ける理由を。
そして。
母の話が真実である事を。
夕暮れの中、少年たちを残らず無残な姿に変えて、ゼフィオンは家に帰った。彼を出迎えた母は、目を見開いたまましばらく動かなかった。
震える手が、犬かと見間違うほどの小さな漆黒の狼を両手で抱きしめる。
「母さん……」
ゼフィオンは声に出した。いや、出したつもりだった。だが、内から出てきたのは忌まわしい獣の声。言葉には、ならぬ。
息子の名を呼びながら泣き崩れる母の顔を見上げる。
「母さん……」
――ゼフィオンは、目を開けた。
目の前に、微笑む女の顔があった。
いつも自分を見つめてくる多くの視線。好意的なものは一つもない。すべての視線は、冷たく蔑みを持って彼を見下ろしている。遠くから。
痛いほどの視線を背中で受け止めながら、いつものように独りぼっちで家路を急ぐ。
青い空を見上げ、小さな肩でため息をついた。
母から聞いた、ここではない世界の話を思い出す。
そこは、一年を通して夜なのだという。空には太陽と月ではなく、二つの月が交代で昇り、時を告げる。住むものは皆不思議な力を持ち、様々な姿形をしているそうだ。
行ってみたい、といつも思っている。そこが自分にとってどういう場所なのかは分からなかった。だが、心のどこかで自分がいるべき場所はそこだと考えている。
「そうだ。俺がいるのは、ここじゃないんだ」
思わず口に出して言った。そのとたん、すぐ後ろでクスクスと忍び笑いが聞こえた。――それも、複数の。
「よう、ゼフィオン。でかい独り言だなあ」
一番聞きたくなかった声だ。恐る恐る振り返った。
いじめっ子のボルスとその子分たちだ。
ボルスは学校で一番身体が大きく、威張っている少年だった。ゼフィオンは、小柄なうえに性格もどちらかといえば内向的であったので、彼の恰好の餌食だった。帰りに荷物を持たされたり、お弁当を食べられたりするのは茶飯事で、時々それでは物足りなくなるのか、こうして帰り道に彼の後をつけてくる。そして、いつも決まって言うのだ。
「せっかくだから、ウサギ狩りをして遊ぼうぜ」と。
今もやはりボルスは言った。ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべて。
「ウサギ狩りには、ウサギがいなくちゃ話にならないからな」
「……俺はウサギじゃないよ」
精一杯勇気を振り絞って、ゼフィオンは言った。だが、ボルスはあっさりと笑い飛ばすと、肩から下げていたゼフィオンの鞄を掴む。
「偉そうな事言ってんじゃねえよ。せっかく俺たちが遊んでやろうって言ってるのに、断るってのか?」
「でも……」
ボルスに鞄を思い切り引っ張られ、勢いあまって地面に身体ごと投げ出された。ドサリと膝をついたゼフィオンに、容赦ないボルスの声が降りかかる。
「ようし。今日の獲物の黒ウサギを見つけたぜ!」
それが、合図なのだ。聞くなり、ゼフィオンは大慌てで逃げ出した。ぼんやりしていたら、彼らの“獲物”として袋叩きにされてしまう。彼が唯一痛い思いをしなくてすむには、彼らから逃げ切って家に入るしかないのである。
「十数える間だけ待ってやる!」
ボルスの大声を小さな背中で聞き、ゼフィオンは懸命に走った。
村へ続く街道から逸れ、森の中へと入り込む。木々の合間を抜け、草をかき分け、がむしゃらに走る。
すぐに心臓が破裂しそうになり、顔も耳も熱くなった。喉がカラカラに渇いて、痛い。それでも走るのはやめない。自分の鼓動だけが耳を打つ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ!
脳内で叫ぶ本能の声に盲目的に従い、本物の追われるウサギのようにゼフィオンは森の中を駆け抜けていく。
(もう嫌だ!)
心の中で叫んだ。
なぜ、いつも自分ばかり苛められるのか。自分が何をしたというのか。
(こんな世界はもう嫌だ!)
村の中でも、母とゼフィオンは冷たい視線に晒されている。買い物に行っても、いつもひそひそと噂され、指を差される。それが決して良い感情のものではない事を、ゼフィオンは幼い頃から敏感に感じ取っていた。
理由は何なのか分からない。ただ、彼の母が時折変わったことを言うのが一因だ、というのは学校で耳にした事があった。
(変わってなんかいない。俺も母さんも普通なんだ。みんなと同じなんだ!)
母は本当のことを言っているだけだと、ゼフィオンは固く信じている。なぜなら、母が話す異世界の話は、あまりにも現実味があって真に迫っているからだ。本当に見たことがあるのではないかと思うぐらいに。
「こっちだ! いたぞ!!」
ボルスの声だ。ゼフィオンは振り返った。まさしく獲物を見つけた猟犬そのものだ。目を輝かせ、ボルスはゼフィオンとの距離を縮めてくる。
また、いつものように殴られ、蹴られ、ボロボロになるのか。そう思ったら、悔しくて情けなくて涙が出てきた。
(嫌だ。もう嫌だ。みんな死んでしまえ!)
足がもつれて転んだ。ボルスがあっという間に追いつくと、勝ち誇った表情で彼を見下ろした。
「すばしこいウサギだな」
子分たちもぞろぞろやってきて、ゼフィオンを取り囲む。いつもの事だ。
ゼフィオンは両手を握りしめた。鼓動は一向に治まる気配を見せず、耳鳴りも激しく続いている。喉が焼けるように熱い。走ってきたからだけではない。怒り、悔しさ、悲しさ、恨み。あらゆる負の感情がゼフィオンの小さな身体に満ちていた。
「お前ら……許さない」
ほとんど無意識のうちに口に出していた。それを聞きとがめたボルスが、せせら笑う。
「へえ。お前に何ができるって言うんだよ。ウサギのくせに!」
ボルスの強烈な蹴りを腹に受け、ゼフィオンは身体を折った。瞬間。
どくん。
体中の血管が、大きく波打った。
(え……?)
何だ。これは。
ゼフィオンは息を呑んだ。こんなものは、今まで感じた事がなかった。体中の血が逆流していくような、不思議な感覚。
「う……」
熱い。喉が熱い。体中が熱い。燃えてしまう……!!
ゼフィオンは、喉を押さえて突っ伏した。息ができない。何とか声を出して助けを求めようとした。だが、その口から洩れたのは。
「グゥゥ」
あろうことか恐ろしい獣の声。
自分でも愕然とした。頭の中が完全に白紙になる。
何だ、この声は? こんなものが自分の声なのか? これでは、まるで……。
不意に、目の前がぼんやりと薄暗くなった。かすんだ視界の向こうで、ボルスたちが恐怖の叫び声を上げた。自身がどうなっているのか。ゼフィオンにはまったく理解できなかった。ただ本能の赴くままに、ゆらりと立ち上がる。――4本の足で。
「ガアァァァッ!」
体内に蓄積されたすべての負の感情を吐き出すかのように、ゼフィオンは咆哮した。覚醒。まさに今の自分だろう。
大地を蹴ると、逃げ惑うボルスに追いつき、その太った首に力一杯牙を立てた。血が口中に溢れる。それを迷うことなく飲み下す。血の香りと味が咽喉を滑り落ちる感触に、歓喜の震えを抑えることができなかった。
ゼフィオンは知った。
おのれが人ではないことを。
母と自分が、村で迫害を受ける理由を。
そして。
母の話が真実である事を。
夕暮れの中、少年たちを残らず無残な姿に変えて、ゼフィオンは家に帰った。彼を出迎えた母は、目を見開いたまましばらく動かなかった。
震える手が、犬かと見間違うほどの小さな漆黒の狼を両手で抱きしめる。
「母さん……」
ゼフィオンは声に出した。いや、出したつもりだった。だが、内から出てきたのは忌まわしい獣の声。言葉には、ならぬ。
息子の名を呼びながら泣き崩れる母の顔を見上げる。
「母さん……」
――ゼフィオンは、目を開けた。
目の前に、微笑む女の顔があった。